表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

もう一つの黒木家


2025年、春。まだ雪の残る北海道・日高の浦河町。

開業50年目を迎える黒木牧場の事務所で、二代目の牧場主、黒木渉が電話をかけていた。

相手は遠く離れた東京に暮らす、とある一家。

黒木家——偶然にも、渉と同じ名字を持つ家族だ。


コール音のあと、電話がつながる。

「はい!黒木です」

受話器から響いたのは、元気な少年の声。はきはきとして、どこか聡明な印象を受ける。


「あ……じょうくんかな?」


渉がそう言うと、相手の少年は少し得意げに返してきた。


「へへん、誰でしょう〜? わかります?」


「穣くんだろ。そのしっかり者ボイスは……

岳くんや律くんじゃない。もう覚えたよ」


「なぁんだ、覚えちゃったんですか。

ちぇー、つまんないの」


電話の相手は、黒木穣。13歳、中学2年生。

彼には、岳と律という同い年の弟がふたりいる。

一卵性の三つ子だ。


人間ならともかく、馬の世界では基本的に一頭しか生まれてこない。

まれに多胎になることもあるが、多くの場合、どちらかを間引くことになる。

栄養が足りず虚弱な2頭が生まれるより、片方に集中させて元気な1頭を産ませることを選ぶのだ。


だが、あの三兄弟は——まるで、馬の常識に反する存在のように、そろって元気に育っている。いや、人間だから驚くことでもないが………


さて、渉がわざわざ東京の中学生に電話をかけたのには、ある理由があった。

時はさかのぼること、半年前。2024年9月。

黒木牧場生まれの一頭の未勝利馬、クロノアトリエ(牡3)が、突然いなくなった。


未勝利戦とは文字通り、まだ一度もレースで1着になっていない馬が出るレースのことだ。

この未勝利戦の出走期限は「3歳の9月~10月まで」と決められている。その時期までに一度も勝てなければ、中央競馬(JRA)の平地で出られるレースが無くなってしまう。


すると地方競馬や障害レースに転向するか、登録抹消——つまり引退を選ばなければならない。

牝馬であれば繁殖牝馬として牧場に戻る道もあるが、牡馬は……基本的に行き先がない。

自分の運命を察したかのように、アトリエは突如として馬房を抜け出し、忽然と姿を消したのだった。


そして2か月後——牧場関係者が腰を抜かすような出来事が起こる。


とあるSNSの投稿に、見覚えのある馬の姿が写っていたのだ。

投稿主は、東京の一般家庭の父親。「家族写真」と記された写真には、父母、姉、そして三つ子の兄弟——

その真ん中に、何食わぬ顔で並ぶ鹿毛のサラブレッドの姿。


渉はすぐに投稿者へ連絡を取り、この“もう一つの黒木家”にたどり着いた。

どうやら彼は、東京で新たな馬生を送っているらしい。

名字だけでなく、どこか縁を感じる家族。

その元で、アトリエは元気に暮らしていた。

「……まあ、無事で幸せならいいさ。あいつらしいといえば、そうだな」


そして、今年。

明けて2歳になったアトリエの半弟、「クロノマキアートの2023」が、ついにデビューを迎える。

どうせなら——兄をよく知るこの家族に、名づけのアイディアをもらってみようか。

そんな思いで、渉は電話をかけたのだった。




その夜、東京・高円寺。黒木家の応接室に漂うのは、どこか作戦会議のような空気。

三つ子たちは「名づけ会議」と銘打たれた小さな軍評定を始めようとしていた。

議題は「アトリエの弟の名前を決めること」。


パジャマ姿でソファとローテーブルを囲むのは、黒木家の三つ子たち。

しっかり者の長男・穣、クールで無口な次男・岳、

甘えん坊でちゃっかり者の三男・律。

顔はそっくり、でも中身はバラバラ。

テーブルの上には、ノートと色付きペン。渉から送られてきた資料の束。

ノートの表紙には大きくこう書かれている。


『クロノアトリエの弟 命名会議』


今の呼び名は「クロノマキアートの2023」。青鹿毛の牡馬だ。

父は泥を蹴って勝ち上がったタフネスの象徴、シビルウォー。

母は未出走馬だが、繊細で気品あるクロノマキアート。

母父には、かつての菊花賞馬、マンハッタンカフェの血が流れている。


渉から提示された命名の条件はニつ。

まず、馬名の頭に冠名の「クロノ(Chrono)」を付けること。クロノ○○、という風に。


1975年の牧場開場以来、半世紀にわたり生産馬たちに冠してきた、言わば目印のようなもの。

ギリシャ語で時を表す「Chrono」と、黒木牧場の「黒」を重ねた伝統ある冠名だ。


もう一つは、馬名を2文字以上9文字以内にすること。例えば、クロノアトリエ(7文字)。これはJRAの規定に基づいている。


「せっかくアトリエの弟に名前つけられるんだぜ?」


穣が真剣な表情で言った。ペンをくるくる回しながら、力を込めて続ける。


「その馬が強くなればさ……ディープインパクトとかキタサンブラックみたいに、誰でも知ってる名馬になるかもしれない。だからこそ、ちゃんと考えよう。変な名前をつけたら、レースのたびにお客さんに笑われちゃうしな」


穣は明るく責任感が強く、何事にもポジティブな兄貴分タイプだ。

しかしその言葉が終わる前に、クッションを抱えながら三男・律がすっと手を挙げた。


「可愛いのがいいなぁ。“マロン”とか」

律は感情に素直で、いつでもマイペース。言うだけ言って、ソファにごろんと寝転がる。


「……うーん、馬だぞ?しかもオスだよ。犬じゃないんだし、ちょっと可愛すぎないか」

穣が苦笑しながら首をかしげると、律がひょいと起き上がってにっこり返す。


「その子が栗毛なら、合うじゃん?ぴったりだよ」

「はは、残念——青鹿毛だってさ。ほぼ真っ黒。黒こげの栗になっちゃうよ」


穣が資料をペラリとめくって馬体写真を見せる。そこには、“焼き栗もびっくり”どころではない、漆黒の馬体が写っていた。最早——炭か何かだ。

律は「うぐぅ……」と小さく呻くと、再びソファに寝転がってしまった。


すると、不意にぽつりと声が落ちた。

「……クロノチョモランマ」

つぶやいたのは岳。

冷静で寡黙な次男。大抵の会話では参加せず、どこか一歩引いた場所にいる。


「いやいや。お前、どさくさに紛れて自分の名前入れたいだけだろ」

穣が即座にツッコミを入れる。律も吹き出しながら指摘した。

「チョモランマ→山→岳だねぇ」

岳は「あ、バレた?」とでも言いたげに肩をすくめたが、すぐに表情を引き締め、静かに語り始めた。

その目は真剣だった。


「兄貴は“アトリエ”って名前だったろ。フランス語で“芸術”とか“工房”って意味。

だったら弟は——その先を描く“画家”はどうかな」

いつになく饒舌な岳の声に、穣と律がじっと耳を傾ける。


「父親のシビルウォーは“南北戦争”だな。それに合わせるなら、“革命”とかがいい。

たとえば……フランス革命。あの有名な絵があるだろ。

“民衆を導く自由の女神”。

あれを描いた画家は、ウジェーヌ・ドラクロワ。

自由に走る、強く導く……“クロノドラクロワ”ってのは、どう?」


穣と律は、しばし言葉を失った。

しん、と空気が張り詰めた。三人の間に、静かな時間が流れる。

最初に口を開いたのは穣だった。


「……なんか、いいな」


穣の声はどこか低く、感心を隠さない。

「その子が、アトリエの弟ってだけじゃなくて……自分の道を走っていける感じがする。

アトリエが描いた夢の続き、その先を力強く……走っていく感じがするぞ」


律も身を起こし、うなずいた。

「かっこいいし、強そう。いいじゃん!決まり」

夜更けの応接室に、三人だけの拍手がひとつ、ふたつと響いた。

名づけ会議、閉会。




翌朝、北海道・黒木牧場の電話が鳴った。

受話器の向こうで渉がその名を聞いたとき、静かにこうつぶやいた。


「……クロノドラクロワ。いい名前だ」


——自由に、まっすぐに、ただ走れ。

兄——アトリエの名を継ぐものとして。

そして、自分の旗を掲げる者として。


史実ではシビルウォーは2020年に種牡馬を引退しており、2021年生まれの産駒がラストクロップ(最終世代)です。

しかしこのお話では、私の思い入れもあり種牡馬を続けている設定にしました。ご了承ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ