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第一章:その白さは雄弁


 翌日、私は潔に連れられ「白百合清布」の工場へと足を踏み入れた。

 そこは私の想像とは全く違う世界だった。

 最新のオートメーション化された工場ではない。巨大なドラム式の洗濯機がいくつも並び、その傍らで多くの年配の女性従業員たちが黙々と手を動かしている。蒸気の匂いと清潔な石鹸の香りが満ちていた。


 工場に入った瞬間、私は意外な感覚に襲われた。ここは単なる製造現場ではない。どこか神聖ささえ感じられる、職人の工房のような雰囲気があった。従業員たちの動きには無駄がなく、まるで長年磨き上げられた舞踊のように美しいリズムがあった。


「まず、綿です」

 潔はまるで美術館の展示品を説明する学芸員のように語り始めた。

「うちが使っているのは最高級のスーピマコットン。アメリカ南西部の限られた地域でのみ栽培される超長綿です。通常の綿花の繊維長が22mm程度なのに対し、スーピマは35mm以上。この長い繊維が、絹のような光沢としなやかさを生み出します」


 彼の説明には、コンサルタントの私も知らない専門知識が満載だった。スーピマコットンは世界の綿花生産量のわずか3%しか占めない希少品種。その名前は「Superior Pima」の略で、アリゾナ州のピマ・インディアンの土地で最初に栽培されたことに由来する。さらに重要なのは、この綿が「ゼロ・ツイスト」という特殊な製法で織られていることだった。


「ゼロ・ツイストとは?」私は思わず質問していた。


「糸に撚りをかけない製法です。通常のタオルは耐久性を上げるために糸を撚りますが、それでは繊維の柔軟性が失われる。ゼロ・ツイストは糸を撚らずに特殊な接着剤で固めて織り、後でその接着剤を洗い流すんです。手間もコストもかかりますが、これによって綿本来の柔らかさが最大限に活かされるんです」


 彼は私に織り上がったばかりの真っ白なタオルの束を手渡した。その驚くほど柔らかな肌触り。私が知っているタオルとは全く違う次元の感触だった。まるで雲を触っているような、それでいてしっかりとした吸水性もある。


 私は無意識のうちに、そのおしぼりを頬に当てていた。瞬間、何かが私の胸の奥で動いた。忘れていた記憶――まだ小さかった頃、母が高熱を出した私の額に当ててくれた冷たいタオルの記憶。あの時の安心感と愛情の記憶が、このおしぼりの感触とともに蘇った。


「次に、洗浄です」

 彼は洗濯機の方へと歩いていく。

「うちは決して化学薬品の漂白剤は使いません。使うのは四国の雪解け水と天然由来の石鹸だけ。時間はかかりますが、これで綿の繊維を傷つけずに汚れだけを落とすことができるんです」


 実は、この天然石鹸には深い秘密があった。潔の祖父の時代から使用している石鹸は、瀬戸内海の小豆島で作られる伝統的な製法によるものだった。この石鹸には、一般的な石鹸では使われない「椿油」が配合されている。椿油に含まれるオレイン酸は綿繊維の奥深くまで浸透し、繊維一本一本をコーティングして柔軟性を保持する働きがある。これは現代の界面活性剤では決して再現できない、自然の恵みが生み出す奇跡だった。


「なぜ四国の雪解け水なんですか?」


「水の硬度です。この水は日本でも有数の軟水で、ミネラル含有量が1リットルあたり30mg以下。これは世界最高級のスコッチウイスキーの仕込み水とほぼ同じレベルです。軟水は石鹸との反応が良く、繊維に石鹸カスが残りにくい。だからあの独特の柔らかさが生まれるんです」


 私は驚いていた。彼の知識の深さに、そして何より、彼がこれらすべてを「当然のこと」として語っていることに。彼にとって、これは単なるビジネスではない。一つの芸術作品を創造する行為なのだ。


 そして彼は私を工場の一番奥にある特別な作業場へと連れて行った。そこにはひときわ明るい照明の下で、一人の老婆が山のように積まれた洗い上がったおしぼりの検品をしていた。

 ハツさん。この道五十年の大ベテランだという。


 彼女の仕事ぶりは神業としか言いようがなかった。彼女は一枚一枚のおしぼりを光にかざし、一瞬で肉眼では見えないほどの僅かな汚れや繊維のほつれを見つけ出し、弾いていく。その基準に満たなかったおしぼりは容赦なく廃棄される。


 私は彼女の動きを見ていて、ある事実に気づいた。彼女の検品速度は一枚あたり0.8秒。一日8時間で約36,000枚を検品する計算になる。しかもその精度は99.9%以上――これは機械検査でも達成困難な数値だった。


「ハツさんの、この目が白百合清布の品質の最後の砦なんです」

 潔は誇らしげに言った。


 実は、ハツさんには特殊な能力があった。彼女は若い頃に眼病を患い、一時的に視力を失った経験がある。その後、奇跡的に回復したのだが、その過程で触覚と視覚が異常なまでに発達したのだ。これは医学的には「クロスモーダル・プラスティシティ」と呼ばれる現象で、脳の可塑性により失われた機能を他の感覚で補おうとする適応メカニズムだった。


「ハツさん」

 私は思い切って声をかけた。

「どうやってそんなに正確に判別できるんですか?」


 ハツさんは皺に覆われた優しい顔で微笑んだ。

「あのねお嬢さん、おしぼりはね、話しかけてくるのよ。『私、ここが痛いの』『ここが汚れてるの』って。長年一緒にいると、分かるようになるのよ」


 その言葉に、私は深い感動を覚えた。それは決して迷信や非科学的な話ではない。長年の経験により、彼女の脳は微細な視覚情報を瞬時に処理し、異常を察知するアルゴリズムを構築していたのだ。これは現代のAI技術でも実現困難な、人間の脳が持つ驚異的な学習能力の結果だった。


 そして最後の仕上げ。検品をクリアしたおしぼりは完璧な形に巻かれ、殺菌と保湿を兼ねたスチーマーに入れられる。そのスチーマーの中に、潔が数滴垂らした液体があった。ふわりとあたりに清涼な香りが立ち上る。


「これは?」


「アロマです。夏場はミント系を、冬場は檜系を。季節によって香りを使い分けているんです。おしぼりは最初にお客様の五感に触れるおもてなし。だから香りも重要な要素なんです」


 この香りへのこだわりにも、深い理由があった。人間の嗅覚は脳の記憶や感情を司る部分と直結している。適切な香りは副交感神経を刺激し、リラックス効果をもたらす。さらに、香りの記憶は視覚や聴覚の記憶よりも長く脳に残存する――これは「プルースト効果」と呼ばれる現象だ。つまり、このおしぼりを使った客は、その香りによって深いリラクゼーション体験を記憶に刻み、店への愛着を深めるのだ。


 こだわり。哲学。それは私の理解の範疇を完全に超えていた。たかがおしぼり一本のために、これほどのコストと手間をかけるなんて。ビジネスとしては狂気の沙汰だ。

 だがその狂気の中に、私は確かに一つの圧倒的な「美意識」を感じ取っていた。それは私がコンサルしてきたどの大企業の製品よりも雄弁に、その存在価値を物語っていた。


 工場を出る時、私は一つの疑問を口にした。

「白川さん、これだけの品質なら、なぜ売上が下がっているんですか?」


 彼の表情が急に暗くなった。

「それが、分からないんです。品質は落としていない。むしろ年々向上させている。でも……」


 彼は言葉を濁した。しかし私にはその理由が見えていた。彼らは素晴らしい商品を作っているが、その価値を伝える術を知らない。現代の消費者は忙しく、商品の背景にある物語や技術を理解する時間がない。単純な価格比較で判断してしまう。これは多くの伝統産業が直面している共通の課題だった。


 その夜、私は一人でホテルの部屋にいた。窓から見える東京の夜景を眺めながら、今日見たものを整理しようとしていた。しかし頭に浮かぶのは、数字ではなく、あの柔らかなおしぼりの感触と、職人たちの真剣な眼差しだった。


 私は自分に問いかけた。本当に、この会社を解体することが正解なのだろうか?


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