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そのレースには手を出すな



1988年5月16日。

前日の新潟大賞典で黒木牧場が初の重賞制覇を果たしたその翌日。アメリカの大手企業、B&Bインダストリー日本支社長・ジョージ=ブラック(43)が交通事故で死亡したというニュースは、競馬界を越えて世間を震撼させた。B&Bの株価は大きく変動し、経済誌のトップを飾るほどの大事件となった。


だが、その報せがもたらした衝撃はひときわ深く黒木牧場とクロノレーシングを直撃していた。

開業当初の黒木牧場は小規模で、馬主を兼ねる余裕などなかった。資金も血統も浅い零細牧場だった。


そんな中で救いの手を差し伸べたのが、アメリカで勇が出会ったジョージ=ブラックである。勇と同い年で、若き日の勇のアメリカ修行時代、アパートの隣室に住んでいた男だ。当時ジョージは日本進出を目指す父・ピート=ブラックの命を受け、日本支社の設立を任されていた。


その傍らで勇の夢に一役買い、共に立ち上げたのがクロノレーシングだ。生産者の勇が馬を育て、馬主のジョージが所有する――日米合作の小さなチームだった。


だが、その"馬主"がいなくなった。オドリコを含めた10頭近い馬たちは、行き場を失った。

牧場の運営資金も途絶え、すべてが崩壊寸前だった。




そんな中、葬儀の日。喪服姿の父・ピートが、勇の前に現れ、無言で折り畳まれた一枚の紙切れを差し出したのだ。

その紙は、古びた1977年のセリ市のチラシの裏面。勇とジョージが初めて一緒に馬を買いに行った、クロノレーシング"1期生"のセールの日のものだった。

そこには、確かにジョージの筆跡でこう記されていた。


"For Chrono. For Isamu. — Joji"


彼の本名は「譲二」。祖父が日本人だったため、日米どちらでも通じるようにと付けられた名。だから彼は、いつも「George」ではなく"Joji"と署名していた。


(あいつ……セリの最中に、こんなこと書いてたのか)

勇は、震える指でその紙を握りしめた。


ジョージには妻も子もいなかった。末っ子だったため本土にある社長の席を継ぐ義務もなく、小さな島国の支社長として自由気ままに生きていた。

だが、そんな男が――

親友と、その牧場の未来にすべてを託すとは、誰が想像できただろう。


結果として、その遺産が黒木牧場を救った。

牧場は個人馬主から"オーナーブリーダー"へと形を変え、新しいトレーニング施設を建て、一口クラブを設立し、次々と新しい馬たちを送り出した。ジョージの会社の知名度と人脈も相まって、資金が集まり、牧場もクラブも息を吹き返した。




康成は、ゆっくりとグラスを置いた。そして、胸の奥に沈む考えを誰にも聞こえないように呟いた。


(……誠は、自分の生まれた年に俺が乗って勝ったレースを狙ってる。その気持ちは分かる。

だが、その思いが――思わぬ古傷をえぐるかもしれない。もしかしたら、牧場から初めて"そのレースは使うな"って口出しがあるかもしれん……)


脳裏に浮かぶのは、今は牧場を息子に任せ隠居している男――黒木勇の姿。

勇は終戦の年、1945年生まれ。今年で80を迎える。20年前に経営を息子の渉へ譲り、今は牧場の一角にある離れで静かに暮らしている。それでも、牧場を訪ねるときは必ず立ち寄る場所があった。


展示室。

そこには、これまでのクロノ一族の栄光がガラスケースに収められている。そして勇が必ず立ち止まるのは、一枚の写真の前だ。


1988年5月15日 GⅢ 新潟大賞典優勝 

クロノオドリコ号(牝5)


<黒木牧場 初の重賞勝利>


勇は、いつもガラス越しにその写真を見つめ、何も言わない。時折、手のひらで軽くケースに触れ――

まるで、そこに眠る誰かに語りかけるように目を閉じる。




あれから37年。

牧場はG1を勝ち、2006年にはクロノロビンがスプリンターズステークスをレコードで制した。2017年にはその息子、クロノロジャーがフェブラリーSを制し、種牡馬入りも果たした。


それでも、勇の胸の穴は埋まらなかった。勝利の数でも、栄光の重ね塗りでも。


――何が足りないのか。

――何を失ったのか。


康成には、うすうす分かっていた。

(初めて重賞を勝ったあの日、勇さんの隣に"いなかった人"のことを、あの人は今も抱えてる)


勇が見つめるのは、写真の中に写らなかった男。



ジョージのお父さん、ピート=ブラックは2012年天皇賞春の勝ち馬・ビートブラックから取りました

栗林康成は文豪の川端康成、クロノオドリコは川端の代表作「伊豆の踊子」から取っています

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