未来を変える種を蒔こう
誠と博が談笑していると、リビングの方から渉がやってきた。
「隣、宜しいですか」
「ええ、どうぞ」
渉は博の横に腰を下ろすと、少し間を置き、やや問いただすように口を開いた。ただ、語調は穏やかで、決して尋問めいたものではなかった。
「クロノアトリエについて……お聞きしたいのですが」
視線を向けた先に座る男は、わずかに肩をすくめるようにして、静かにうなずいた。
「彼を生産したのは、私たち黒木牧場です。そして現役時代、彼が所属していたのは、こちらの調教師・栗林と、騎手の柚木が在籍する、美浦の栗林厩舎でした。
それが昨年の9月。未勝利戦がほとんど終わり、引退せざるを得ない時期になって……彼は、突然厩舎から姿を消しました。そして2ヶ月後には、東京であなた方と暮らしていた」
中庭に目をやると、ちょうど馬房の窓からアトリエが顔を出していた。三つ子が駆け寄り、頭を撫でてやっている。
「もちろん、彼が今どんな暮らしをしているかは見ればよく分かります。とても幸せそうですし、無理に返してほしいとも、責任を問いたいとも思っていません。
ただ……ひとつだけ。どうやって彼と出会い、迎え入れるに至ったのか。それだけをお聞かせ願えませんか。茨城から東京まで。しかも馬です。犬や猫を拾って帰るのとは、わけが違いますから」
博は少し目を伏せてから、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「……わかっています。それは本来こちらから先に説明し、謝らなければならないことですよね。正直に言えば……限りなく"泥棒"です」
そう言って博は少しだけ苦笑した。それは冗談ではなく、自嘲に近い響きだった。
「彼と出会ったのは、たしか去年の9月末です。那須へ家族旅行に行ったとき、知り合いの観光牧場に立ち寄りまして。そこで……彼がいたんです。不思議に思って尋ねたところ、"茨城で保護された馬で、調べたらJRAの未勝利馬だった"と聞きました。
それで……こう言っては失礼なのですが。
"厩舎に戻したところで、この子にはもう居場所がないだろう"と」
彼はそこで一度、言葉を切った。目の端に浮かぶ後ろめたさを、隠そうとはしなかった。
「牝馬なら繁殖に上がれる可能性もあるでしょう。でも彼は牡馬です。乗馬クラブにしても、受け入れられる頭数は限られている。しかも、未勝利。どこにも結果を残せなかった馬です。そのまま放っておかれれば、下手をすれば……」
言葉を飲み込み、しばし口をつぐむ。
やがて、絞り出すように続けた。
「……そんな話を聞いて、家族で相談しました。
幸いなことにうちは、彼1頭くらいなら世話ができるだけの経済的な余裕も、場所もありました。息子たちも自分たちで馬のことを調べて、本気で引き取りたいと言い出しまして。その気持ちを知り合いに伝えたところ、"本当に引き取ってくれるならお願いしたい。ただし、極秘で"と」
ここまで話して、博の顔に少しだけ苦笑が浮かんだ。
「ですが……ご想像のとおり、都心の民家にサラブレッドがいるなんて、とても隠し通せるはずがありません。あっという間に近所に広まって、今じゃもう地域のアイドルですよ。
正直、ヒヤヒヤしていました。でも……あなた方から連絡が来なかったことで、私たちもどこかで甘えていたのかもしれません。ずるずると、1年。気づけば、もう"うちの家族"のようになっていました」
そこで博は、深く頭を下げた。
「……本当に、大変申し訳ございません」
渉は一度小さく息を吐いてから、静かに口を開いた。
「……そういうことでしたか」
穏やかな声音だったが、そこには確かに重さがあった。
「確かに、あなた方の未勝利馬に対する認識は、間違っていません。クロノアトリエのような、未勝利の牡馬となれば――そのほとんどは地方競馬や障害レースへの転向、もしくは引退して乗馬クラブや研究施設、引退馬支援の牧場など……新たな受け皿を探すことになります。
ただ――その"席"にも、限りがあります。だからこそ……席を見つけられなければ」
彼は一拍、言葉を切った。
「……肥育場行きです」
沈黙が場を覆う。だが渉は淡々と、決して冷たくはなく言葉を続けた。
「もちろん、馬は経済動物です。犬や猫のような愛玩動物ではありません。それゆえ、できる限り"有効活用"されるべき存在です。
肥育場へ送られた競走馬の肉は、主に動物園で肉食獣に与えられたり、ペットの餌の原料になったりします。
そういった現実があることは、私たち生産者も重々理解しています。……それでも」
彼の視線が、ふっと遠くを見るように揺れる。
「一度名前をつけて、手塩にかけて育てた馬です。その末路を見送るのは……仕方のないことだとはいえ、全くの無感情ではいられません。
だからこそ、今回の件についても――たとえ、そのやり方が少し強引だったとしても」
渉は視線を戻し、博をまっすぐに見つめた。
「……あなた方の決断を、非難することはできません」
渉は少しトーンを変えた。
「黒木さん。あなたを敏腕編集長として尊敬しています。
私から――競馬関係者として、ひとつ企画を持ち込ませていただいても宜しいでしょうか」
その表情は真剣だった。
「引退馬に関する作品を作ることはできないでしょうか。勝った者ではなく、勝てなかった者のその後を、もっと多くの人に知ってほしいんです。華やかなレースの裏にある現実を、静かに届けたい」
少し間を置いて、渉は続ける。
「もちろん、我々としても競馬そのものを否定するつもりはありません。時に動物愛護の面から競馬は非難されますが、もし競馬がなくなれば、今走っている馬たち全てが行き場を失ってしまう。だからこそ、レースの"その先"を、より多くの人に知ってもらいたいんです」
アトリエの姿が脳裏をよぎる。
「アトリエのように人と暮らす馬、研究施設や神社の御神馬、乗馬クラブ、流鏑馬、時代劇の動物タレント……
行き場をなくした馬たちの新しい道は、少しずつですが確かに開拓されています。それを、子どもたちにも、未来をつくる人たちにも伝えていただきたい」
そして、渉は静かに頭を下げた。
「これは、我々にはできません。文字という商品を扱い、人々の考え方そのものを変える力を持つ、あなた方にしか」
博はやや呆気に取られたような顔をしていたが、すぐに真剣な表情に変わった。
「……わが社には、"未来を変える種を蒔こう"という言葉があります」
誠と渉は、じっと博の言葉に耳を傾けた。
「出版物が、世の中のすべての問題を解決できるとは思っていません。ですが、人の心に小さな変化を生む"種"を蒔くことはできる。それが、人生のどこかで芽吹いて、やがて大きな実になり、花を咲かせる――それが、出版の仕事だと教わってきました」
博は2人の方に向き直ると、はっきりと告げた。
「ぜひ検討させてください。すぐにとはいきませんが……必ず、形にします。腕の見せ所ですね」
すっかり日が暮れた頃、誠たち三人は黒木家を後にした。外気は少しだけ冷え始め、昼間の熱気がゆっくりと街から抜けていく。
車に乗り込み、エンジンが静かに唸った。
東京から、また美浦へ戻る。数時間もすれば、まだ薄暗いトレセンに明かりが灯り、馬たちのいななきが朝の空気を震わせるだろう。華やかなレースの裏側で、また何千頭もの"明日"が動き出す。
その中に――
新しい未来の種が、確かにひとつ蒔かれた気がしていた。




