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第五章:結晶の瞬間

 買収話を断った後、私たちは本格的な経営改革に乗り出した。私は正式に白百合清布の専務取締役に就任し、会社の将来に対する責任を明確に負うことになった。


 最初に取り組んだのは、生産効率の向上だった。ただし、品質を下げることは絶対に許されない。私は生産工学の専門家を招いて、現在の工程を詳細に分析した。


 その結果、驚くべき発見があった。白百合清布の製造工程には確かに無駄があったが、それは「非効率」というより「未最適化」だった。長年の経験と勘に頼った工程管理を、科学的なデータに基づいて最適化すれば、品質を保ったまま生産性を30%向上させることができたのだ。


 例えば、洗浄工程では水温と洗浄時間の関係が完全に経験則だった。しかし科学的な分析により、最適な温度カーブと時間設定を導き出すことで、同じ品質を維持しながら洗浄時間を20%短縮できた。


 さらに重要だったのは、ハツさんの検品技術の体系化だった。彼女の神業的な技術を分析し、他の従業員にも教えられる形にマニュアル化する。これは単純な作業標準化ではなく、職人技の継承システムの構築だった。


 ハツさんは最初、自分の技術を言語化することに戸惑っていた。

「感覚的なものだから、説明のしようがないのよ」


 しかし私たちは諦めなかった。産業心理学の専門家の協力を得て、ハツさんの判断過程を科学的に分析した。その結果、彼女の「直感」が実は極めて論理的な判断プロセスに基づいていることが判明した。


 光の反射角度による繊維の状態判定、触感による密度の測定、微細な色調の変化による汚れの検出――これらすべてを数値化し、教育プログラム化することで、ハツさんレベルとは言えないまでも、高品質な検品ができる人材を育成することが可能になった。


 ハツさんは感激していた。

「あたしの技術が、こんな風に受け継がれるなんて。これで安心して歳を重ねられるわ」


 生産体制の改善と並行して、私たちは販売チャネルの拡充にも力を入れた。特に重要だったのは、B2B(法人向け)事業の強化だった。


 医療機関、高級ホテル、レストラン――これらの業界では、品質に対する要求が極めて高い。価格よりも価値を重視する顧客層が存在する。私たちはこの市場に集中的にアプローチした。


 営業戦略も従来とは全く異なるものだった。単純な商品説明ではなく、「体験型営業」を導入した。潜在顧客を工場に招いて、製造工程を見学してもらい、実際におしぼりを試用してもらう。その上で、品質の違いとそれがもたらす価値を実感してもらうのだ。


 この戦略は予想以上の効果を発揮した。工場見学に参加した企業の80%以上が契約に至った。特に海外からの観光客を受け入れるホテルからの引き合いが急増した。


「これは素晴らしい」とある外資系ホテルの支配人は言った。「日本の真のホスピタリティを象徴する商品です。我々のブランド価値向上にも大きく貢献してくれるでしょう」


 しかし最も大きな変化は、社内の雰囲気だった。買収の危機を乗り越え、明確なビジョンの下で一丸となった従業員たちの士気は著しく向上していた。特に若い従業員たちが、伝統技術のデジタル化や新商品開発に積極的に参加するようになった。


 その象徴的な存在が、潔の従弟である白川新太だった。東京の美術大学を卒業後、グラフィックデザイナーとして活動していた彼は、会社の変革を見て家業に参加することを決意した。


 新太は伝統的な技術を現代的なデザインで表現することに長けていた。彼が手がけた白百合清布の新しいパッケージデザインは、伝統の重厚さと現代の洗練を見事に融合させた美しいものだった。


「僕たちの世代が、この伝統を現代に繋げる責任があるんです」新太は言った。「古いものを古いまま残すのではなく、現代の人々にも愛されるように進化させることが大切だと思います」


 会社の業績も着実に改善していた。売上は前年比150%を達成し、利益率も大幅に向上した。銀行からの信用も回復し、新たな設備投資も可能になった。


 そして私個人にとっても、大きな変化が起きていた。潔との関係が、ビジネスパートナーから、より深いものへと発展していたのだ。


 ある春の夕方、私たちは工場の屋上で東京の夜景を眺めていた。一日の仕事を終え、ささやかな達成感に浸っていた。


「香坂さん、いや、れい」潔が私の名前を呼んだ。「あなたに会えて、本当に良かった」


 彼の声には深い感謝と、そして愛情が込められていた。


「私も」私は答えた。「あなたに出会って、私は変わることができました。数字だけでなく、心も大切だということを教えてもらいました」


「これからも、一緒に頑張っていきましょう」


「はい」


 その時、潔が私の手を取った。その手は、長年のおしぼり作りで少し固くなっていたが、とても温かかった。


「れい、僕は……」


 彼の告白を、私は静かに待った。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら。


「僕はあなたを愛しています。ビジネスパートナーとしてだけでなく、一人の女性として」


 私は何も言わずに、ただ彼の胸に顔をうずめた。その胸は、私が今まで触れたどんなおしぼりよりも温かかった。


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