思い出の1ハロン
小鳥が巣から飛び立つと同時に、二頭の仔馬は飛び出した。
ハナを切ったのは"兄"の方だった。
クロノドラクロワはスタート直後、すぐに自慢の長い脚で大きなストライドを繰り出し、"妹"をじわじわと引き離した。たった数回脚を動かしただけで、ぐんぐんと進んでいく。スピードが徐々に上がり、やがて彼女は置いてけぼりになった。
あの木の下まではせいぜい100m。そこで折り返してスタート地点まで帰るのが今回のコース、総距離はせいぜい1ハロン——200m程度だろう。
その程度の短距離なら、前半で差をつければあとは逃げ切るだけ。力の差を見せつけて終わりだ。
(へへっ、あのチビ、見てろ!!力の差ってものを見せつけてやる)
後方をちらりと見ると、"妹"は小さな体でせわしなく脚を動かしていた。地面を刻むように、細かく蹴って走っている。
(ちょこまか走りやがって。そんな騒がしい走り方で追いつけるわけねーだろ)
ドラクロワは勝利を確信した。折り返し地点の木が、すぐ目の前に迫る。
——その瞬間。
「お!おっと……うわ!」
真っ直ぐ、力強く伸びていたドラクロワの体は、コーナーを曲がりきれず大きく外に膨れた。
同時にそれまでトップスピードに達していた脚は、急ブレーキをかけたことでみるみるうちに失速する。
そして、その膨れによってできた空間を——
(あっ)
"妹"が、素早くギアを切り替えるように、実に無駄なく最短距離を描くように折り返し——
(え?)
次の瞬間にはもう、ドラクロワの前を走っていた。
「げ……ちょ、待て!!」
慌てて何とか折り返し、再びギアを上げようとするも、先程のロスがあまりにも痛い。
必死に追うも、なぜか"妹"のちっぽけな背中はどんどん小さくなっていく。彼女は先程のコーナー付近で一瞬落としたギアを、直線になった途端に再び切り替えていたのだ。
「待てーーッッ!!」
"妹"は、わめきながら猛追するドラクロワを二馬身離して先にゴールした。
(負けた……?)
そう、ドラクロワは負けた。勝ったのは"妹"。
そのときのドラクロワは、なぜ負けたのか全くわからなかった。
だが2年経ち、トレセンで沢山の馬と走ってきた今ならわかる。
ドラクロワはそれまで、長い脚をいかして大きく歩幅を取る「ストライド走法」を自然に使っていた。
この走法は少ない歩数で長い距離を走れるため、効率良くスピードを出すことができる。特に直線では非常に有利になる走法で、ドラクロワが今まで駆けっこで負けたことが無かったのはそれが理由だった。いつも「よーいドン」の直線勝負しかしたことが無かったのだ。
ところがこの走法——コーナーのカーブが急なコースでは、大きなストライドが仇になり一気に減速してしまう。加えてスピードが出ることによって角を曲がりきれず、大きく外に膨れてロスも生まれる。
逆に"妹"の使っていた「ピッチ走法」は、歩幅が短い代わりに回転数を稼ぐことでスピードを出す走り方だ。一つ一つの動きは小さいため速度の切り替えや方向転換をしやすく、コーナーを曲がるときのロスも少ない。そのため最後の直線でもすぐにスピードを取り戻し、ぐんぐんと加速することができる。
だから単純な能力ではドラクロワの方が優れていても、コースに適した走りをした"妹"が勝った。
ドラクロワは、初めて土をつけられたあの日の悔しさを、一生忘れることはないだろう。
ふと、目の前が明るくなった。
地下馬道を抜け、地上に出たのだ。初めての本馬場入場、初めての観客。
鞍上の柚木慎平が、軽く首を撫でて手綱を引く。その合図に応えるように、ゆっくりとドラクロワは向こう側のスタート地点に向かって走り出した。
負けたことは悔しい。いつだって忘れたことはない。
だが、レースの悔しさはレースで晴らさなければ。
だから今日のデビュー戦——競走馬としての初のレースを、ドラクロワはずっと、ずっと待っていた。




