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東京の黒木家



家をぐるりと囲む、重々しい石塀。その一角に埋め込まれた黒い御影石の表札には、「黒木」の文字が深く刻まれている。

すぐ隣には、どこか場違いなようで、今の時代らしい「SECOM」のマーク。


(セキュリティサービスを利用するという選択肢を、ためらいなく取れる家か。

……やはり、"太い"な)


口には出さなかったが、誠はそんなことを思わずにはいられなかった。この家の空間だけ、映画の中に繋がっているような気がする。


インターホンを押すと、「はーい!」と元気な声が返ってくる。三つ子の中の誰かだろう。

数分後、目の前にある瓦屋根のついた立派な正門ではなく、その脇に設けられた小さな潜り戸から、ひとりの男の子が窮屈そうに現れた。

「あっ……暑い中お越しいただいてすみません!

今の時間、そっちの門開けてなくて、狭くて恐縮なんですけど……ここからお願いしてもいいですか? 事前にお伝えできてなくて申し訳ないです」


長男の(じょう)だった。

爽やかな白いオーバーサイズのTシャツに、黒いジーンズ。シンプルだが清潔感があり、立ち姿に無駄がない。

思春期にありがちなイモっぽさとは無縁で、振る舞いも非常に落ち着いている。

体格や雰囲気も手伝って、初対面の人には大学生に見えるだろう。いや、大学生でもここまでの子は中々いないか…それほどの貫禄を放っている。


でも。

ふとした瞬間に浮かぶ表情や、声の調子には、まだ子供らしさが確かに残っていた。




門から玄関までは、少し距離がある。そんな家も、なかなか無い。

石畳の小道を、穣が先導して歩いていく。ときおり振り返っては、こちらの歩調を確認するようにして、完璧にエスコートする。

おそらく……普段から親の友人や客人を迎える場面に、慣れているのだろう。自分だってこんな息子がいたら、案内がてらつい人に見せたくなる。


竹やその他の樹木に囲まれた広々とした敷地を眺めながら、渉が思わず漏らす。

「すごい……広さだな。初代の黒木牧場、親父が開いたばっかりの頃より広いかも。こりゃアトリエも住めるわけだ」

「いやぁ、そんなことは無いですよ。良いのは見た目だけで……毎年の維持費とか、固定資産税とか、優雅に笑えるもんじゃないですし。戦時中なんかは土地を守るだけで精一杯で、毎日継ぎだらけの国民服だったって祖父が言ってましたね。

父はその辺のことあまり言わないですけど、僕は後々のことを考えたら知っておいた方がいいと思って……。墓守とか、土地のこととか、さらっとですけど調べてます。

代々、受け継いできた土地ですから」


その大きな背中の頼もしさに、渉と誠はただ舌を巻くしかなかった。

三つ子の一番目とはいえ、出生順で言えば姉がいる。つまり穣は第二子だ。

だが、相続のことを考えれば——家を出るかもしれない姉に代わって、彼がこの家を継ぐのだろう。


自分が中学生の頃、こんなことを考えていただろうか。

渉にとっては、父・勇から継ぐべき牧場のことを。誠にとっては、康成の厩舎のことを。

いくら競馬が世襲制の多い世界だとしても……。


しかし、穣は少し悪戯っぽく笑って、声を落とした。

「あ、でもこのこと、弟たちにはナイショでお願いしますね。そういう空気、三人でいる時は持ち込みたくないんで。 ……"叔父さん"」

あの新馬戦での結託を、ふと思い出す。


ああ、やっぱり。

まだ子供だ。




家の前まで来た。 

重厚な木の引き戸。今どき、珍しい。

ガラリと開けると、そこには広々とした玄関が広がっていた。

石畳に面した下駄箱。棚には、いかにも高価そうな壺や木彫りの熊。旅館か?と思いたくなるような重厚さと広さだ。


だが、旅館には無いものも多い。

色あせた緑の虫かご。まだ現役らしき、薄く土のついた白黒のサッカーボール。暮らしの痕跡と、家族の歴史が、そこかしこに息づいている。


ふと、棚の上の額縁に目が留まった。姉弟4人の写真。

美しくも初々しい振袖姿の姉を、夏服を着た弟たちが囲んでいる。成人式の前撮りらしい。

日付は、ほんの一か月前。


(大学2年生と中学2年生……けっこう年が離れてるんだな。6、7歳差ってとこか)


誠は一人っ子だ。

年の離れた姉なんて想像もできないし、同い年の兄弟がいる暮らしも知らない。

家に帰れば、自分だけが"子供"。兄弟げんかも、勉強や恋愛の相談も、テレビのチャンネル争いも、全部ドラマや漫画の中の出来事だった。


けれど、トレセンで、新馬戦で、三つ子たちと接するうちに——

忘れていた気持ちが、少しだけよみがえってきた。

幼いころ、ふと夢見ていた「きょうだいのいる日常」。あれは、たしかに憧れだった。




応接間に通されると、誠と背格好の近い長身の壮年男性と、彼より頭ひとつ分ほど小さい——とはいえ、女性にしてはかなりの高身長の中年女性が現れた。

柚木の身長が160cmだから、170cmくらいはあるだろう。長身の夫婦が並ぶ姿は実に見映えがして、どこか映画のワンシーンのようでもあった。

この二人が、三つ子の両親だ。

穣は父親と軽く目を交わすと、静かに部屋を後にする。

「じゃ、後で」とだけ誠に小声で言い残して。


代わって、黒木夫妻と向かい合う形で、誠・柚木・渉の三人が腰を下ろした。

「いやぁ、このたびはご足労いただいたうえに、愚息たちがたいへんお世話になりまして」

開口一番、父親の方がにこやかにそう頭を下げ、続けて名刺を差し出してくる。

「——あっ、私、こういう者です」

言葉遣いは丁寧だが、声にはどこか朗らかなエネルギーがあり、親しみやすさが滲み出す。

どこか穣に似ているな、と誠は思う。穣も基本はスマートだが、時折ふっと無邪気な顔を見せるような、そんな一面を持っていた。

まさかこんな場で名刺交換をするとは思っていなかったが、誠もあわててシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。持ってきていて正解だった。

この家では、こうしたやり取りすら日常の一部なのだろう。


名刺には「黒木 博」の文字。

社名を見て、思わず誠は小さく息を呑んだ。

児童教育書や図鑑で広く知られる、あの大手出版社。その中でも、博氏の肩書は——少年漫画雑誌の編集長。誠が子どもの頃に読んでいた図鑑も、確かこの出版社のものだった。


編集長を務めているという雑誌は、あの双子の野球漫画や、小さくなった名探偵の物語——

最近では、1000年以上生きるエルフが主人公のファンタジー作品も連載していたはずだ。

何よりその雑誌のタイトルには、日本競馬を変えたあの大種牡馬・サンデーサイレンスの名前の一部を冠している。

競馬一家で育った誠にとって、その名前には幼い頃から特別な親近感があった。


こんな形で縁がつながるとは。

ともかく、教育に強く、子どもたちの成長を支える出版の最前線にいる父親か。

なるほど、あの三人があれだけしっかりしているのも頷ける。



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