第12話
「紫緊様、今までありがとうございました」
北潭殿を出て人の世へと帰る日、玲湲は紫緊に深々と頭を下げた。
「こちらこそありがとうございました。短い間でしたが、玲湲様と過ごせて楽しかったですよ」
玲湲と紫緊は共に魄代の儀を行う間柄であり、楽しいだの何だの言うような仲ではないはずなのだが、これはこれで紫緊らしいと玲湲は思った。
「左漣も、右漣も、ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
左漣と右漣はいつもどおりの淡々とした表情のままそう応えたが、普段とは違ってふわりふわり跳ねることがないからなのか、どことなくさみしそうにも見えた。
「溟濬様」
玲湲は、溟濬を見上げた。
溟濬が随分と長身であることを、玲湲が知ったのはつい先日のことだった。
玲湲が見る溟濬とえいば、居室で腰を降ろしていることがほとんどだったため、溟濬がこうまで背が高いとは玲湲は知らなかった。
「お世話になりました」
玲湲がそう言って一礼すると、溟濬は、ふ、と息を漏らして笑った。
溟濬の長い黒髪が揺れ、清玉木蓮の香りがほのかに漂う。
「世話になったのは、俺の方だ」
微笑む溟濬は、初めて会った時の苦しげな様子は幻だったかのように穏やかで、務めを果たせてよかったと、玲湲は心からそう思った。
「俺は」
玲湲が溟濬を見上げると、溟濬は一瞬何かを言いかけて口を閉じ、そしてまた改めて口を開いた。
「お前に、感謝している」
「いえ、そんな」
溟濬の赤い瞳が、何か言いたげな表情で揺れているように玲湲には見えたが、玲湲は溟濬の真意を深く探ることはやめた。
そんなことを考えても、何かがどうなるものでもないのだから。
「これを」
溟濬が差し出したのは、つややかな黒水晶で流水を象った玉佩だった。
思いがけない贈り物に、玲湲の心臓は焦ったように騒ぎ始めた。
玉佩を受け取る瞬間、微かに溟濬と手が触れ合って、玲湲は胸の奥がどうしようもなく切なく震えた。
「ありがとう、ございます」
玉佩を贈ることは、相手に対する親愛や信頼を意味する。
そして時に玉佩は愛情の証として贈られ、婚姻の申し込みを意味することもあった。
しかし、溟濬が玉佩を贈ってくれるのは、巫女としての務めを果たしたことへの感謝の意味なのだから、勘違いしてはいけないと玲湲は自分に言い聞かせた。
けれど、それでも嬉しかった。
「大切にします」
人よりも遥かに長寿であろう溟濬が、どれほど自分のことを覚えていてくれるかわからなかったが、自分はこの喜びを一生忘れないだろうと玲湲は思った。
それに、この玉佩があれば、きっとどんなつらいことにも耐えられる。
そう思った。
「お前が巫女として務めを果たした証としても、俺からの礼としても、小さすぎるとは思うが」
「いいえ」
玲湲は首を振り、玉佩を握り締めた。
溟濬は、これまで毎日過酷な儀式に身を捧げてきた玲湲は、相応の果報を受けるべきだと思っていた。
皇太子妃となれば、何不自由のない暮らしと、誰もが羨むほどの名誉を得られることだろう。
そのすべてをもって尽くし、五行神の一柱を救い、夌を救った玲湲には、皇后となり、国母と呼ばれ慕われる姿はきっとよく似合うことだろう。
そして溟濬自身、玲湲の幸せを願っていることに変わりはなかった。
そのために今自分にできることは、ここから送り出すことだけなのだ。
それでも。
もう一度、最後に玲湲の笑顔が見たいと溟濬は思った。
けれど玲湲は、俯いたままで顔を上げようとしない。
玲湲、と名を呼ぼうとして、溟濬は口を噤んだ。
今玲湲の名を呼び、玲湲が顔を上げ、目が合ったら。
きっと何かが溢れ出し、壊れてしまうだろうと思った。
「…幸せになれ」
玉佩を握り締めて俯く玲湲に、溟濬は短くそう告げた。
「はい」
俯いたまま、玲湲は頷いて答えた。
溟濬の言葉に頷きながらも、玲湲は自分の愚かさが嫌になった。
偉大な五行神の一柱たる溟濬に、自分は何を期待していたのだろう。
何を言ってほしいと思っていたのだろう。
自分にそんなことを望む資格など無いというのに。
玲湲は、溟濬に対してもう一度深々と頭を下げた。
さようなら
それは、口に出せなかった。
涙声になっていることに、気付かれたくなかった。
玲湲はそのまま、溟濬の顔を見ないまま背を向け、歩き始めた。
玲湲が歩を進める度に、澄み渡る大気が頬を撫ぜ、髪を揺らした。
玲湲は歩きながら深呼吸する。
この場所の優しい香りを、忘れないために。
自分には分不相応な寂しさを、忘れるために。
歩いていく玲湲の視界に、今や親しみさえ覚えるようになった草木や茸が映った。
翡翠草が、還霊草が、瑠璃牡丹が、真珠棗が、珊瑚芙蓉が、鉄火楊梅が、琥珀柚子が、白金笹が、月光茸が、思い出と共に玲湲の横を過ぎ、去っていく。
そして玲湲は、初めて仙境に足を踏み入れた日に見た、清玉木蓮と銀澄茉莉花のところまでやって来た。
あれから随分と経ったような気もするが、数えてみればさほど長い月日が流れたというわけでもない。人生においては、ほんの短い間のことになるはずだ。
玲湲は足を止め、螺鈿のような花びらの清玉木蓮と、可憐な花をつける銀澄茉莉花を見つめる。
溟濬の髪を梳く際の香油は清玉木蓮の香りであり、玲湲は銀澄茉莉花を摘んで溟濬の髪に飾った。
それは玲湲にとってかけがえのない時間だった。
そして、もう二度と戻ってくることはなく、過去の思い出とせねばならないものだった。
どうして
玲湲は走り出した。巫女となるために歩いた道を逆方向に走り続けた。
いつの間にか、周囲の草木がよく知るものになっていた。胸に通る空気も、風も、馴染みのある穏やかさで玲湲を包んだ。
玲湲は自分が仙境を離れ、人の世に戻って来たことを悟る。
見覚えのある道は草木の色が変わっており、玲湲は人の世では季節が移り替わっていることを感じた。
そして、一番違ったのは踏みしめる土の湿りけと草木のみずみずしさだった。
それはまるで、すべての命が生きることを思い出したかのように。
息をする度に、しっとりとしたやわらかな香りが玲湲の胸を満たした。
雨が降ったからだ。
巫女としての務めを果たせたからだ。
家族から役立たずと言われ続けていた自分でも、やっと役に立てたのだ。
それは、玲湲が巫女となる時に心から望んでいたことだった。
それが叶い、うれしいはずだというのに。
どうして
どうして
玲湲は、巫女になるための事前儀式を行った神儀台直属の舎殿を目指して、ひたすらに走った。
どうして、涙が止まらないのだろう
「あなたがこんなに甲斐性無しだとは思いませんでした」
玉座に座る溟濬に向かって、紫緊は羽根団扇を扇ぎながら呆れたように告げた。
彼の本当の名は鉑瑯。
五行神の一柱として夌の西方に座し、金の徳を司る白狐である。
紫緊とは玲湲に呼ばせるために適当に思いついただけの仮の名にすぎない。
しかし玲湲から、紫緊様、紫緊様、と呼ばれているうちに悪くないと思えてきて、今ではわりと気に入っている。
「私ならとっとと番にして絶対に帰らせませんよ」
「お前と一緒にするな」
溟濬は顔を顰めて紫緊を睨んだ。
「私は、てっきりあなたが番にするものだとばかり思っていたから控えていたのに」
自分に仕えているわけでもない巫女に対して何を控えていたというのだろうか。
そもそも、そんなことを考えるだけでも随分と不謹慎ではある。
「こんなことなら早くから坤宸殿に玲湲様を番にしたいと言っておけばよかったです」
「そんなことは、どのみち坤宸が許さんだろう」
皇帝一族の守護神である黄麒こと坤宸は、容易ならざる巫女の務めを果たした玲湲が皇太子の妃となることを喜んでいる。
それも当然だろうと溟濬は思っていた。
玲湲は普段は至っておとなしく従順に見えるので、ならば言われたことには何でも従う性格かと思いきや、実は本気でこうと決めたことは絶対に譲らない。誰に何を言われようが、どんな困難が立ち塞がろうが、必ずやり遂げる。
それは時に自らのことさえ顧みなくなるほどだということを、溟濬はその目で見届けた。
そんな頼もしい玲湲が皇帝一族に加わるというなら歓迎されて当然というものだ。
「坤宸殿が何を言おうと知ったことかって言ってたのどこのどなたでしたっけ?」
「俺は坤宸が望んだから玲湲を帰したわけではない」
「はいはい。玲湲様の幸せのためだとか綺麗事言うんでしょう」
紫緊の眼差しには、呆れを通り越して半ば侮蔑めいた表情が浮かんでいた。
「…玲湲様の本心を聞く度胸もなかったくせに」
紫緊はその金色の目を開いて毒づいた。
「お前なら聞けるのか?」
「聞きましたよ」
予想外の返答が返って来て思わず溟濬は紫緊を見上げた。
「あっさり振られましたけど」
しかも一言の言葉もないうちに。
実は紫緊にとっては、寝所で押し倒した時の玲湲の表情が思いのほか深刻な心の傷となっていた。
強い言葉で拒絶されたわけでもないのに、完全に拒否されているのだと思い知ることになろうとは。
何より、玲湲にあれほどつらそうな顔をさせてしまったことを紫緊は悔いていた。
ここまで切実な後悔は初めてのことかもしれないと思うほどに。
「拒否されても番にする気だったのか?」
「何か問題でも?」
「なぜ問題がないと思える」
玲湲がもういないせいで、溟濬の突っ込みが真っ当すぎることを誰も指摘してはくれなかった。
「口説き方を何種類か試そうかなと思ってたんですよ」
一度ではめげないあたりは紫緊らしいが、そもそも紫緊がそこまで他者に執着するのも珍しい、というか溟濬が知る限り初めてのことだった。
「忌み神に口移しで霊薬酒を飲ませるなんて、そんなことを考えるのみならず自分でやってのける人間なんて後にも先にも玲湲様だけでしょうし」
普通の人間は、忌み神の見た目のおぞましさと瘴気のために、触れることはもちろん近づくことさえ尻込みする。
しかし紫緊が玲湲を番にしたいとまで思う理由は、それだけでは足りないと紫緊自身思っていた。
自分はあの人間の娘の何に惹かれているのだろうかと紫緊は考える。
玲湲を番にして、ずっと一緒にいれば理由もわかるのかもしれない。
わからないままかもしれないが、それはそれで悪くない。
「でも東宮妃になった玲湲様を私が帝宮から掻っ攫ったりしたら、さすがに坤宸殿にブッ殺されそうですしねぇ…」
本気か冗談か測りかねることを呟きながら、紫緊は溟濬に背を向けて帰って行った。
北潭殿には溟濬だけが残され、聞こえるのは外の鳥の鳴き声と草木が風で揺れる音だけだった。
北潭殿は、かつての静謐さを取り戻し、穏やかな空気が流れている。
しかし溟濬には、そんな宮殿がやけに静かに、そして広く空虚に感じられた。
ただひとり、玲湲がいなくなっただけだというのに。
考えてみれば、玲湲がいた痕跡は北潭殿にはもう何も残っていない。
ただ、溟濬の中にのみ、玲湲が与えてくれた水の徳が満ちていた。
それは、忌み神となった蛟の力を取り戻させ、さらに龍と成さしめるほどの。
五行神の長、坤宸をして、随分と早いと言わしめるほどの。
玲湲は毎日毎日、霊薬酒の材料を集め、魄代の儀を行い、溟濬に飲ませた。
それは、巫女としての務めを果たすためだったのだろう。
しかし。
霊薬酒を飲んだ苦痛が収まるまで抱きしめてくれたのは。
髪を梳いてくれたのは。
花を摘んで飾ってくれたのは。
花を髪に挿してくれたのは。
笑顔を見せてくれたのは。
なぜだったのか。
しかし溟濬は、考えないことにしていた。
考えれば考えるほど、身勝手な願望に囚われそうだったからだ。
玲湲を人の世には返さず、ずっと傍に置きたくなるに違いなかったからだ。
自分はそんな望みを抱くことなどできないと溟濬が悟ったのは、玲湲に玉佩を渡した時だった。
玉佩を受け取った玲湲の腕は、いつの間にか酷く細くなっていることに気付いて溟濬は愕然とした。
来たばかりの頃と比べて、玲湲は随分と痩せてしまっていたのだ。
毎日会っていたために気付きにくかったとはいえ、玲湲にどれだけ負担をかけていたのか、最後の最後になって溟濬は思い知ることになった。
なぜ気付いてやれなかったのか。
なぜ労わってやれなかったのか。
今更遅いというのにそれを悔いている自分に、玲湲を引き留めることなど許されるとは思えなかった。
だから溟濬は玲湲を送り出した。
玲湲の後ろ姿が見えなくなるまで、そして玲湲の気配が消えるまで、ただ黙って見送った。
人の世に帰り、皇太子の妃となることが、玲湲の幸せなのだと。
いずれ皇太子が、そして玲湲の産んだ子が帝位に即き、彼らが治める世に豊かな水の恵みをもたらすことこそが、玲湲の幸せのために自分ができることなのだと。
溟濬は、そう信じた。
[つづく]
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