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トラ猫の水槽食堂シリーズ

棘のある魚と、黄金の記憶

作者: さこ丸
掲載日:2025/12/14

深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。

壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。

トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。

どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。


 深夜一時半。

 隣で眠る夫と、子供たちの穏やかな寝息を聞きながら、私だけが暗闇の中で目を開けていました。

 今の私は、幸せです。優しい家族、温かい家。

 それなのに、ふとした瞬間に「あの子」の顔が脳裏をよぎると、胸がぎゅっと締め付けられて、息ができなくなるのです。


 たまらなくなってベッドを抜け出し、吸い込まれるように夜の街へ出ました。

 路地裏の突き当たり。『水槽』という小さな看板を見つけたのは、必然だったのかもしれません。


 カランコロン。

 氷の音と共にドアを開けると、そこは青い水底のような空間でした。

 壁一面の巨大な水槽。そして、カウンターの奥には、大きなトラ猫のマスター。


「にゃあ(いらっしゃい)」


 マスターは琥珀色の瞳を細め、私が座るスツールを引いてくれました。

 私はため息をつきながら、水槽を見上げました。


「……変な水槽ですね。綺麗な魚もいるけど、あんなに怖そうな魚もいるなんて」


 私の指差した先には、黒くて長いとげを持った、ウニのような魚が泳いでいました。

 その魚は、水槽の中を暴れまわり、他の魚たちを威嚇しているように見えました。


『あれは、後悔の棘だよ』


 頭の中に響くマスターの声に、私はドキリとしました。


『随分と長い間、飼っているようだね。十年……いや、もっとかな』


「……わかっちゃうんですね」


 私はうつむき、ポツリポツリと話し始めました。

 十年前、大切な友人に酷い絶縁メールを送ってしまったこと。

 彼女は明るくて、頭が良くて、私が辛い時はいつもそばにいてくれたこと。

 でも、無邪気な彼女の言葉に、私が勝手に傷つき、疲れ果ててしまったこと。


「彼女に悪気はなかったんです。私が勝手にコンプレックスを刺激されて、勝手に卑屈になって……。だから、逃げたんです。彼女を傷つける言葉を投げつけて」


 私の言葉に合わせて、水槽の黒い魚が、さらに棘を逆立てました。


「離れてよかったんだって、ずっと思ってました。実際、楽になったし。……でも、楽しかった思い出まで消えてくれないんです。感謝と、申し訳なさと、『これでよかったの?』っていう問いかけが、今でも私を責めるんです」


 私は両手で顔を覆いました。

 もう一度会いたいわけじゃない。元に戻れるとも思わない。

 ただ、この胸の痛みだけが消えないのです。


『ふむ。少し、複雑な味がしそうだね』


 マスターはそう言うと、キッチンでカチャカチャと音を立て始めました。

 やがて出てきたのは、湯気を立てるマグカップでした。


『ソルティ・キャラメル・ショコラだ。召し上がれ』


 一口飲むと、濃厚なチョコレートの甘さと共に、ピリッとした塩気が舌に残りました。

 甘いのに、しょっぱい。でも、その塩気が、チョコの甘みをより深く引き立てています。


『美味しいものは、甘いだけじゃない。苦味や塩気があるからこそ、深みが出る』


 マスターは、長い尻尾で水槽を指し示しました。


『見てごらん。あの黒い棘の魚の、すぐ後ろを』


 私は目を凝らしました。

 暴れ回る「後悔」の黒い魚の影に隠れるようにして、一匹の小さな魚が泳いでいました。

 それは、黄金色に輝く、とても美しい魚でした。


『あれは、感謝と友情の記憶だ』


「……あんなに、綺麗なんですね」


『そうだよ。君が苦しいのは、その黄金の魚が大切だからだ。どうでもいい相手なら、棘なんて生まれない』


 マスターは静かに続けました。


『君は、その黄金の魚を守るために、棘を生やしたんじゃないかな』


「守るため……?」


『無理をして一緒にいて、お互いに憎しみ合う前に、君は離れることを選んだ。それは「逃げ」かもしれないけれど、美しい思い出を美しいまま冷凍保存するための、君なりの防衛本能だったんだよ』


 ハッとしました。

 もし、あのまま無理をして付き合っていたら。

 私は彼女の無邪気さを恨み、彼女は私の卑屈さに呆れ、きっと泥沼のような喧嘩別れをしていたでしょう。

 

 あの絶縁メールは、私の弱さでした。

 けれどそれは、彼女への感謝を「憎しみ」に変えないための、ギリギリの選択だったのです。


「……そっか。私は、彼女を嫌いになりたくなかったんだ」


 そう呟いた瞬間、水槽の中で変化が起きました。

 黒い魚の棘が、ポロポロと取れていったのです。

 棘がなくなると、その魚は深い藍色あいいろになり、黄金色の魚と寄り添うように泳ぎ始めました。


『藍色は、静かな決別。黄金色は、輝く思い出。……二つは、共存できるんだよ』


 別に、連絡を取らなくていい。仲直りしなくていい。


 「合わなかったけれど、確かに大切な友達だった」


 その事実を、ただそのまま受け入れればいいのです。

 マグカップの底に残ったショコラを飲み干すと、喉の奥にあった塊が、スーッと溶けていくのを感じました。

 塩辛い涙の味は、いつの間にか温かい甘さに包まれていました。


「マスター、ありがとうございます」


 私が席を立つと、トラ猫のマスターは満足そうに髭を揺らしました。


「ニャア(お元気で)」


 店を出ると、夜空には満月が浮かんでいました。

 ふと、遠い空の下にいるはずの彼女のことを思いました。

 彼女もどこかで、幸せに笑っていてほしい。

 そして、たまに私のことを思い出して「変な子だったな」と笑ってくれれば、それでいい。


 今の私には、帰るべき家がある。

 愛する夫と子供たちが待つ、温かい場所へ。


 足取りは軽く、夜風は優しく頬を撫でていきました。

 今夜はきっと、泥のように眠るのではなく、黄金色の夢を見て眠れる気がします。


 ゆらゆら、コポポ。ゆらゆら、コポポ。


 それでは、おやすみなさい。

 よい夢を。


来週の日曜夜21時、また開店予定です(予約投稿)。気に入って下さった方がいましたら、また来週ぜひご来店下さい

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