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第11話

夜中。

玲湲(れいえん)はふいに目覚めた。

そして、響いてきた低い声が溟濬(めいしゅん)のものだと気付いて玲湲は完全に意識が覚醒した。

最近は溟濬が苦しむ呻き声が聞こえることもなかったので、玲湲が夜に目を覚ますことなどほぼなかった。

しかし。

玲湲の耳に聞こえたのは、紛れもなく溟濬の唸り声だった。

玲湲は胸の奥が冷たい不安で覆われ、すぐに起き上がり寝所を出た。

順調に回復しているはずの溟濬が、なぜこんな声を発しているのか。

玲湲は確かめずにはいられず、溟濬の居室へと急ぐ。

これが無用の心配であればそれでいい。その方がいい。

そう思いながら玲湲が広間にある玉座の後、居室の扉の前まで来ると、声は確かに中から聞こえてきているとわかった。

「溟濬様?」

玲湲は様子を伺いながら、中にいるはずの溟濬に呼びかけた。

「溟濬様」

返事はない。

ただ溟濬の低い唸り声だけが聞こえていた。

「溟濬様!溟濬様!」

玲湲が呼びかけても全く返事は無く、玲湲は不安が増し、意を決して扉を押し開いた。

そこには、いつもと変わらず結界の中に溟濬がいたが、まるで蝕まれていた頃のように床に臥せ、体を震わせて唸り声を漏らしていた。

「溟濬様!」

玲湲が咄嗟に駆け寄ろうとすると溟濬が顔を上げた。

来るな

その声に玲湲は足を止める。

溟濬の赤い瞳はぎらぎらと異様な光を放っていた。

離れろ

けれど玲湲は溟濬がなぜそんなことを言うのか判らず、そこに立ち尽くした。

玲湲は紫緊を呼んでくるべきかとも考えたが、尋常ならざる状態の溟濬から離れることも不安で動けなかった。

玲湲の目の前で溟濬の体ががくがくと震え、唸り声と共に何かが溢れ出る。

溟濬の苦しげな様子を見た玲湲は、何らかの理由でまた瘴気が起こるようになってしまったのかと思った。

しかしすぐに玲湲は気付いた。

違う。

瘴気ではない。

これは。

そう思った瞬間、風ではない何かの圧を感じ、玲湲は思わず身構えた。

大きな閃光が目の前で広がり、その眩しさに玲湲は目を閉じる。

居室の戸が大きな音を立てて一斉に外方向へ開き、居室の調度品が壁に当たる重い音と、聞いたことのない何かが割れる音が響いた。

時を同じくして、(りょう)の国土全体を雲が覆い、雨が降り始めた。

ざあざあという激しい大雨ではなく、さらさらと澄んだ音と共にすべてを包み込む穏やかな雨だった。

大きな音がしたにも関わらず、玲湲はそれほどの衝撃も痛みも感じなかった。

周囲が静かになったので玲湲がおそるおそる目を開いてみると、すぐ目の前に誰かが立っていて、玲湲は一瞬紫緊かと思った。

しかし、視線を上げた玲湲に見えたのは、つやめく黄金色の長い髪だった。

「…思っていたよりも随分と早い」

彼は、独り言のようにそう呟いた。そして、玲湲は棗のような甘い香りを感じた。

玲湲の前に立っていたのは、見知らぬ大柄な青年だった。紫緊よりもさらに背が高く体格もがっしりとしているが、不思議と威圧感は無く穏やかな佇まいだった。

「無事か」

翡翠のような瞳で見下ろされ、青年が自分に話し掛けていることに気付き、玲湲は、はい、と頷いた。

どうやら彼が庇ってくれたおかげで衝撃を受けずに済んだらしい。

褐色の肌の、優しげで落ち着きある声の青年だった。

その透き通るような翠色の瞳に、玲湲は思わず見入ってしまった。

見た目こそ若いが、そこにいるだけで度量の大きさと懐の深さを感じさせるような存在だと玲湲は思った。

坤宸(こんしん)

そして彼の向こう側から、溟濬の声が聞こえた。

「玲湲に気安く触れるな」

「…ほう」

青年は振り向き、溟濬を見て目を細めた。

青年が坤宸と呼ばれて反応する様子を見て、これまで幾度か名を聞いた坤宸とは、彼のことなのだと玲湲は悟った。

鉑瑯(はくろう)から聞いた通りのようだ」

「黙れ」

振り向いた坤宸を睨む溟濬からは黒鉄(くろがね)のような光がゆらゆらと立ちのぼり、その瞳もひときわ赤く激しく耀いて、まるで揺らめく烈火のようだった。

坤宸は再びその鮮やかな翠色の瞳で玲湲を見る。

「よくやってくれた。五行神(ごぎょうしん)(おさ)として礼を言う」

玲湲は一瞬耳を疑った。

五行神の長。

ならば、彼こそが皇帝一族の守護神である黄麒(こうき)ということになる。

「これは、失礼致しました」

あまりに偉大な存在を前に、玲湲は頭を下げ、跪こうとした。

しかし坤宸は玲湲の手を取り、それを止める。

「そう畏まる必要はない」

坤宸は優しく穏やかな声で諭したが、玲湲は頭を下げたままだった。

「玲湲、だったか」

「はい」

名を呼ばれてようやく玲湲が顔を上げると、坤宸は大きなその身を屈め、玲湲の顔を間近で覗き込む。坤宸の金色の睫毛の上で光の粒が転がる様子まで見えそうだった。

そしてやはり棗のような香りがふわりと漂った。

「…どうやらお前は、随分と無茶を」

その瞬間、

「触れるなと言ったはずだ」

結界の中にいたはずの溟濬が玲湲を自分の腕の中に抱き寄せ、坤宸を睨んだ。

しかし溟濬から低い声で威嚇されても、坤宸は悠然とした態度を崩す様子はなかった。

「まさかお前がここまでになるとは」

坤宸は溟濬の警戒など気にしていないのか、何やら感慨深げに頷く。

「おや、あの結界が壊れたんですか」

そして、いつの間にか紫緊も来て、のんきに羽根団扇を揺らしながら微笑んだ。

どうやら、溟濬の周囲の結界は先程の衝撃で壊れたらしい。

しかし玲湲には、なぜ結界が壊れたのか、溟濬に何が起こったのかまではわからなかった。

「玲湲」

坤宸は、溟濬の腕の中に抱かれたままの玲湲に語りかける。

「これまでの務め、ご苦労だった」

それを聞いて、玲湲は胸の奥が一瞬で握り潰されるような感覚になった。

いつか来るとわかっていた瞬間が、予期する間もなく訪れた。

坤宸の言葉は、巫女としての務めの終わりを玲湲に告げるものだった。

(みず)(とく)を備えたお前が東宮妃(とうぐうひ)となり、またいずれ皇后となれば、五行の均衡により夌は安定し、繁栄していくだろう」

皇帝が、巫女の務めを果たした娘を皇太子妃として迎えると宣言したことは無論坤宸も知っている。現在の皇帝一族には少ない水の徳を補う者が妃となることは、坤宸からしても歓迎すべきことだった。

「それに、お前のような誠実で勤勉な人間が統治者の一族に加わることは、喜ばしく幸いなことだ。皆が歓迎し、祝福することだろう」

五行神の長たる黄麒は、そう告げて玲湲の前途を言祝(ことほ)いだ。



夌の全土に降った雨は乾ききった大地を優しく潤し、恩寵を与えるかのような雨に人々は歓喜した。

翌日、帝宮(ていきゅう)は喜びとざわめきで溢れんばかりだった。

「陛下!陛下!」

皇帝の元には、廷臣や官吏が入れ替わり立ち代わりやって来る。

「また、水源が蘇ったとの報告です!」

夌の各地で、涸れたはずの井戸に水が満ち、泉は再び湧き()でて、池も湖も水を湛え、河川の水位は一気に上がった。

「…(たん)家の娘がやったか」

皇帝欽源(きんげん)は、都の北、玄蛟(げんこう)の座す渾淵嶺(こんえんれい)を帝宮から見つめた。

雨が降り始めてからたった一日で国中の水源が蘇るなど、とても偶然と言えるものではない。

間違いなく、五行神の一柱、水の徳を司る玄蛟が力を取り戻したのだ。

これまで多くの娘たちが巫女となっても成し得なかったことを、湛家の娘はやり遂げた。文字通り国を救ったその偉業には、必ず報いねばならないと欽源は心から思った。

その後しばらく、雨は夜のみ降り続け、夜明けと共に止むことを繰り返した。

まるで雨雲が意志を持ち、太陽の光を恵もうとしているかのように。

そして、神儀台(しんぎだい)に黄麒の神託が下った。


(こう)、水の徳を得、(つい)に龍となれり

[つづく]


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