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最終話

「花を摘もう」

「花を摘もう」

「あなたのために」

「あなたのために」


「花を飾ろう」

「花を飾ろう」

「あなたの髪に」

「あなたの髪に」


溟濬(めいしゅん)は気だるげに玉座に腰掛け、摘んで来させた銀澄茉莉花(ぎんちょうまつりか)を手に取って眺めながら、左漣(されん)右漣(うれん)が歌う歌を聴いていた。

傾いた日差しが赤みを帯びて北潭殿の中を照らしている。

「また忌み神になったりしないでくださいよ?」

羽根団扇越しに溟濬の様子を見ていた紫緊(しきん)が、異物の混じったような笑みを浮かべながら呟いた。

溟濬は赤い瞳でぎろりと紫緊を睨む。

「冗談でもそういうことを言うな。()ぐぞ」

何を捥ぐつもりなのか、溟濬は低い声で紫緊を威嚇した。

「忌み神になっても、玲湲(れいえん)様は来てくれませんからね?」

「そんなことはわかっている」

紫緊はただ相手を不愉快にさせるためだけに言っているとわかっているので、溟濬はどうにか聞き流そうとした。

「一時はどうなるかと思いましたけど、坤宸(こんしん)殿が猶予を与えてくださったおかげで、収まるところに収まったことになるんでしょうかね」

玲湲の姉の淑麗(しゅくれい)が、巫女として務めを果たしたと偽り皇太子妃になったことには、溟濬と同じか、あるいはそれ以上に坤宸が激怒した。

五行神(ごぎょうしん)の中で、黄麒(こうき)五常(ごじょう)のうちの“(しん)”を司る。

“信”とは、真実を告げ、約束を守り、誠実であることを示す。

淑麗が巫女を騙り、両親も淑麗こそが巫女と偽り、皇帝欽源(きんげん)は巫女として務めを果たした娘を皇太子妃に迎えると宣言したにも関わらず、皇太子潤秀(じゅんしゅう)が玲湲ではなく淑麗を妃に迎えたことは、正に“信”に反し、黄麒に真正面から喧嘩を売るようなものだった。ましてや神に仕えた巫女であると騙るなど、五行神に対する冒涜以外の何物でもない。

欺かれた側でもあるとはいえ、皇帝一族さえその一端を担ってしまったことは黄麒にとって許せるものではなかった。

もしも、玲湲自身が巫女の務めを果たしたものの皇太子との結婚を望まず、だから代わりに姉の淑麗が皇太子妃になった、ということだったならば溟濬も納得し、坤宸もまだ容認できた。

だが玲湲は文字通り己が身を削るようにして巫女の務めを果たしたというのに、淑麗はあたかも自分の成果であるかのように偽ったのだから、文字通り溟濬と坤宸の逆鱗に触れることとなった。

坤宸は本来、人の世に過度な干渉はしないと決めており、他方溟濬はそもそも人間が嫌いで関わりたがらない。しかし玲湲については両者とも看過するわけにはいかなかった。

溟濬と坤宸は普段は決して気が合う間柄というわけではないのだが、なぜか今回ばかりはやたらと息が合い、手始めに雨を降らせることを止め、水源の水を絶った。

そして坤宸は、溟濬が玲湲に黒水晶の玉佩(ぎょくはい)を与えたと知って、それを証として示させれば玲湲が巫女だとわかるだろうと踏んで神託を下した。

実際、玉佩がきっかけとなって淑麗は馬脚を現し、欽源も潤秀も過ちに気付くことができた。しかし、もしもそれが為されないままのようであれば、坤宸は地割れを発生させて帝宮(ていきゅう)を丸ごと沈めることさえ考えていた。あるいはもしも淑麗たちがより悪辣な方法に走り、玲湲を害そうとするようなことがあれば、溟濬も坤宸もさらに直接的な方法を取るつもりでいた。そして玲湲の身の安全を確保する手筈まで溟濬と坤宸は話し合い始めており、溟濬と坤宸がそんなに意気投合するところをこれまで見たことがなかった紫緊は、傍観しつつ何が起こるか愉しみにしていた。

もしも皇帝一族が自らの過ちを正せなかった場合、ことによっては再び(りょう)は混迷に陥るかもしれないが、そんなことは五行神の一柱である白狐(びゃっこ)の紫緊、もとい鉑瑯(はくろう)にとっては、人の世の歴史の一幕でしかない。それに、危険が及ぶからと玲湲が帝宮から連れ出されるようなことになれば、横から掻っ攫う好機もやって来るだろうと思って紫緊は期待していた。

しかし実際はそんなことは起こらず、皇帝は罪人を罰し、玲湲こそが巫女だったと公に知らしめ、皇太子妃として迎えると決定した。

紫緊にとっては玲湲を自分のものにする機会が遠ざかり実につまらない結果となったが、坤宸はすべて丸く収まったため非常に満足していた。

そして、玲湲が家族の命令に従い巫女であることを黙っていたのは、自分を大切にしてくれた宝瑾(ほうきん)のためだったと知った坤宸は、玲湲の優しさに大いに感心して同時に納得した。

「溟濬が(つがい)にしたいと言い出すのも頷ける」

「俺はそんなことは一言も言っていないがな」

どうやら紫緊からの伝聞のせいで少々認識が行き違ったらしかった。

しかし。

玲湲が溟濬にも紫緊にも明かさなかった家族の邪な思惑を知っていたならば、自分は玲湲をどうしていただろうかと溟濬は思い、しかしすぐにその考えを頭の中から掻き消した。

それでも、毎日霊薬酒を捧げていた玲湲の姿が心の中に浮かぶ。

玲湲は、最初から皇太子妃になるつもりなどなかったのだ。

人の世へ帰っても自分は皇太子妃にはなれないとわかっていたのだ。

それでもなお、玲湲は霊薬酒を捧げ続けた。

人の身には酷な儀式にも耐えて。

干ばつと飢饉で苦しむ人々のために。

蝕まれ苦しむ忌み神のために。


苦しむあなたを見て何も思わずにいられるほど、私の心は強くありませんでした


実に玲湲らしい言葉だと溟濬は思う。

玲湲は、正式な婚礼はまだとはいえ、既に東宮(とうぐう)で事実上の皇太子妃として暮らしている。

皇帝夫妻や他の親族との関係も良好で、玲湲は潤秀とも非常に仲睦まじいという。ならば、もしかしたら早くも来年には子宝に恵まれるようなこともあるのかもしれない。

これでよかったのだと、銀澄茉莉花を見つめながら溟濬は自分に言い聞かせた。

「太子様は誠実で優しい方ですし、婚礼の日取りも決まって、玲湲様はきっと今頃幸せ……でしょう…ね…?」

紫緊と溟濬は同時に気付いて同じ方向を向いた。

溟濬はそのまま引き寄せられるように玉座から立ち上がり、数歩進んだのちに閃光と共に姿を消した。

「…おやおや」

紫緊は目を開き、その金色の瞳を愉快そうに光らせながら微笑んだ。

「あの方は何をしでかすかわからないとは思っていましたが、まさかここまでとは」

やがて左漣と右漣も気付き、うれしそうにふわりふわりと飛び跳ねる。

「かえってきた」

「かえってきた」



玲湲は走り続けた。

巫女になるために通った場所を。

役目を終えて帰った道を。

もはや巫女でもない自分が立ち入ることは許されない。

それはもちろんわかっていた。

人の世には二度と戻れないかもしれない。

帰れないかもしれない。

それでも玲湲は走った。

北潭殿を目指して。

黒水晶の玉佩を握り締めて。

玲湲は、紅宝石のような蓮華草の咲く小さなあの野原に出た。

一面の蓮華草が夕日を受けてきらきらと輝いていた。

しかし突然目の前で強い光が弾け、玲湲は思わず立ち止まって目をつむる。

ゆっくり目を開くと、そこに溟濬が立っていた。

「…なぜ来た」

風になびく黒い髪の下、赤い瞳が玲湲を見据える。

「ここには、人の身で立ち入ることは許されん」

玲湲の前に立つ溟濬は近寄り難い威厳を湛え、そこにいるのは正に五行神の一柱、玄龍(げんりゅう)だった。

「お前は」

溟濬はただ無表情に玲湲を見下ろす。

「もはや巫女ではないのだから」

本来ならば、巫覡でもない人間が五行神の座する領域へ無断で立ち入った場合、二度と人の世に帰ることはできず、死ぬことすら叶わず、ただ永遠に彷徨うことになる。

「お前が務めを果たしたことに免じて、一度だけ猶予をやる」

溟濬の声は、泰然として、穏やかで、冷たかった。

「帰れ」

その言葉を聞いて、玲湲は体が引き裂かれるような気がした。

そして思い知る。

自分が、何を望んでいるのか。

玲湲は溟濬の瞳を見つめ返す。

「…嫌です」

玲湲は、静かな声で、しかしはっきりと言い切った。

玲湲の第一声が拒否から始まり、溟濬の眉間に深い皺が刻まれる。

「帰れ」

「嫌です」

語気を強めても玲湲の返事は変わらなかった。

「帰れ!」

「嫌です!」

五行神の一柱である溟濬に凄まれても、玲湲は怯まず拒絶した。

玲湲がこうなると絶対に退かないとわかる溟濬は頭を抱える。

「正気か?東宮妃(とうぐうひ)の座を捨てるのか?」

このまま皇太子と婚礼を挙げれば、いずれ皇后となり、子が帝位に就いたならば皇太后となり、国母となることも叶うというのに。

しかし、同時に溟濬にはわかっていた。

玲湲がそんなことを望む人間ではないことを。

では玲湲は何を望むのか。

それは、溟濬は決して考えないようにしていた。

「溟濬様は」

その名を再び呼んだ瞬間に、玲湲は胸が詰まるほど切なくなった。

「仰ったでしょう。私に」

玲湲は、溟濬のその言葉がずっと忘れられなかった。

「幸せになれと」

幸せを求めてもいいのだと、初めて教えてくれたのは溟濬だった。

しかし玲湲は、最初その言葉の意味すらわからなかった。

けれど、今はわかる。

「私の幸せは、もう」

玲湲は、その一歩を踏み出す。

「あなたの傍にしか、ありません」

そう告げて、玲湲は自分から溟濬の胸の中へと飛び込んだ。

玲湲がそんなことをするのは初めてのことで、溟濬は一瞬動けなかった。

玲湲は自ら溟濬の抱擁を求めて溟濬の背を抱いた。

初めての感覚に、溟濬の胸に震えるほどの熱が満ちていく。

玲湲の耳に、溟濬が呆れた様子で溜め息を漏らすのが聞こえた。

「…莫迦な奴だ」

そう呟いて溟濬は、ゆっくりと、しかしきつく玲湲を抱きしめる。

玲湲の体はすっぽりと溟濬の腕の中に納まってしまった。

この小さな体で、玲湲は毎日儀式を行い、霊薬酒を捧げ、()(がみ)となった(こう)(みず)(とく)を与え、終には龍へと成さしめたのだ。

「玲湲」

「はい」

顔を上げた玲湲の目は涙で濡れていた。

巫女の務めを終えて人の世へ帰ったあの日からずっと、溟濬のことを思い続け、それでも忘れようとして、やはり忘れられなかった分、玲湲がこらえてきた涙だった。

溟濬は手に持っていた銀澄茉莉花を玲湲の前に差し出す。

「お前にやる」

溟濬はその銀澄茉莉花を玲湲の髪に挿した。

玲湲の髪には、帝宮で与えられた(かんざし)梳子(そし)もない。

今はただ小さな花だけが澄んだ光で瞬き、甘い香りを漂わせる。

「…ありがとうございます」

玲湲が笑顔になると同時に、その目からは涙がこぼれた。

玲湲が涙を拭う前に、溟濬はその涙ごと玲湲を抱きしめた。玲湲も溟濬に身を預け、その背を抱く。

互いのぬくもりが、胸の内に溢れる熱と溶け合い、命を分かち合うかのような感覚をもたらした。

それを何と呼ぶのか、ふたりはまだ知らない。

[終]


ありがとうございました。評価・ブックマーク等して頂けると筆者が喜びます。


追記:

単発作品にするつもりでしたが、キャラクターに愛着が湧いてしまったので続編を構想中です。

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