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その馬、未だ放牧中


半弟の名は「クロノドラクロワ」に決まった。

渉は三つ子たちから届いたメッセージを見ながら、登録申請の手続きを黙々と進めていた。一文字ずつ、間違えないように馬名申請フォームに打ち込む。


「クロノドラクロワ(Chrono Delacroix)」


響きも意味も、彼ららしい。きっとファンの心にも残る。

送信ボタンを押したあと、ふと思い出したようにマウスを動かす。

カーソルは自然と、ブラウザの別タブへ——

ブックマークから該当ページを開き、クリック。

4歳になった今も更新が途絶えたままの、そのプロフィールが現れた。


クロノアトリエ(Chrono Atelier) 

2021年生 牡4 鹿毛

父:ケイムホーム

母:クロノマキアート

母父:マンハッタンカフェ

生産牧場:黒木牧場(浦河町)

馬主:クロノレーシング

調教師:栗林康成(美浦)

戦績:8戦0勝(0-4-2-2)

放牧中


「登録抹消」ではない。依然として、ステータスは「放牧中」のままだ。


正確に言えば、逃げた。

2024年の秋、未勝利戦の最終盤。

勝てなければ「足切り」の宣告をされる3歳9月に、アトリエは忽然と姿を消した。

厩舎の扉はしっかり閉じられていたはずだった。

だが、まるで“わかっていた”かのように、彼はそこから抜け出し姿を消した。まるで、自分の運命に抗うように。


数ヶ月後、関係者の間に衝撃が走る。


Facebookの投稿。

東京・高円寺の、とある大邸宅の庭先。

家族の真ん中で上唇をむき出し、こちらに笑いかけるような——見事なフレーメン反応で写るアトリエの姿がそこにはあった。


投稿にはこう記されていた。


「元競走馬の“アッくん”です。今は家族になって、毎日庭でのんびり過ごしています」


渉は最初、コラ画像かと思った。

……だが、その馬の姿には見覚えがありすぎた。

好奇心旺盛な目、太めの流星、少しハネ気味のたてがみ。

紛れもなく、黒木牧場生まれの——クロノアトリエだった。


その家族は、かつて寺院だったという敷地に住んでいた。

東京都は杉並区・高円寺。古くから寺町として知られる土地。その本堂跡に佇むモダンな大邸宅の中庭に、アトリエ専用の馬房が作られた。

毎朝の散歩では、近所の人々が「アッくん、今日も元気ね」と声をかける。地域の人からはご神馬のように慕われているらしい。

お参りの対象でも、神社の馬でもない。けれど、自然と人が集まってくる不思議な存在。子どもが撫で、大人が写真を撮り、高齢者がにんじんを持ってくる。


人懐っこさは現役時代からだった。

調教助手にもすぐに懐き、馬房に誰が入ってきても耳を伏せるようなことはなかった。

ただ、それはレースでの“勝ちたい気持ち”とは別の話で——

実際、アトリエは一度も勝てなかった。


「闘争心、なかったもんな……」


先頭に立つとペースを緩め、並ばれると楽しげに並走してしまう。勝ち切れない、というより“戦う気がない”馬だった。


けれど、それでも誰も彼を嫌うことはなかった。

むしろ、どこか憎めない……いや、愛される馬だった。

だからこそ、今の暮らしが——きっと、彼には一番合っている。

今もなお、愛されて。毎日を“放牧”している。


「抹消、とは言えないな」

渉はそう呟きながら、ページをそっと閉じた。

放牧中——この表記を、変えるつもりはしばらくない。



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