謀略家の子守唄
彼の城は、八方を堀で囲まれていた。堀の水は黒く、底なしに深い。家臣たちは噂し合った。あの堀の底には、主の敵や裏切り者たちの骨が沈んでいるのだと。彼は誰も信用しなかった。信用など、この世で最も危険な毒だと知っていたからだ。彼は人の心など持ち合わせていないと噂された。彼の妻が毒を盛ろうとした時も、笑みを浮かべながら杯を受け取り、目の前で妻の杯と取り替えた。全てを見抜かれていたことを察した妻は、震える手で毒をあおり、明くる日まで断末魔を絞り出しながら死んだという。翌朝には、新しい堀が掘られ始めていた。堀はやがて城を何重にも取り囲み、彼の城は世界屈指の強固さになった。
しかし、彼には密かな愉悦があった。敵の放つ策の中に、己の心に通じる何かを見出すことだ。敵の策を読み解く時、彼は相手の魂と触れ合っているような感覚に陥った。それは、家族以上に、血縁以上に深い繋がりだった。
「そうか、北からの進軍は陽動か。手が込んでいる」
「ほう、我が城の穀倉に放火させる算段か。見事な手回しだ」
彼は敵の策略を読み解くたびに、心の奥底で温かいものが広がるのを感じていた。それは、この世で唯一彼に許された愛情表現だったのかもしれない。家族との温かな団欒を知ることもなく、人の体温まで吸い取る冷たい石の城に暮らす彼には、陶酔できる愛情はそれしかなかったのだ。
老いは、そんな彼から戦いすらも奪っていった。かつての敵たちは、もはや彼を相手にしなくなった。若き日に彼が放った策が効き過ぎたのか、周辺の領地は全て平定され、今や彼の城には誰一人として牙を向ける者はいなくなったのだ。
そんな退屈だが平穏な生活が続いた頃、彼の城に噂が立つようになった。深夜、城の廊下に足音が響くのだという。それは叫び声と共に城中に木霊した。
「誰か! 誰かワシを討ちに来い! 策を仕掛けてくれ! 暗殺を企ててくれ!」
門の外で城を守る衛兵たちは、耳を塞いだ。もし廊下ですれ違っても、影に隠れて見ないようにした。その正体こそ、彼だった。老人となった彼はもはや狂っていた。かつての冷徹で強大な領主の姿はもうどこにもない。夜な夜な、ただ寂しげに廊下をさまよう、痩せこけた老人の影があるだけだった。
ある日、彼は一人の少年の噂を耳にした。領内で最もチェスの強い十歳の男児だという。彼は即座にその子を召し上げた。最初は退屈しのぎのつもりだった。久しぶりに自室に他人を入れ、チェスを楽しんだ。最初はほんの思いつきで初めたつもりだった。しかし盤上で繰り広げられる、かつての偉大な敵と繰り広げた権謀術数さながらのチェスの戦いは、もはや感じられなくなった温かさを彼にもたらした。
日に日に、少年との対局は彼の生き甲斐となっていった。彼が勝つこともあれば、少年が勝つこともあった。勝率はちょうど半々くらいだっただろう。盤上の駒は、まるで己の心の欠片のように思えた。目の前に座る利発そうな少年は、農民の生まれでも、どんな貴族よりも高貴に思えた。盤上を見つめる少年の瞳が自分を見つめ返す、そのたびに彼は心の中に弾けるものを感じるのだ。そしてその少年の心にもまた、そのような温かいものがあるはずだと信じるようになった。
その矢先、彼は息子の謀反の意思を読み取った。
「来たな」
彼は嗤った。彼の妻が毒で苦しんで死ぬところを見ていた者が、召使のほかに一人だけいた。それが彼の息子だった。母親が父から受け取った酒盃を飲み干した後、絶叫をあげて苦しむのを見た幼い息子は、言葉を失った。父がいかに策謀の技術を教え込んでも、彼は決して返事をしないのだ。やがて彼は、息子を見捨てるかのように、臣下の軍団にあずけ、戦場に送った。
その息子がついに彼に反旗を翻そうというのだ! 彼はほくそ笑んだ。老いてシワが深く刻まれた顔に歪んだ笑みが浮かんだ。
(これだ! ワシは人生最後の、そして最大の戦いをついにむかえるのだ!)
息子の陰謀を見抜いた彼は、適当な口実を加えて反乱の罪を被せ、即座に城に呼び寄せた。殺すつもりだった。しかし息子もまたそれを読んでいたらしい。彼の挑発に乗る前に、ある提案をしてきた。
「父上。どうしても私に反乱の意思があるとおっしゃるのなら、決闘裁判で決着をつけましょう」
手紙で送りつけられたその提案に、彼は妙な高揚を覚えた。そうか、お前もようやく本物の策を仕掛けてきたか。ニヤっと笑ったその笑みは、さながら魔王の如くだった。それは数十年ぶりに交わした親子の対話だった。
決闘の日。長いあいだ彼に忠誠を誓う臣下も、新しく恭順を誓うようになった臣下も、まるで祭壇の蝋燭のように並ぶ中、父と子が対面する。彼は初めて成長した息子の姿を見た。まるでかつての自分のような立派な髭をたくわえている。彼は最強の衛兵を代理として立てていた。しかし息子が連れてきたのは、あの少年だった。彼は絶句した。頭が真っ白になった。少年は怯えていた。短い刀を握る小さな手が震えている。きっとチェスのコマを別にすれば、およそ武器と言えるものは一度も握ったことがないに違いあるまい。その時、彼は全てを悟った。息子の策の全てを。そして、その見事さに心を打たれた。老いて乾いた唇から息が抜ける。白くなった髭が抜け落ちんばかりにしおれていく。体が一気に老衰に達するような気がした。彼は衛兵に命じてさがらせると、自ら剣を抜いた。少年の目に映る恐怖。それは、これまで多くの敵が見せた表情と同じだった。しかし、この子に関しては違った。この純粋な魂を、自分の手で斬り裂くことはできない。彼は笑った。
「息子よ、見事だ」
髭の男は、全く表情を動かさなかった。ただ、ぽんっと、少年の背を押しただけだ。その瞳には侮蔑の色すら浮かんでいた。彼は剣を落とした。その音は、まるで氷の張った湖に輝く陽光が差し込んだような、そんな音だった。剣を捨てた時、彼の心は晴れやかだった。少年の刃が胸を貫いたときも。その痛みは、これまでの生涯で最も心地よいものだった。
彼の墓は作られなかった。ただ城の中庭に埋められただけだった。領地の民は、城の代替わりを知ることすらなかった。あのチェスの強い少年は、決闘の直後に密かに処刑され、同じように中庭に埋められた。
城の主になった次代の領主は、父に勝るとも劣らぬ冷徹さで国を治めた。城を囲んでいた堀は全て埋められ、やがてより強大な敵によって領地の支配者は代わり、城には別の領主が住むようになった。城に住人が変わっても、城の廊下に足音が響く夜がある。もはや誰もそれが何なのか知るものはいない。コトコトという音が響くのを、前の城主のことなど全く知らない衛兵たちが、同じように恐れるだけだ。足音と共に、チェスの駒の立てる音を聞く者も、いたとかいないとか……。