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新潟外回り2000m




(もし、その時が来たら――

ドラクロワが本当に力をつけ、あのレースに挑戦できるような馬になったら……

もう一度、息子に釘を刺しておかなきゃならねぇ)


康成はグラスを軽く回しながら、黙って天井を見上げた。


オドリコ以降、黒木牧場の馬で新潟大賞典を使った馬は1頭もいない。

37年ものあいだ、ただの1頭も。それは偶然ではない。

黒木牧場の生産馬は代々スプリントからマイル戦に強い馬が多く、中距離を主戦場とするタイプは少なかった。クロノロビンもクロノロジャーも、主戦場はマイルまで。栗林厩舎が「短距離王国」と異名を取るのも、縁の深い黒木牧場が短いところに強いのが理由だった。

ゆえに、誰もあのレースを使うことがなかった。誰も、パンドラの箱を開けようともしなかった。


だが、ドラクロワは違う。

あの骨格、あの脚、父シビルウォーの血。新馬戦で見せた伸び脚を思えば、どう見ても中距離向きだ。しかも、新馬戦の舞台は新潟。あの長い直線を真っすぐ駆け抜けた。

――脚は、確かに"あの舞台"に合っている。


もし、このまま順調に力をつけていけば。いつか、息子があの言葉を口にするだろう。


「父さん、ドラクロワで新潟大賞典に出たい」


その未来を思うだけで、康成の胸がざわついた。


(ドラクロワが強くなることを、素直に喜べない自分が嫌になる……)


馬に罪はない。馬はただ、前を向いて走るだけだ。

それでも――

あの日のことを知る者にとって、新潟の直線はあまりにも長すぎた。




康成は壁にかかった2着の古い勝負服を見上げた。

1着目は黒胴に白二本輪、白袖に灰一本輪。クロノレーシングの象徴ともいえる、落ち着いたモノクロの装いだ。

あの新潟大賞典で実際に着ていた勝負服は、現在は日高・黒木牧場の展示室に飾られている。優勝レイとゼッケンと並び、ガラスケースの中で静かに時を止めていた。この市川の家に掛かっているのは、レプリカの勝負服だ。


もう1着は、新潟大賞典から3年後――1991年、日本ダービーでゴーカイテイオー号と無敗の二冠を達成した際に着ていたものだ。ゴーカイの勝負服の色褪せた白いサテンの布地に、桃色の袖と青いラインが淡く浮かぶ。


(誠はロマンだけで"あのレース"を狙っているわけじゃない。もちろん憧れはあるだろう。けど、一番の理由は……単純に"新潟の外回り2000m"がドラクロワに一番合っているからだ)


2000mの重賞などいくらでもある。

G1なら皐月賞に秋華賞、大阪杯に天皇賞・秋。G2やG3を挙げるだけでも、金鯱賞、中日新聞杯、函館記念、札幌記念、小倉記念、福島記念――きりがない。

特に新潟と同じ左回りの2000mなら、中京の金鯱賞や中日新聞杯はまさに代案になる。


(……勇さんなら、言うだろうな)

("新潟大賞典に出すくらいなら、そっちを使え"って)


康成は深く息をついた。

(だが、誠はそれでも――あの場所に行きたいんだろうな)

視線をもう一度、壁の勝負服に戻す。その黒と白の輪が、ゆらりと揺れたように見えた。




8時半頃、玄関のチャイムが鳴った。制服姿の成美が顔をのぞかせる。

「おじいちゃん、こんばんはー」

「おう。部活、頑張ってるか」

「まだボールに慣れないや。見てよー、この手首。赤くなっちゃった」

「ありゃ。帰ったら冷やしとくんだぞ」

「うん。パパ、帰るよ」


その声を合図に、誠もようやく腰を上げた。酔いが回っていたのか、天井の梁に頭をぶつけそうになり、苦笑する。

誠の身長は183cm。父の康成よりはるかに高い。その体格ゆえ、彼は騎手にはなれなかった。

だが中学時代、偶然同じクラスにいた柚木慎平を見いだす。その佇まいに、かつて自分が夢見た"騎手"の姿が重なった。


以来、誠は厩務員から調教助手、そして調教師へ。競馬学校を卒業して騎手になった柚木と長年コンビを組み、幾多のレースを共にしてきた。

その柚木慎平の誕生日は――1988年5月15日。しかも、誕生時刻は午後4時頃だという。


(発走時刻は15時50分だった。レースが終わった頃に、生まれたのか……)


グラスの氷が静かに溶けていく音だけが響いた。


康成がぽつりと口を開いた。

「気をつけて帰れよ。車には注意すんだぞ」

そして、わずかに間を置いてから続けた。

「……お前がドラクロワを大事に思う気持ちはわかる。

けどな、誠。ドラクロワは"お前の馬"じゃない。黒木牧場――クロノレーシングの馬だ。

所有権は馬主にあるってことを、忘れんな」

「おう」

誠は聞いているのか聞いていないのかわからない様子でうなずき、靴を爪先に引っかける。

成美は「おじいちゃん、また来るね」と言い、父と並んで家を出た。


夜風が少し冷たい。500m先に見える自宅の灯りを目指して、2人の影が、ゆっくりと伸びていった。


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