第10話
その日、玲湲が霊薬酒の材料を採集して帰って来ると、いつもの場所に紫緊の姿がなかった。
左漣と右漣を介して精霊たちに紫緊の居場所を尋ねると、北潭殿の中でも玲湲が行ったことのない場所を示された。
その一室の扉は開いていたが、玲湲は手前で一言、紫緊様、と声を掛けた。
しかし返事はない。
玲湲がそっと中を覗き込むと、窓が開いていて外からやわらかく光が差し込んでいた。
その窓の横、寝台の上で紫緊は横たわっていた。
「紫緊様」
声を掛けてもやはり反応は無く、玲湲は少し不安になった。
物音を立てないよう静かに部屋の中へ入り、紫緊の元にそっと歩み寄る。
香が焚かれているわけでもないのに、桃のような甘くさわやかな香りが漂っていた。
玲湲が顔を覗き込むと、紫緊はすやすやと寝息を立てて眠っていた。寝姿もやはり近寄り難いほどの神々しい美しさだった。
窓からは心地よい風が吹き、紫緊の白い睫毛の先をふわふわと揺らしている。
普段の紫緊は疲れた様子などは一切見せないが、もしや毎日儀式をするのは紫緊の体にとっても負担なのだろうかと玲湲は思った。
しかし。
「……紫緊様」
紫緊の性格を考慮した結果、玲湲はとある考えに至った。
「狸寝入りはおやめください」
玲湲がそう告げると、紫緊は目を閉じたままふふっと笑った。
そしてゆっくりと目を開いて玲湲を見上げる。
「よくわかりましたね」
眉尻を下げる紫緊に、玲湲も応えてにっこりと微笑む。
「いいえ。鎌をかけただけです」
「おやおや」
一本取られたにも関わらず、紫緊は愉快そうに笑った。
しかし玲湲の方はすぐに真顔になった。
「私などが申し上げるようなことではないのかもしれませんが」
玲湲は至って真面目な様子で紫緊を見下ろした。
「紫緊様がもしも本当にお疲れならば、お休みになった方がよろしいのではないでしょうか」
紫緊の見た目は普段と何ら変わりなく、顔色が悪いわけでも疲れた表情をしているわけでもない。しかし紫緊の体調の良し悪しなど、人間である自分には判るものではないのかもしれないと玲湲は思う。そうなると、紫緊自身に尋ねるしかなかった。
玲湲の言葉を聞いた紫緊は、白く艶やかな睫毛を揺らして瞬きする。
「…あなたは、優しいですね」
紫緊はその金色の瞳で玲湲を見つめた。
「そうでしょうか」
そんなふうに言われると、玲湲はこの美しい青年が人ならぬ存在であることを忘れそうな気がした。
「ええ。優しすぎます」
紫緊は手を伸ばし、玲湲の手首を握る。
その手は、まるで月長石のように白く澄んでいたが、ふわりとやわらかくあたたかだった。
「毎日、毎日、過酷な儀式に身を捧げ」
そして紫緊はゆっくりと玲湲の腕を引き寄せる。
「腕も、こんなに細くなってしまったというのに」
紫緊は静かに溜め息を吐いた。
「まだ他の誰かの心配をしている」
その整った目元を微かに歪ませて紫緊は告げる。
「あなたはもう少し、ご自分を大切になさった方がいい」
いつも喰えない笑顔の紫緊の言葉の大半は玲湲も真に受けたりはしないが、身を案じてくれるその言葉はうれしかったので、玲湲は素直に紫緊に対する感謝を伝えた。
けれど。
「それは巫女としての務めを果たしてからに致します」
玲湲の言葉を聞いて、紫緊はまた溜め息を吐きつつ微笑んだ。
「そう仰ると思いました」
そして一瞬、紫緊の顔から笑みが消えた。
「…あなたが、ご自分を大切にしないのならば」
玲湲の腕を握る紫緊の手に、急に力が入った。
「私が、大切にします」
紫緊の言葉の意味を玲湲が確かめる前に、紫緊は玲湲の腕を強く引き寄せた。
突然のことに玲湲が驚く間もなく視界が回転し、気付けば寝台の上で紫緊に組み敷かれていた。
するりと、紫緊の指が玲湲の指と交差する。
「このまま、あなたを私のものにしたら、あの方は何と言うでしょうね?」
玲湲の耳元、息が吹きかかるほどの距離で、紫緊は囁いた。
「…紫緊様」
紫緊が言っていることの意味は玲湲にもわかる。
「悪い冗談は、やめてください」
その優しいぬくもりに呑み込まれてしまいそうで、玲湲は紫緊の胸を押し返した。
「冗談のつもりはないのですが」
しかし玲湲の顔を覗き込んだ紫緊が見たのは、嫌悪よりも苦しみが勝った表情だった。
それを間近で目にして紫緊は急激に思考が冷えた。
「…すみませんでした」
後悔ほどくだらないものはないと、常日頃から思っているというのに。しかし後悔とは、ある時突然やって来ることがあるのだと紫緊も知っていた。
玲湲が、どれほどの覚悟の元に巫女としてここへ来たか、知っていたはずなのに。
それを踏みにじることなど、望んでいないのに。
こんな顔を、させたいわけではないのに。
それでも、今の玲湲の心には、自分が埋められる隙間すら無いことが、紫緊はどういうわけか寂しかった。
紫緊はそっと玲湲の手を握る。
「けれど、もしもあなたが私を欲しいと思ってくださるならば」
紫緊の囁きは、甘く、優しく、玲湲の心を侵蝕しようとするかのようだった。
「五行神の長、黄麒に誓って、私はあなたを永遠に大切に慈しみます」
紫緊の白い髪がさらさらと揺れ、それは仄かに暗い部屋の中でも美しい光を振り撒いた。
しかし紫緊の言ったことは、ただ甘いだけの愛の言葉ではなかった。
五行神の中で、黄麒は五常と呼ばれる五つの道徳「仁・義・礼・智・信」のうち、“信”を司る。
“信”とは、真実を告げ、約束を守り、誠実であることを示す。
だから黄麒の元で立てた誓いは、決して破ってはならないとされている。
紫緊もそれを知っているからこそ黄麒を持ち出してきたのだろうが、どうしてわざわざ軽んずることなどまかり通らないような誓いを口にするのか。
「…なぜ」
玲湲は訝しんだ。
紫緊の美貌をもってすれば、彼が人ならぬものであろうとも、相手などいくらでも見つかるだろうに。
魄代の儀を行うほどの力があるというのに、たまたま巫女となっただけの一人の人間に対して、なぜそんな誓いを立てるのだろうか。
それとも、これも彼の戯れのうちなのだろうか。
玲湲はその問いの答えを紫緊の金色の瞳の中に探そうとしたが、それはいつも通り蠱惑的で謎めいた光を湛えているだけだった。
見つめるほどに、心の行き先を失ってしまいそうになるほどの。
魅入られて溺れてしまうことさえ、恐ろしくなくなるような気がしてしまうほどの。
しばらく、紫緊は答えることなく、黙ったまま玲湲を見下ろしていた。
その顔にいつもの笑みのないまま、紫緊は口を開く。
「なぜなのでしょうね…」
切なげに目を細め、紫緊は独り言のように呟いた。
その後、いつも通りに魄代の儀を終え、玲湲は溟濬に霊薬酒を飲ませた。
しかし玲湲の腕の中に身を預けようとしていた溟濬が急に顔を上げた。
「…どういうことだ」
眉間に深い皺を刻み、溟濬は玲湲を睨む。
その眼差しの鋭さに、玲湲は慄くと同時に魅了される自分に気付いた。
「なぜこうもあいつの匂いがする」
もちろん玲湲には心当たりがあるが、どう説明すべきか思案した。
溟濬の手が、玲湲の両腕を掴む。その力が思いのほか強くて、玲湲はそれを意外に感じた。
「…どこまでさせた」
答えない玲湲を見て、両腕を掴む溟濬の手に力が入った。
「答えろ」
溟濬は力任せに玲湲を引き寄せた。
溟濬の赤い瞳に、爛爛とした激しさが満ちていくのを玲湲は初めて見た。
「あいつに、どこまで許した!」
溟濬の声に怒気が混じる。
「お前は俺の巫女だ!忘れたのか!」
五行神の一柱が、たかが人間ひとりにこれほど感情を昂らせるとは玲湲は思わなかった。
ましてや、こんな、嫉妬めいた感情を露わにするとは。
「…あなたこそ」
玲湲は、穏やかな目のまま溟濬を見つめる。
「あなたこそ、お忘れなのですか」
しかし玲湲の声は、静かで、それでいて射貫くような響きを帯びていた。
「私は、あなたの巫女です」
玲湲は溟濬の頬に触れる。
「あなたにすべてを捧げるために、私はここにいます」
それだけで、玲湲の体の熱までも伝わってくるかのようだった。
「あなたに対して後ろめたいことなど、私にあるはずがございません」
玲湲は溟濬の前に身を乗り出した。
「疑いを晴らして頂くためならば、私はどのようなことでも致します。疑いを晴らしてくださるのならば、私を如何ようにして頂いても構いません」
唇に息が吹きかかるほどの距離で、玲湲は囁く。
「私の心も、体も、魂魄も、運命も」
玲湲の声も、息も、甘さを帯びていた。
「どうぞ、あなたのお望みのままに」
それは果たして誓約なのか、あるいは誘惑なのか。
しかし、玲湲が正に言葉そのままに思い、己のすべてを差し出すつもりであることは溟濬にもわかった。
溟濬は思い出す。
そうだ。
玲湲は、こういう人間だった。
一度これと決めたならば、何があろうと成し遂げようとする。
その道が如何に険しく、己が身を削るものであろうとも。
「…ただ、命は、命だけは」
玲湲の目元が、微かに歪んだ。
「巫女としての務めを果たすまで、お許し頂けないでしょうか」
溟濬は、ひとりの人間の語る言葉にこれほどの力があるとは知らなかった。
「務めを果たした後ならば、私は」
「もういい」
溟濬は玲湲の言葉を遮った。
玲湲は口を噤み、溟濬も何も言わず、ふたりの間に沈黙が降りた。
開け放たれた戸の向こうで草木を揺らす風が居室に吹き込み、溟濬の髪を揺らす。
清玉木蓮の香りが、玲湲を包んだ。
「…疑って悪かった」
溟濬はそう呟き、躊躇うかのようにゆっくりと、玲湲の腕の中に身を預けた。
玲湲はそれを受け入れ、溟濬の背を抱く。そしてさらに、強く抱きしめた。
溟濬も安堵して、玲湲のぬくもりに身を委ねる。
「…紫緊様が酷く性質の悪い悪戯をなさいまして」
溟濬の髪を撫ぜながら、玲湲は打ち明けた。
「今はもう反省していらっしゃるようですけれど」
お仕置きをしようにも紫緊にとってはお仕置きどころかご褒美になりかねない気もしたのでひとまずは許すことにした。
「結界さえなければ俺が殴ってやるんだが」
五行神の一柱であっても発想が人間と同じで玲湲は少々意外だった。
「溟濬様が殴ったら紫緊様顔が変わったりしませんか」
「まあ顔が良いことはあいつの数少ない美点のひとつではあるな」
まさか紫緊の顔が良いということが玄蛟公認だとは玲湲も予想していなかった。
「しかしあいつの顔が良いことで何か好事に繋がったという話は聞いたことがないし、顔が変わろうが特に問題はないと思うぞ」
玲湲は、紫緊の美貌が失われるのは正直惜しいと思ってしまっていたが、そんなことを言ってしまったら間違いなく溟濬がめんどくさいことになるので言わずにおいた。
「でも、あの紫緊様がおとなしく殴られるとも思えないのですが」
「そうだな…殴り合いになって山でも崩したら坤宸から山を創り直せと言われるだろうし、それはそれで面倒だ」
殴り合いという話から山を崩すだの創るだのと突然神仙らしい展開が出てきて、玲湲は溟濬や紫緊が人ならぬ存在であることを改めて思い出した。
「それにしても」
ふいに玲湲は両手でがしっと溟濬の顔を押さえた。
「考えてみれば、紫緊様の悪ふざけに付き合わされた挙句、紫緊様ではなく私があなたに釈明せねばならないとは、随分と理不尽な話だと思いませんか」
ぐぐぐぐぐ、と玲湲は笑顔で溟濬に詰め寄る。
「私は毎日、毎日毎日毎日毎日、溟濬様のために霊薬酒を捧げているのに、あなたは私を信じてくださらないし」
言葉だけからすると若干しおらしいことを言ってはいたが、玲湲はなぜか満面の笑みなので逆に怖かった。
冷静に考えた結果ガチギレ間際まで来てしまったらしい。
「何ならこれからは毎日溟濬様のお口に直接壺の霊薬酒の全量を注ぎ込む形式にしましょうか」
「落ち着け玲湲。俺が悪かった。謝る」
最近の溟濬は霊薬酒を飲んでも苦痛自体はほとんど無いとはいえ、さすがに神仙と人類共通の不味さを誇る霊薬酒を壺全量一気飲みは刑罰一歩手前の苦行でしかないため、溟濬は素直に謝ることを選んだ。
溟濬があっさり反省してくれたので、玲湲も怒りを鎮めることにする。
まあ一番悪いのは紫緊だし。
玲湲は溟濬から手を離し、霊薬酒の壺を手にした。
「そもそも、私は毎日儀式とあなたのことしか考えていませんし、他のことに時間も体力も割きたくありません」
玲湲がそう告げながら二杯目を盃に霊薬酒を注ぎ、顔を上げると、偉大なる五行神の一柱である玄蛟が、豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしていた。
「どうかされました?」
妙なことを言ったつもりもない玲湲は訝しみつつ壺を置いた。
「………もう一度言え」
玲湲は思い出しつつ口を開く。
「他のことに時間も体力も割きたくありません」
「その前の言葉だ」
察し力の高い玲湲は溟濬の望みを即座に把握した。
溟濬の赤い瞳を見つめ、玲湲は告げる。
「私は、毎日あなたのことしか考えていません」
玲湲がいい感じに省略したおかげで、溟濬は大いに満足して機嫌を直した。
[つづく]
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