王道か、雑草魂か
2025年10月末、茨城県・美浦トレセン。
クロノドラクロワ(牡2)の休み明け初戦――2歳1勝クラス・百日草特別(東京競馬場/芝左2000m)を数日後に控えた朝。
空気が張りつめている。
今日は最終追い切り。レース本番の3〜4日前に行う強めの調教であり、陣営にとっても、ファンにとっても、重要な最終調整の日だった。
ドラクロワは坂路を力強く駆け上がる。1ヶ月の放牧を経てついた肉は、パワーへと進化していった。
「……大分絞れてきたな。先週よりフットワークが軽くなった。勝てるかどうかはともかく……馬の力は出せると思う」
ドラクロワの背から降り、青い騎手ヘルメットを脱いだ柚木慎平が、額の汗を拭いながら言った。
「おう」
栗林誠は頷き、手帳を開いてコメントをメモする。彼の視線はすぐに次の課題へ向かっていた。
「この時期の1勝クラスって少ないんだよな。左回りで2000m前後っていったら、もうこのレースくらいしか無くてさ。今年は珍しく頭数が多めだったんだけど……いやー、登録が通って良かったわ。今回は勝つことよりも、色々学ぶことが目的だからな」
2歳馬のクラス分けは、9月以前は未勝利とオープンの二段構え。だが9月を過ぎると、"1勝クラス"が追加され、三層構造になる。
ドラクロワは8月の新馬戦で初勝利を挙げた。そのため一時はオープン入りしたが、放牧を挟んだ結果1勝クラスへ降格していたのだ。
この時期、未勝利戦と3歳以上の条件戦がほとんどを占める中で、2歳の1勝クラスは開催数が少ない。その中でドラクロワの脚質に合いそうな"左回り・長い直線・中距離"を探すとなると、選択肢はさらに狭まる。
格上挑戦で重賞をはじめとするオープン戦に出る手もあるが、そこに出てくる馬たちは、翌年のクラシックを見据えた早熟の化け物揃い。そんな連中を相手にするには、まだドラクロワは未完成すぎた。
その"化け物"の最たる例というと——
誠はスマホを取り出し、スポーツサイトを開く。「注目の若駒特集」と題された記事が目に飛び込んできた。
【新馬戦で2歳レコード更新 サンクチュアリ産駒・ニルヴァーナ(牡2、神田勝HD)
札幌2歳ステークス完勝 次走は東スポ杯2歳ステークスが有力か】
「お、サンクチュアリ産駒……ってことは将来狙うは天皇賞だな。春秋連覇なんかしたら絵になるねぇ」
サンクチュアリは、2013年の菊花賞、2014年と2015年の天皇賞・春を制した名馬。その名は"聖域"の象徴として今なお語り継がれている。勝ち鞍を見ると純粋なステイヤーのように思えるが、意外にも産駒の適正距離は幅広く、昨年はリーディングサイヤーにも輝いていた。
柚木はその名を聞くと、ぼそりと口を開いた。
「……あの馬、前に一緒に走ったことがある」
「覚えてるよ。春天だろ、2014年の。お前が12番人気を2着に持ってきたもんだから、スタンドの悲鳴がえげつないことになってたやつな」
「あの馬は、強い。1頭だけ、まるで別の世界を走ってるみたいだった。差し脚が異次元で……」
「ほう。そりゃまさに、"聖域"にいる馬だな」
「……そうだな。正直、あの時は俺ができる最大限の騎乗だったと思う。でも相手が強すぎた」
親友の言葉に、誠は肩をすくめて笑った。
「ま、そういう王道の馬もいいけどさ。地味で泥臭いのも悪くないぜ。ドラクロワみたいな―"雑草魂"ってやつ」
◇◇◇
誠と柚木は事務室のソファに腰を下ろした。それぞれの目の前には、熱いコーヒーとほうじ茶。誠がコーヒー豆のかすを処理しながら、思い出したように口を開く。
「そういえば、この前の三つ子。またレース見に来るってさ」
「東京の子たちか」
「そう。でも今回は真ん中だけ。岳くん」
「穣くんと律くんは?」
「長男は剣道の試合で、三男は寄席に行くんだと」
「……バラバラだな」
誠は笑いながら言葉を継ぐ。
「岳くん、ちょっとお前に似てるよ。クールで口数少なくて、でもたまに鋭いこと言う」
似ているかどうかはともかく――その観察眼は、柚木も認めざるを得なかった。
以前、三人がトレセンを見学に来たときのこと。
穣と律は、目を輝かせながら誠の説明を聞いては、素直な質問を次々と投げかけていた。
「このヘルメットの色って、何か意味あるんですか?」
「ゼッケンの色が違うのはどうして?」
彼らの興味は、視覚的で分かりやすい。
だが――岳だけは、少し違っていた。
兄弟の後ろに控え、黙って周囲を観察していたかと思うと、やがてすっと手を挙げた。
「栗林さん。さっき、美浦には2300頭くらいの馬がいて、厩舎が100くらいあるって言ってましたよね」
「おう、そうだよ。人より馬の方が多いかもしれないな」
「はい。でも……見た感じ、馬房の数より馬の数の方が多い気がしたんです。馬房に入りきらない馬たちは、どこで寝てるんですか?」
その質問に、誠は一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに口角を上げて、外厩システムについて熱心に語り始めた。
岳は――クロノドラクロワだけでなく、競馬という構造そのものに惹かれつつあるのだろう。柚木が思うに、それが誠には嬉しかったのだ。
だが、今回のレース。
ドラクロワの状態は悪くない。だが"良い"というのはあくまで絶対的な評価で、他馬との相対的な力で見れば、まだ上位には遠い。実際、新聞の馬柱にも評価はぽつぽつとしか並んでいなかった。
新馬戦を勝った姿をあの子が見ているだけに……今度、惨敗したら、どんな顔をするだろう。いくら今回のレースが勝ちよりも学び重視とは言え、ぼろ負けする姿を見たら……
柚木はぽつりとつぶやく。
「やれることはやる。でも……結果は保証できない。そう伝えてくれ」
「心配すんなよ」誠は笑いながら、コーヒーを口にした。
「あの子は勝ち負けの先を見てる。ほら、テストの結果で一喜一憂するより、間違った問題を分析するタイプだ」
柚木は小さく頷き、言葉を返した。
「……そうか。なら、よかった」
サンクチュアリ(Sanctuary)
2010年生 牡15 鹿毛
父:Archaic Smile
母:アシュラ
母父:ラゴノアシュラオー
生産牧場:ノーザンファーム(安平町)
馬主:神田勝ホールディングス
勝負服:白、青駒形、青袖
戦績:24戦10勝(9-3-2-10)
ニルヴァーナ(Nirvana)
2023年生 牡2 鹿毛
父:サンクチュアリ
母:マインドフルネス
母父:Never Mind
生産牧場:ノーザンファーム(安平町)
馬主:神田勝ホールディングス
勝負服:白、青駒形、青袖
戦績:2戦2勝(2-0-0-0)




