第四章:香りの記憶
プロジェクトは予想以上の成功を収めた。「白百合プレミアム・ケア」のサブスクリプション・サービスは開始から3ヶ月で500名の会員を獲得し、エヴァン氏とのコラボレーション商品は発売と同時に完売となった。
しかし成功は、新たな問題も生み出した。急激な受注増加により、生産体制が追いつかなくなったのだ。品質を下げることはできない。かといって、せっかく掴んだチャンスを逃すわけにもいかない。
その解決策を模索していた時、私は一つの重要な発見をした。白百合清布の技術とノウハウは、おしぼり以外の分野にも応用できるのではないかということだった。
特に注目したのは、介護業界だった。高齢者施設では、入浴できない利用者に対して身体を清拭する「清拭タオル」が必要不可欠だった。しかし既存の清拭タオルは機能性を重視するあまり、肌触りや使用感が犠牲になっていた。
私は潔とともに、都内の高級老人ホームを訪問した。施設長の話によると、清拭の時間は高齢者にとって極めて重要な意味を持つという。
「この時間が、利用者さんにとっては貴重なスキンシップの時間なんです。だからタオルの肌触りは、心の安定にも大きく影響するんですよ」
私たちは試験的に、白百合清布の技術で作られた清拭タオルを提供した。その結果は驚くべきものだった。利用者たちの表情が明らかに穏やかになり、介護スタッフからも「作業がしやすくなった」「利用者さんが嫌がらなくなった」という声が上がった。
さらに興味深いことに、白百合清布の清拭タオルを使い始めてから、施設での医療費が12%削減された。肌トラブルの減少により、皮膚科受診の頻度が大幅に低下したのだ。
これは単なる偶然ではなかった。高品質な天然素材と適切な洗浄技術により、肌への刺激が最小限に抑えられた結果だった。さらに、ハツさんの厳格な検品により、繊維のほつれなど肌を傷つける要因が徹底的に除去されていることも大きな要因だった。
介護業界への参入は、白百合清布にとって新たな収益源となっただけでなく、社会的な意義のある事業としても注目を集めた。NHKの報道番組でも取り上げられ、「伝統技術が現代社会の課題解決に貢献する」事例として高く評価された。
私は仕事にのめり込んでいた。朝から晩まで工場にいて、新商品の開発、マーケティング戦略の立案、販売網の構築に奔走していた。そんな私を見て、潔はいつも心配そうな表情を浮かべていた。
ある晩遅く、私が一人で残業をしていると、工場に甘い香りが漂ってきた。潔が新しいアロマブレンドのテストをしているのだ。好奇心に駆られて覗きに行くと、彼は真剣な表情で小さな瓶から香りを嗅いでいた。
「新しい香りの開発ですか?」
「ああ、香坂さん。お疲れ様です」彼は振り返って微笑んだ。「実は、あなた専用の香りを作ってみようと思って」
「私、専用?」
「はい。香坂さんは、いつも頑張りすぎて疲れているから、心が安らぐような香りを作りたくて」
彼が差し出した瓶から立ち上る香りは、ラベンダーとベルガモット、そして微かにバニラが混ざった、言葉では表現できない美しい香りだった。それは確かに私の心を深くリラックスさせる効果があった。
「どうしてこの香りを?」
「香坂さんを見ていると、いつも緊張して、肩に力が入っているから。この香りは副交感神経に働きかけて、自然に肩の力を抜いてくれるはずです」
私は胸が熱くなった。彼は私のために、専門的な知識を駆使して、世界に一つだけの香りを作ってくれたのだ。これは単なる仕事上のパートナーシップを超えた、深い愛情の表れではないだろうか。
「潔さん……」
「これ、良かったらお持ちください」彼は少し照れながら言った。「疲れた時に使ってください」
その夜、私は自分のアパートでその香りを楽しみながら、これまでの数ヶ月を振り返っていた。私は変わった。氷のように冷たかった心が、徐々に温かくなっていく。それは潔と、そして白百合清布の人々との出会いがもたらした奇跡だった。
しかし同時に、私は恐れていた。この温かい感情が、再び私を裏切るのではないかという恐怖。五年前の失敗が再び私を襲うのではないかという不安。
そんな複雑な気持ちを抱えていた矢先、思いもよらないニュースが舞い込んできた。
大手繊維メーカーが、白百合清布の買収を検討しているという情報だった。提示された金額は、現在の会社評価額の3倍。潔にとっては、すべての借金を返済し、従業員の雇用も守れる魅力的な申し出だった。
しかし私は知っていた。大企業による買収が実現すれば、白百合清布の伝統的な製法は効率化の名の下に失われてしまう。ハツさんのような職人は「コスト削減」の対象となり、丁寧な手作業は機械に置き換えられる。
潔は深刻な表情でその話を私に相談した。
「どうしたら良いと思いますか?会社の借金は返せるし、従業員の雇用も守れる。でも……」
「でも、あなたの祖父から受け継いだものが失われてしまう」
「そうなんです。僕は、どちらを選べばいいのか分からない」
私は答えに窮した。コンサルタントとしては買収受け入れが合理的判断だった。しかし一人の人間として、そして潔を愛する女性として、その選択を支持することはできなかった。
その夜、私は一人で工場を歩き回った。静寂の中で、洗濯機の音だけが響いている。ここで働く人々の顔を思い浮かべた。ハツさんの技術、職人たちの誇り、そして潔の純粋な想い。これらすべてが、買収によって失われてしまうのだろうか。
翌朝、私は決意を固めて潔に告げた。
「買収の話、断りましょう」
「でも、それでは……」
「私が責任を持ちます。白百合清布を必ず黒字経営に持っていきます。そして、あなたの祖父から受け継いだ技術と心を、次の世代に繋げます」
潔は驚いた表情で私を見た。
「本気ですか?」
「はい。ただし、一つ条件があります」
「条件?」
「私を、この会社の正式な役員にしてください。経営の決定権を持つパートナーとして」
それは私なりの決意表明だった。もう逃げない。この会社と、そして潔との関係に、すべてを賭けるという宣言だった。