親子で競馬、行こうよ
2025年11月2日(日)。
東京、高円寺に住む"もうひとつの黒木家"。
第8レース、百日草特別(2歳1勝クラス)に出走するクロノドラクロワを見るため、三つ子の次男・岳と父親の博は、府中の東京競馬場に向かっていた。
中央線から新宿に出て、京王線に乗り換え、府中駅へ。岳は双眼鏡に競馬新聞、それに外でメモを取るのに便利な野帳をリュックに入れている。博は張り切っているのか、この日のために奮発して買った一眼レフを持ち込んでいた。
「ありがとう、父さん。俺のためだけにわざわざ付き添ってくれて」
電車に揺られながら、岳がぼそりと呟く。
「いやいや、大したことない。だって父さん、母さんと出会う前は長くここに住んでたんだから。付き添いついでに思い出に浸りたくてさ」
博は新潟県小千谷市の出身だが、大学進学のタイミングで上京し府中で一人暮らしをしていた。
父の言葉に少し安心したのか、岳は声を落として言う。
「……ほんとは、一人で行こうかと思ってたんだけどさ。俺デカいし、大学生って言ってもバレなそうだったから」
「やめとけ、やめとけ。そういう日に限って、先生たちが週末のパトロールしてんだよ」
「さすがに競馬場になんて来ないでしょ」
「いやいや。プライベートで来てるかもしれない。出席簿の代わりに馬券を握りしめて」
博はいたずらっぽく笑う。
「…………」
岳の頭に、中年の生活指導教諭の顔が浮かんだ。
電車が府中駅に停車する。岳はホームに降りると、話題を変えた。
「どう?町、変わった?」
「そりゃ、変わったよ。もう20年以上も前だぞ」
「姉ちゃんが生まれるより前かぁ」
岳たちには、大学2年生で7歳上の姉・希がいる。
「ほんとは、乗り換えて府中本町まで行けば直通の道があるんだけどさ。町を通っていくルートでもいいか?どれだけ変わったか気になるから」
「うん。時間もあるし、好きにしてよ」
博はいつものすたすた歩きではなく、のんびりと歩き、しょっちゅう足を止めては懐かしそうにため息をつく。
「父さんはさ、ドラクロワ以外に今日見たい馬とかいないの?」
「最近の馬事情は全然知らないからなぁ。でも、岳たちと同い年の頃だと……ちょうどオグリキャップとか、競馬が一大ブームになった時期だった。それこそG1の開催日は、十何万もの人が競馬場に押し寄せたらしい。今の比じゃないくらいの数」
オグリキャップなら、岳も名前だけは聞いたことがある。
1980年代末から1990年代初頭にかけて活躍した芦毛の怪物、希代のスーパーアイドル。
社会現象を起こして競馬人気を爆発させた功労者。誰でも名前を知っている、数少ない競走馬。
競馬場に着くと、そこは大勢の観客でごった返していた。
2人は一瞬その喧騒にのまれかけたが、場内のアナウンスやポスターを見てすぐに納得した。
【第172回 天皇賞秋】
「なるほどね。秋の府中のG1の始まりってわけか」
「それも良いけど……父さん。ドラクロワを見ないと」
「はいはい。じゃ、おろしたてのこのカメラで——たっぷり写真を撮ろうか。アトリエにも見せたいしな」
「フラッシュは気をつけて。馬が驚くから」
「了解!!」
東京競馬場の中には、実に沢山の見所があった。
お土産や人気馬のグッズを売っているターフィーショップ。店の前にどでかい馬のぬいぐるみが鎮座してお客さんを出迎えている。背中には「第38回ジャパンカップ アーモンドアイ」と書いてあった。
壁にはゆるくて可愛い馬のイラストや、名馬たちの写真がデザインされており、見ていて飽きない。天井からは沢山のモニターが下がり、東京だけでなく関西やローカルのレース映像もひっきりなしに流れていた。
「いやぁ、すごいな。ちゃんと入ったのは初めてだよ。どう?岳、どこから行きたい。お前の好きにしていいぞ」
岳はさっきから、じっと一点を見つめていた。と、軽く目線で父親にも示す。
「父さん。あそこ、無料でお茶と水を飲める機械がある。1円でも多く馬券にお金を費やせて良心的だ。やっぱり国営の施設は、お金に余裕があるのかな」
「そこかよ」
博は即座にツッコむ。しかし岳は、涼しい顔で時計を見た。
「ドラクロワのレースは……13:55発走でしょ。でも、その前に本馬場入場とパドックがあるから、13時にはパドックの前に陣取りたいな」
「陣取るって……そんなにきっちり作戦立てなきゃいけないのか?G1じゃないんだろ。もっとゆっくり回ったっていいんじゃ」
「でもこの前、新馬戦の時も結構人がいたんだ。写真を撮る人は大体一番前に集まるから、早く行かないと良い場所で観られない」
言われてみれば、外のパドックには博のカメラの何倍も高そうなものを構えたファンが何人も座り込んでいた。
「……思ったよりテキパキ動かなきゃいけないのか。何か、テーマパークみたいだな」
「そうかも。スタンドで場所取りしてる人もいるみたいだし……2人で来てよかった。1人じゃ体が足りないや」
どうやら息子は、想像以上に競馬にのめりこんでいるらしい。博は若干行く末を心配しながらも、結局は我が子を応援したくなるのだった。こんなに何かにのめり込む姿は、初めて見たからだ。




