もう一つの黒木家
2025年、春。まだ雪の残る北海道・日高の浦河町。
開業50年目を迎える黒木牧場の事務所で、二代目の牧場主、黒木渉が電話をかけていた。
相手は遠く離れた東京に暮らす、とある一家。
黒木家——偶然にも、渉と同じ名字を持つ家族だ。
コール音のあと、電話がつながる。
「はい!黒木です」
受話器から響いたのは、元気な少年の声。はきはきとして、どこか聡明な印象を受ける。
「あ……穣くんかな?」
渉がそう言うと、相手の少年は少し得意げに返してきた。
「へへん、誰でしょう〜? わかります?」
「穣くんだろ。そのしっかり者ボイスは……
岳くんや律くんじゃない。もう覚えたよ」
「なぁんだ、覚えちゃったんですか。
ちぇー、つまんないの」
電話の相手は、黒木穣。13歳、中学2年生。
彼には、岳と律という同い年の弟がふたりいる。
一卵性の三つ子だ。
人間ならともかく、馬の世界では基本的に一頭しか生まれてこない。
まれに多胎になることもあるが、多くの場合、どちらかを間引くことになる。
栄養が足りず虚弱な2頭が生まれるより、片方に集中させて元気な1頭を産ませることを選ぶのだ。
だが、あの三兄弟は——まるで、馬の常識に反する存在のように、そろって元気に育っている。いや、人間だから驚くことでもないが………
さて、渉がわざわざ東京の中学生に電話をかけたのには、ある理由があった。
時はさかのぼること、半年前。2024年9月。
黒木牧場生まれの一頭の未勝利馬、クロノアトリエ(牡3)が、突然いなくなった。
未勝利戦とは文字通り、まだ一度もレースで1着になっていない馬が出るレースのことだ。
この未勝利戦の出走期限は「3歳の9月~10月まで」と決められている。その時期までに一度も勝てなければ、中央競馬(JRA)の平地で出られるレースが無くなってしまう。
すると地方競馬や障害レースに転向するか、登録抹消——つまり引退を選ばなければならない。
牝馬であれば繁殖牝馬として牧場に戻る道もあるが、牡馬は……基本的に行き先がない。
自分の運命を察したかのように、アトリエは突如として馬房を抜け出し、忽然と姿を消したのだった。
そして2か月後——牧場関係者が腰を抜かすような出来事が起こる。
とあるSNSの投稿に、見覚えのある馬の姿が写っていたのだ。
投稿主は、東京の一般家庭の父親。「家族写真」と記された写真には、父母、姉、そして三つ子の兄弟——
その真ん中に、何食わぬ顔で並ぶ鹿毛のサラブレッドの姿。
渉はすぐに投稿者へ連絡を取り、この“もう一つの黒木家”にたどり着いた。
どうやら彼は、東京で新たな馬生を送っているらしい。
名字だけでなく、どこか縁を感じる家族。
その元で、アトリエは元気に暮らしていた。
「……まあ、無事で幸せならいいさ。あいつらしいといえば、そうだな」
そして、今年。
明けて2歳になったアトリエの半弟、「クロノマキアートの2023」が、ついにデビューを迎える。
どうせなら——兄をよく知るこの家族に、名づけのアイディアをもらってみようか。
そんな思いで、渉は電話をかけたのだった。
その夜、東京・高円寺。黒木家の応接室に漂うのは、どこか作戦会議のような空気。
三つ子たちは「名づけ会議」と銘打たれた小さな軍評定を始めようとしていた。
議題は「アトリエの弟の名前を決めること」。
パジャマ姿でソファとローテーブルを囲むのは、黒木家の三つ子たち。
しっかり者の長男・穣、クールで無口な次男・岳、
甘えん坊でちゃっかり者の三男・律。
顔はそっくり、でも中身はバラバラ。
テーブルの上には、ノートと色付きペン。渉から送られてきた資料の束。
ノートの表紙には大きくこう書かれている。
『クロノアトリエの弟 命名会議』
今の呼び名は「クロノマキアートの2023」。青鹿毛の牡馬だ。
父は泥を蹴って勝ち上がったタフネスの象徴、シビルウォー。
母は未出走馬だが、繊細で気品あるクロノマキアート。
母父には、かつての菊花賞馬、マンハッタンカフェの血が流れている。
渉から提示された命名の条件はニつ。
まず、馬名の頭に冠名の「クロノ(Chrono)」を付けること。クロノ○○、という風に。
1975年の牧場開場以来、半世紀にわたり生産馬たちに冠してきた、言わば目印のようなもの。
ギリシャ語で時を表す「Chrono」と、黒木牧場の「黒」を重ねた伝統ある冠名だ。
もう一つは、馬名を2文字以上9文字以内にすること。例えば、クロノアトリエ(7文字)。これはJRAの規定に基づいている。
「せっかくアトリエの弟に名前つけられるんだぜ?」
穣が真剣な表情で言った。ペンをくるくる回しながら、力を込めて続ける。
「その馬が強くなればさ……ディープインパクトとかキタサンブラックみたいに、誰でも知ってる名馬になるかもしれない。だからこそ、ちゃんと考えよう。変な名前をつけたら、レースのたびにお客さんに笑われちゃうしな」
穣は明るく責任感が強く、何事にもポジティブな兄貴分タイプだ。
しかしその言葉が終わる前に、クッションを抱えながら三男・律がすっと手を挙げた。
「可愛いのがいいなぁ。“マロン”とか」
律は感情に素直で、いつでもマイペース。言うだけ言って、ソファにごろんと寝転がる。
「……うーん、馬だぞ?しかもオスだよ。犬じゃないんだし、ちょっと可愛すぎないか」
穣が苦笑しながら首をかしげると、律がひょいと起き上がってにっこり返す。
「その子が栗毛なら、合うじゃん?ぴったりだよ」
「はは、残念——青鹿毛だってさ。ほぼ真っ黒。黒こげの栗になっちゃうよ」
穣が資料をペラリとめくって馬体写真を見せる。そこには、“焼き栗もびっくり”どころではない、漆黒の馬体が写っていた。最早——炭か何かだ。
律は「うぐぅ……」と小さく呻くと、再びソファに寝転がってしまった。
すると、不意にぽつりと声が落ちた。
「……クロノチョモランマ」
つぶやいたのは岳。
冷静で寡黙な次男。大抵の会話では参加せず、どこか一歩引いた場所にいる。
「いやいや。お前、どさくさに紛れて自分の名前入れたいだけだろ」
穣が即座にツッコミを入れる。律も吹き出しながら指摘した。
「チョモランマ→山→岳だねぇ」
岳は「あ、バレた?」とでも言いたげに肩をすくめたが、すぐに表情を引き締め、静かに語り始めた。
その目は真剣だった。
「兄貴は“アトリエ”って名前だったろ。フランス語で“芸術”とか“工房”って意味。
だったら弟は——その先を描く“画家”はどうかな」
いつになく饒舌な岳の声に、穣と律がじっと耳を傾ける。
「父親のシビルウォーは“南北戦争”だな。それに合わせるなら、“革命”とかがいい。
たとえば……フランス革命。あの有名な絵があるだろ。
“民衆を導く自由の女神”。
あれを描いた画家は、ウジェーヌ・ドラクロワ。
自由に走る、強く導く……“クロノドラクロワ”ってのは、どう?」
穣と律は、しばし言葉を失った。
しん、と空気が張り詰めた。三人の間に、静かな時間が流れる。
最初に口を開いたのは穣だった。
「……なんか、いいな」
穣の声はどこか低く、感心を隠さない。
「その子が、アトリエの弟ってだけじゃなくて……自分の道を走っていける感じがする。
アトリエが描いた夢の続き、その先を力強く……走っていく感じがするぞ」
律も身を起こし、うなずいた。
「かっこいいし、強そう。いいじゃん!決まり」
夜更けの応接室に、三人だけの拍手がひとつ、ふたつと響いた。
名づけ会議、閉会。
翌朝、北海道・黒木牧場の電話が鳴った。
受話器の向こうで渉がその名を聞いたとき、静かにこうつぶやいた。
「……クロノドラクロワ。いい名前だ」
——自由に、まっすぐに、ただ走れ。
兄——アトリエの名を継ぐものとして。
そして、自分の旗を掲げる者として。
史実ではシビルウォーは2020年に種牡馬を引退しており、2021年生まれの産駒がラストクロップ(最終世代)です。
しかしこのお話では、私の思い入れもあり種牡馬を続けている設定にしました。ご了承ください。




