勝利報告に東京へ
2025年9月。新馬戦で落鉄しながらも、アタマ差で何とか勝ったクロノドラクロワ。
ひとまず1勝は挙げたので、ここでいったん放牧に出し、1か月ほどかけて疲労回復と避暑に充てる予定だ。
誠のプランでは——
ドラクロワは成長がゆっくりなタイプ。となると放牧明け、できれば年末までにもう1勝してオープン入りし、年明けからオープン戦やリステッドをぼちぼち狙っていくのが現実的だろう。
2歳の重賞戦線は、どうしたって早熟馬や有力馬——来年のクラシックを賑わせる主役候補たちの天下だ。
今のドラクロワでは、到底太刀打ちできない。
ならば、焦る必要はない。
着実に賞金と星を積み上げていく。3歳、あるいは4歳になったとき、大きな舞台に手が届くように、今は土台を築く時期だ。
それが彼にも合っているだろう。
と、誠が頭の中で思い描いていた矢先、父・康成が言った。
「そういえば、朝な……東京のあの子たちから電話が来てたぞ。この前の新馬戦のお礼で、家に来てほしいってよ」
「……お礼?」
「ああ。それとな……アトリエに、お前を会わせたいんだとさ。あいつが脱走したとき、お前かなり落ち込んでただろ。
牧場長と慎平も行くって言ってる。……お前も行け。どうせ、9月は中山でレースがあったろ」
誠の表情が一瞬だけ緩んだ。
アトリエが脱走して空いたその馬房には、今、弟のクロノドラクロワが入っている。運命めいたものに少しだけ背中を押された気がした。
「……そうだな。ドラクロワも勝ったし、東京で絶賛放牧中のアトリエに——
弟の勝利報告でも、しに行くか」
9月3週。
美浦トレセンのある茨城県・美浦村から東京までは、常磐道を使っておよそ1時間半。
銀色のマツダCXのハンドルを握るのは、栗林誠。美浦・栗林厩舎所属の技術調教師で、37歳。
ドラクロワの新馬戦勝利から2日後——8月25日に、37歳の誕生日を迎えた。
毎年この時期は新馬戦や未勝利戦が続くが、育てた馬の勝利は何より嬉しいプレゼントだ。……最近はケーキがちょっときつくなってきたけれど。
夏の日差しが強く、サングラスをかけている。普通の人間なら少し気取って見えるところだが、誠は違う。元タレントの母譲りの端正な顔立ちに、183cmの長身。芸能人と見間違えられることも珍しくない。
助手席に座るのは、小柄で寡黙、落ち着いた雰囲気の男——ジョッキーの柚木慎平。誠と同い年の名コンビだ。何も言わず、バリバリとあられを食べている。
「慎平、お前……食うのはいいけど、喉乾いても知らないぞ」
ちらりとカーナビを見ながら、誠が声をかける。
「しばらくサービスエリア無いからな」
柚木は無言で、鞄から小さなペットボトルのお茶を取り出した。
誠は次に、バックミラー越しに後部座席へと声をかける。
「それにしても牧場長、なんで俺らと一緒に来るんですか。てっきり先に東京行ってると思ってましたよ」
「別にいいだろ。どうせ2人乗っても3人乗っても、ガソリン代は変わらないんだから」
答えたのは、後部座席の真ん中にどっしりと座る男——黒木渉、55歳。クロノレーシングの代表であり、黒木牧場の2代目牧場長でもある。
「人が増えると燃費悪くなるの、知ってます?」
誠が軽口を叩くと、
「……サービスエリアで昼飯奢ってやろうと思ってたけど、やーめた。
お前ら、やっすい立ち食い蕎麦でも食ってろ」
「げ。それは先に言ってくださいってば……」
誠はぼやくと、少し真面目な声に切り替える。
「……それにしても、あの子たちの家って、どんななんでしょうね。都心で馬と暮らしてるって時点で、もう想像できないですけど」
渉は少しだけ間をおき、穏やかに答えた。
「まあな。実家が極太なのは間違いない。最初に会ったときは、スケールでかすぎてびっくりしたよ。体も、育ちも。
……でも、アトリエのことをちゃんと考えてくれてるのは、すぐにわかった。あの子らの人柄から、それは伝わってきた。だから、俺は安心してる」
その見解については、誠も全く同感だった。どうも、「良い子」や「優しい子」の一言では言い表せないような、器の大きさや味わい深さを感じさせる少年たちだった。
東京・高円寺。
青梅街道沿い、東高円寺駅を抜けて蚕糸の森公園を通りすぎ、方南町方面へと向かう。
その先の閑静な住宅街の一角に、黒木家の重厚な大邸宅は建っていた。近隣には寺院も多く、まさに寺町と呼ぶにふさわしい、落ち着きと格式を感じさせる一帯だ。
「うわ、東京の道狭すぎだろ……入れるか?これ。擦ったらヤだな……デカい車で来るんじゃなかったわ」
運転席の誠が、ミラー越しにぼやく。
「誠。こっちから出た方がいい、道が広くなってる」
助手席の柚木が、スマホの地図を見ながら助言した。
「お。よーし……」
慎重にハンドルを切り、誠はコインパーキングに車を滑り込ませた。
車から出ると、先に降りていた黒木渉が紺色のチェックのハンカチで額の汗を拭っている。
「やれやれ、東京は暑いな……こりゃ夏競馬できねぇわけだ。馬がまいっちまうよ」
馬にとっても、夏は過酷な季節だ。人間と同じく熱中症のリスクがあるため、夏季はミストシャワーを設置するなど、暑さ対策が欠かせない。競走馬だけでなく、都心の神社にいる御神馬などは、夏の間は避暑のために牧場で夏休みを過ごすことも多いという。
「さて……行きますか。あ、一応"着いた"ってLINEしときます」
誠はスマホを取り出し、三つ子の長男・穣とのトーク画面を開いた。
表示されたユーザー名は「黒木穣」。
背景画像には、剣道の防具と竹刀。幼少期から剣道を続けているらしい。プロフィールには「6段目指して頑張ります」のひと言。なかなかの腕前か。
(フルネーム、しかも漢字か……最近の子にしちゃ、ずいぶん堅いな)
初めてLINEを交換したとき、誠はそう思った。連絡用に登録したのは、トレセン見学の帰りだった。
自分の表示名は「マコト」。背景画像は、中学を卒業後、厩務員になるため黒木牧場で研修をしていた頃のガラケーから引き継いだ写真。
クロノオドリコ号——牧場初の重賞勝ち馬だ。画質は粗いが、変える気はない。誇りでもあり、自分の原点でもある。
何より彼女は10年以上前に大往生した。もう撮り直すことはできない。
最近の若者、特に厩務員や調教助手のLINE名なんて、大抵は「たくみ」とか「YUKI」、「S.K」なんてラフなものばかり。
だから「黒木穣」ときっちり漢字で出てきたときは、思わず面食らった。……剣道だけに。
けれど、それが彼らから滲み出る"隠せない育ちの良さ"なのだろう。それは、トレセンでのやり取りからも十分に感じ取れた。




