第1話
木々が風に吹かれ、さわさわと囁くように揺れていた。
それは親切な道案内か、純粋な好奇心か、惑う人間を嘲笑う声か。
教えられた道を、玲湲はたった独りで歩いていく。
高い山々が連なる渾淵嶺の奥へと。
時は夕暮れ。
昼と夜、あの世とこの世、仙境と俗世、あらゆる境目が朧に溶けてゆく。
これよりは神域。人の身では本来立ち入ることは許されない。
掟に反して足を踏み入れれば、二度と戻れず、永遠に彷徨い続けることになるという。
ただ、神に仕える巫覡のみが、そこに身を置くことを許される。
ふと、玲湲は気付いた。
周囲に生い茂る草木が、見知らぬものであることに。
しかし同時に、どこかで見たことがあるような気もする。
道の脇の低木には茉莉花によく似た花が咲き、甘く優しい香りを漂わせていたが、その花びらは磨かれた銀のように澄んだきらめきを放っていた。
そしてその花びらを照らしているのは月の光ではなく、近くに生えている木の枝が放つ淡い光だった。
だからだろう、もう夜になろうとしているはずなのに森の中は穏やかな光に満ち、玲湲の足元もはっきり見えるほどだった。
道をほのかに照らす木の枝を見つめる玲湲の前を、光る何かが横切った。蛍かと思って目で追うと、羽根から光を放つ小さな蝶だった。周囲には同じように光る蝶があちこちで舞っていて、それぞれ光の色が異なり、森を彩っている。
蝶に誘われるように視線を上げた玲湲の目に、木蓮に似た花が見えた。その花びらは螺鈿のように美しく輝き、蝶が放つ光を受けて様々な表情を見せた。
花からは甘く清々しい香りが溢れていたが、ふいに玲湲の鼻先を何かがかすめた。
それは匂いというわけではないものの、玲湲が息をするたびに体の中に入り、形容し難い異物感をもたらした。
一歩、また一歩と玲湲が道を進む度に、“それ”は強く、濃くなっていく。
その発生源を辿るかのように玲湲が木々の間を進んでいくと、少しずつ木が減り、やがて聞かされていた通り、小さな野原へ出た。
一面に咲いている蓮華草はまるで紅宝石のようで、あちこちで光る蝶が舞うたびにきらきらと輝いた。
野原を横切った先、目印として教えられた黄金色の花びらの椿の木の先に道が続いていた。玲湲は再び森の中へと入り、緩やかな斜面に沿って続く道を上っていく。
玲湲はこれまで見たことのない鮮やかな青の牡丹や、珊瑚のような花びらの芙蓉、緑青色の淡い光を放つ茸などを目にすることになった。人の世では見られない植物や茸を見た玲湲は、自分は本当に仙境に来たのだと感じた。
やがて玲湲は大きくひらけた場所に出た。
そこには森の中とは思えないほど大きな宮殿が建っていて、それが自分が目指していた北潭殿だと玲湲はすぐにわかった。
北潭殿は美しくつやめく黒漆で覆われ、あちこちが銀細工で飾られている。銀は錆びやすいにも関わらず、すべてが磨いたばかりのようにきらめいていた。いつの間にか昇っていた月に照らされて荘厳な美しさを見せる宮殿に、玲湲は思わず見惚れる。
引き寄せられるように玲湲が北潭殿の前まで進むと、ふわりと、少年二人が姿を現した。
「ようこそ」
「ようこそ」
少年たちは、玲湲の左右でぺこりと揃ってお辞儀をした。
「わたしは左漣」
玲湲の右側、緑色の髪の少年が言った。
「わたしは右漣」
玲湲の左側、青色の髪の少年が言った。
どちらも人のような見目だが、おそらく五行神の眷族たちであるからには、人ならぬ何かの精霊だろうと玲湲は思った。
とはいえ彼らから敵意は感じず、不気味でもなく、ただやはりどこか不思議な雰囲気を纏っていた。
「どうぞ」
「どうぞ」
左漣と右漣に導かれて玲湲は北潭殿の正面にある階段を上っていく。
すると誰もいないのにひとりでに大きな扉が音も無く開いた。
そして、あの異物感のような気配が中から漂ってきて、玲湲は一瞬頭を締め付けられるような痛みを感じ、足が止まった。
しかし、左漣と右漣がふわりふわりと跳ねながら奥へ進んでいくので、玲湲もその後をついて行く。
北潭殿の中は火は灯されていなかったが、あちこちに置かれた木の彫物がほのかな光を放っていた。
その光は、北潭殿へ来るまでの森の中で見た木の枝が放つ光と同じだった。
ならばこれは、盈月樹だろうかと玲湲は思った。
仙境では、火が禁じられている場では盈月樹を用いて闇を照らすのだと玲湲は書物で読んだことがあった。
「こちらへ」
「こちらへ」
左漣と右漣に通された北潭殿の奥の一室では、すらりと背の高い一人の青年が待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。巫女様」
ゆったりと一礼した青年は、美しい金色の飾りがついた白い羽根の団扇を揺らしていた。
透き通るような美貌の青年だったが、色白の肌と雪のように白く長い髪を持ち、その俗世とはかけ離れた出で立ちから、人のかたちをしているが人ではないのだろうと玲湲は悟った。
「私はあなた様と共に儀式を行わせて頂くことになりますので、どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
玲湲もまた、青年に対して丁寧に一礼した。
とはいえ実は、玲湲は儀式のために来たものの、その詳細は厳重に秘匿されているため具体的なことは何も教えられていない。玲湲も、儀式の一切を決して口外しないという誓文を書いてからここへ来た。
「それから私は、僭越ながら巫女様のお世話も仰せつかっております」
青年は物腰柔らかに微笑んだ。
「ここで過ごすうえで何かお困りごとなどありましたら、ご遠慮なく仰ってください。できる限りのことは致しましょう」
「ありがとうございます」
青年は親切そうに見えて腹の底では何を考えているのかわからないと玲湲は感じたが、それでも共に儀式を行ってくれるのだから礼をもって関係を築こうと思い、玲湲は青年に尋ねる。
「あの…あなたのことは、何とお呼びすればよろしいでしょうか」
「私ですか?」
青年は、呼び方を尋ねられて少し意外そうな顔をした。
この国、夌では、互いの名前も知らない初対面時にいきなり自分から名乗ることはまず無い。相手の身分が高く誰もが呼称を知る存在である場合は別として、相手の名前を尋ねることから始める。相手が明確に年上や目上であるならばなおのこと自分が名乗る前に、どのようにお呼びすればいいですか?と相手に尋ねる。その後呼び方がわかったら、呼び掛けながら自分の名を名乗る、という流れが一般的な礼儀作法となっている。
「ではどうぞ、紫緊とお呼び下さい」
そして青年は少々奇妙な名を名乗った。
「紫緊様、ですね。私は玲湲と申します」
「どんな字を書くのですか?」
玲湲が自分の名前の文字を説明すると、紫緊はうっすらと目を開いて微笑んだ。
見えたその瞳は金色で、見る者を惑わせるかのような光を帯びていた。
「水の徳をあらわすかのような美しいお名前だ」
そう呟く紫緊の様子を見た玲湲は、人ならぬ何ものかであるこの美しい青年が、人間のような社交辞令を口にすることが、どこか不気味でもあり、興味深くもあり、愉快でもあった。
「…随分と口がお上手でいらっしゃる」
だから玲湲も、にっこりと笑ってそう返した。
紫緊は玲湲の態度を見て、ただ一人仙境に来た身であるにもかかわらず、なかなか肝が据わっているようだと感じた。
とはいえ、これまでの娘たちも、忌み神に仕えようというのだから皆それなりに覚悟を決めてやって来た。
しかし、誰も役目を果たせなかったからこそ、新しい巫女として玲湲がやって来たのだ。
さてこの玲湲という娘は何日もつだろうかと紫緊は内心で冷ややかに見積もった。
「儀式自体は、難しいというわけではないのですが」
紫緊は玲湲に一枚の紙片を差し出す。
「まず、こちらの材料を集めて頂くことになります」
玲湲が受け取った紙片には、九つの素材が記されていた。
翡翠草の葉
還霊草の根
珊瑚芙蓉
瑠璃牡丹
真珠棗
鉄火楊梅
琥珀柚子
白金笹の朝露
月光茸
いずれも玲湲にとっては書物に文字で書かれていたものしか見たことのない、仙境にのみ生えると云われる植物と茸だった。
「どれもこの付近に自生していますが、採取してから一日以内に調合して儀式を済ませなくてはなりません」
「そうなんですね」
それなら夜明け前に起きて、すぐに白金笹の朝露を集め、その帰り道に生えているものを採取するという段取りになるだろうかと玲湲は大まかに手順を考えた。
「どこに何が生えているかは左漣と右漣が知っているので、一緒に行くといいですよ。ただ、玲湲様以外の者が触れると効果が減退してしまうので、必ずご自身で採取して頂けますように」
「わかりました」
書物で読んだことしかない仙境の植物や茸を実際に見られるだけでなく、自ら手に取れるとは貴重な機会だと玲湲は思った。
しかも左漣と右漣が手伝ってくれるならとても心強い。
「どうぞよろしく」
玲湲は、左漣と右漣の方を見て笑い掛けた。
「よろしく」
「よろしく」
それが挨拶なのか、それともただ同じ言葉を返しているだけなのか玲湲ははよくわからなかったが、先程よりも随分と友好的になってくれたように思えた。
「それから、外に浚泉という泉があるので、毎朝そこで身を浄めてから材料の採取へ行ってください」
「はい」
やはり儀式というだけあってやるべきことは多く、それなりの段取りが決まっているようだった。玲湲は具体的な儀式の内容は知らないものの、それが重要なものであることは充分に承知の上でここへ来た。
何より、儀式が必要となる理由は非常に深刻なものだった。
「それでは、今日はひとまずお休みください。儀式は明日から始めましょう」
「はい。よろしくお願いします」
玲湲は最後に、改めて紫緊に深々と一礼した。
「左漣、右漣、玲湲様を寝所へ案内して差し上げてください」
「はーい」
「はーい」
左漣と右漣に連れられて、玲湲は小綺麗な寝所へ通された。簡素だが調度品もひととおり揃っている。
窓からは穏やかな風が吹き、月の光が静かに注がれていた。窓の外には、来る途中にも見た黄金色の花びらの椿が植えられている。
室内では香が焚かれているわけではなかったが、優しく清々しい白檀のような香りがした。来る途中にも見た珊瑚のような花びらの芙蓉が部屋に飾られており、そこから香っているようだった。これが、儀式に必要な素材として教えられた珊瑚芙蓉だろうかと玲湲は思った。芙蓉は本来あまり香りが強い花ではないのだが、珊瑚芙蓉はよく香るようで、部屋を優しい香りで満たしていた。
「左漣、右漣、おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみ」
そう応えてふわりふわりと跳ねながら去っていく左漣と右漣の後ろ姿がかわいらしく思えて、小さな弟がいたらこんな感じなのだろうかと思いながら玲湲は床に就いた。
[つづく]
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