憧れのレース
2025年10月。
放牧を終えたクロノドラクロワは、美浦トレセンに戻り、秋の2歳1勝クラスを目標に調整を進めていた。
(完全に仕上がるまでには、まだまだかかるな。体重もまた増えたし……この感じだと、550キロ近くまで行くかもしれない)
誠は調教師用の黒いヘルメットを脱ぎ、額の汗をぬぐった。
半兄・クロノアトリエは520キロ台。大柄ながら、優しい目に少しハネたたてがみは、どこか柔らかく穏やかな雰囲気をまとっていた。"気は優しくて力持ち"という言葉が似合うだろう。
対して、ドラクロワの体は彫刻のように艶やかな黒だ。2歳馬にしては筋肉の張りも鋭く、全身から緊張感が滲み出る。まるで屈強な騎士か、無口な用心棒のような迫力がある。
新馬戦ではマイル(1600m)を使ったが、誠は次走で距離延長を考えていた。父シビルウォーが中距離で活躍した血統を思えば、ドラクロワも2000m前後が合うはずだ。
――もし、中距離が得意なら。いずれ、あのレースに出したい。
GⅢ・新潟大賞典。
1988年5月15日。黒木牧場が初めて重賞を制した記念すべきレースだ。誠のスマートフォンの壁紙には、1枚の古びた写真が映っている。
その主――クロノオドリコ。誠の父・栗林康成を鞍上に、牧場に初の栄光をもたらした牝馬だった。
2002年、まだガラケーを使っていた頃。牧場で放牧されていた引退後のオドリコを、誠は初めて自分の携帯で撮った。画質は荒く、今では色褪せた写真だが、スマホを買い替えても壁紙だけはずっと変えていない。
オドリコはもう、この世にいない。撮り直すことなどできないのだ。
そして――その勝利の日、1988年5月15日は、親友であり相棒でもある騎手・柚木慎平の誕生日でもあった。
(……不思議なもんだな)
飼い葉をもぐもぐと食むドラクロワを見ながら、誠はスマホを取り出す。画面の中の青毛のオドリコと、目の前の青鹿毛のドラクロワ。世代を重ねて、血の流れは確かに繋がっている。
「いつまで見てるんだ」
振り向くと、柚木が立っていた。手には、同じく黒木牧場出身で今年デビューした芦毛の牝馬――スターフィーユの調教ノート。ドラクロワも、フィーユも、柚木が鞍上を務めている。
「お、慎平」
「帰る」
短く言うとノートを誠に渡し、柚木は荷物をまとめた。
「どうだ、ドラクロワの感触は」
「反応はいい。やる気はある」
「(はしょりすぎだろ)」誠は心の中で苦笑する。
「とんとん勝ち上がれればいいけど……休み明けだし、あいつは多分晩成型だ。しばらくは歯がゆい時期になるかもな」
誠の言葉に、柚木は小さく頷いた。
「まあ……それでも、まず1勝はできたんだ。1と0じゃ、大違いだろ。特に若駒は」
それだけ言って、彼は背を向けた。
沈む夕陽に照らされながら、柚木の姿がゆっくりと厩舎の影に溶けていく。誠はもう一度、スマホの画面を見つめた。そこに写る、黒い馬の姿。
そして、その血を継ぐ、もう一頭の黒い馬。
「……あのレース、もう一度獲りたいな」
その夜、誠は市川の自宅に帰らず、同じ市内の実家――父・康成の家へ足を運んだ。
「香織?ごめん、今日ちょっと実家寄るわ。夕飯は大丈夫」
すると電話口から、穏やかな声が返る。普段は夫を尻に敷いている鬼嫁だが、珍しく今日は機嫌が良い。
「そう?わかった。……あ、もしお義父さんたちがよかったら、成美をそっちに向かわせてもいい?
今日、部活で遅いらしいの。8時頃に帰るって。おじいちゃんたちに顔見せて、そのまま一緒に帰っておいでって言っとく」
「おう、助かる。じゃ」
誠と香織の娘、成美は中学1年生。誠によく似て背が高く、学校ではバレー部の期待の新人として汗を流している。5歳から乗馬を続けてきたが、中学には馬術部がなかったため、今は新しい世界で挑戦中だ。
居間では、父と息子がちびちびと酒を酌み交わしていた。テレビの音が小さく流れ、壁に掛けられた古い勝負服が、どこか懐かしさを添えている。
ふと、康成がぽつりと口を開いた。
「……で、どうだ。ドラクロワ。今のところ、お前に任せてるけど」
誠は水割りのグラスを回しながら答える。
「とりあえず、11月の1勝クラスを目標に調整中。
まぁ……勝てるかどうかは正直わからない。動きは悪くないけど、上の馬たちに通用するかどうか……」
「うん。見た感じ、まだ完成には遠いな」
康成は小さく息をついた。
「新馬戦を勝てたのはいいけど、タイムは遅めだった。相手関係に恵まれた――って線もある」
「まあ牡馬だし、クラブ規定の引退は決まってないからさ」誠は笑って言った。
「じっくりやれば完成してくれるさ。時間をかければ、あいつは伸びる」
「……のんきなこと言いやがって」康成は口元を緩め、グラスを傾けた。
「ま、黒木牧場さんだからな。絶対勝たせろとか、このレースに出せとか――そういう無理を言ってこないのは救いだ」
誠も苦笑した。
父とこうして酒を飲むのは、何年ぶりだろうか。話す内容はいつだって馬のことばかり。
けれど、それが一番落ち着く。
「次のレースだけどさ、距離をちょっと伸ばしてみようと思ってる。瞬発力よりパワー系っぽいし。
もし……ドラクロワが2000mを走れる力があったらさ。いずれはあのレースに出したい。新潟大賞典」
その言葉に、康成の眉がぴくりと動いた。
「親父、俺が生まれた年にそのレースで勝っただろ。俺は8月生まれだから、5月のレースの時はまだ生まれてなかったけど……。でも、俺にとってはあのレースが、調教師として取りたいタイトルのひとつなんだ。だから、ドラクロワと取りたい。もちろん、慎平を乗せて」
康成は、じっと息子を見つめていた。
そして――
「そうか。……ま、頑張れ」
それだけを口にした。
「え、いや、それだけ? もっとアドバイスとかさ。新潟特有の長い直線、どう攻略したとか、黒木牧場初の重賞制覇の瞬間とか……」
しかし、康成は静かだった。いつも多弁な方ではないが、今夜はさらに口が重い。誠もその空気を察し、自然に言葉を飲み込んだ。




