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アメ車は左ハンドル



康成の脳裏に、37年前の光景がよみがえる。


映し出されたのは、当時の黒木牧場の主――現牧場長・渉の父であり、牧場の創業者の黒木勇。

その隣には、先代の栗林厩舎のボスであり、康成の父でもある栗林徳太郎の姿があった。そして当時25歳の自分は、光沢のある美しいサテンの勝負服——黒胴に白二本輪、白袖に灰一本輪。クロノレーシングの勝負服に身を包んでいた。


レース前の検量室。慌ただしく人が行き交う中、康成が声をかける。

「どうしたんです。そわそわして……重賞だから、やっぱ緊張します?」

「いや、違う」徳太郎は低く言い、声を潜めた。

「……馬主がまだ来てないんだ」

「えっ?ジョージさん、必ず来る人じゃないですか。自分の馬だけじゃなくて、前のレースから来て他の馬も眺めてるのに」

「さぁな……。ま、お前はレースに集中しろ。"このレースが牧場の歴史を変える"なんて、絶対に考えんな」

「……はい」

父の言うとおりにした康成だったが、どこか違和感を感じていた。


勇はその間、何度も公衆電話をかけていた。だが、ジョージ=ブラックは出ない。

(運転中か……? 新潟競馬場は初めてだし、道に迷ってるのかも。もしくは――また、あのバカでかいアメ車で側溝にでも落ちてんのか……)


クロノレーシング創設者であり、黒木牧場の最大の支援者。日系アメリカ人2世のジョージ=ブラック。彼はいつも、現地入りの際に愛車の黒いアメ車を自ら運転してきた。

時間効率を考えればプライベートジェットを使う方が早い。だが彼は、幼いころ日本で祖父の軽トラックの荷台に乗り、風を浴びた思い出が忘れられないのだという。

だから、どんなに地位が上がっても、あの感覚をもう一度味わうためにあえて車で、ゆっくり日本の道路を走る。そんな、少年の心を持った男だった。


しかし――その日、ジョージは現れなかった。


ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

クロノオドリコが、黒木牧場に初の栄冠をもたらす。

だが、ウイナーズサークルに彼の姿はなかった。


牧場主の勇が代役として口取りに立ったが、心の中はどこか晴れなかった。


"何かがおかしい"そう感じていたその時。観客のざわめきが、勇の耳に飛び込んできた。


「おい、すぐ出られないって」

「えっ?どうして?」

「事故だよ。入場門の前で衝突事故だってさ。今、騒ぎになってる」

「そんなに酷いの?」

「トラックと……でけぇ車が正面衝突。車の左側がぐしゃりだって」


――でけぇ車。


勇の脳裏に、黒いアメ車がよぎる。


(まさか)


「助手席にいたやつはお陀仏かもなぁ」

「そうかも。消防車が出動してるんだと」

「あー、それじゃもう……」


"助手席"という言葉を聞いて、勇は一瞬胸を撫で下ろした。だが数秒後、恐ろしいことに気づく。



「アメ車は左ハンドル」



——つまり、日本車なら助手席であるところが逆転して運転席になる。大破したのは、ジョージがまさに乗っていた側ということ……



勇の顔が蒼白に変わり、声にならない叫びが漏れた。

「ジョージ……!!!」




「どいてくれ!!通してくれ」

勇は、観客を必死にかき分けながら入場門の前へと駆けた。

叫び声、サイレン、焦げたゴムの匂い。

そこにあったのは、左側が削ぎ落とされたように大破した黒いマッスルカーだった。車体は黒く焦げ、ボンネットは波打ち、フロントガラスは蜘蛛の巣状に割れている。牽引車が、ゆっくりと残骸を運び出そうとしていた。


その後部座席の窓際に――

アメ車には不釣り合いな、朱色の布地のお守りがぶら下がっていた。


それを見た瞬間、勇の心臓が止まった。

「……ジョージ……?」


野次馬の人垣に押されながらも、勇は目を逸らせなかった。

あの車は、間違いなく――ジョージ=ブラックの愛車だ。後部座席の赤いお守りは、数年前に勇がジョージにプレゼントした交通安全のお守りに違いなかった。


勇は思わず、近くにいた観客の肩を掴んだ。

「おい! あの車に乗ってたやつは!?」

観客は驚いたように振り向く。

「え? えぇと……担架に乗せられてたよ。

顔は……見えなかったけど……」

別の男が口を挟んだ。

「外人さんだったよ。いや、車の窓が開いててさ。

トラックが突っ込む寸前に、"あぶない!!"って叫んでた気がするけど……まさか日本語なわけないしな。空耳だろ」



(watch out、じゃなく……"あぶない"、か)


勇の耳の奥で、その言葉が響き続けた。

ジョージは日本語を完璧に話した。競馬大国のアメリカに生まれながら、日本の馬を愛し、日本の風景を愛し、そして――

最後に口にした言葉も、やっぱり日本語だったのだ。




その瞬間、康成はふっと我に返った。

グラスの中の酒が、わずかに揺れている。

誠は、父の顔を静かに見ていた。


「……親父?」


康成は、かすかに笑った。

「いや……なんでもない。

あのレースには、いろんなことがあったんだよ」




クロノオドリコ(Chrono Odoriko)

1983年生 牝 青毛

父: ダンスインザムーン

母:ダンシングクロノ

母父:Dancing Hero

生産牧場:黒木牧場(浦河町)

馬主:クロノレーシング

勝負服:黒、白二本輪、白袖灰一本輪

戦績:22戦5勝(5-2-4-11)


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