【短編】機械人形は、自分自身なのか。
雲ひとつない鮮やかな空に、燦燦と輝く太陽。
その恒星から降り注ぐ眩しい光は、地上にそびえ立つ無色無機質なビル群を照らし、彩りを与えている。
この美しい街の中で、僕は約束の場所へと足を急がせる。
時刻は11時過ぎ。約束の時間を過ぎている。
場所は時計塔の下。あの人と出会った場所だ。
「あっ! 祐樹くーん!」
行き交う人々の声、車の交通音、通り抜ける風。
街の喧騒を掻き分けて、美しい声色が耳の中に入ってくる。
声のする方に目をやると、手を振ってくれている美しい女性が。
僕の心は、もうそれだけではち切れそうになる。
時計塔の下へ到着すると、僕の頬を白く細い指がつねってくる。
「ちょっと遅くないですかぁ?」
睨むかのように細めた目と、口角が上がった口から奏でられる低い声が、申し訳なさと同時に愛おしさを溢れさせてくる。
「ご、ごめんなさい、美玖さん」
「冗談! 電車が遅延してるのは知ってたから」
彼女は僕の1歳年上の21歳。高校からの先輩で、大学も同じ。そして付き合っている。
普段は凄く真面目で大人しいのに、ここぞと言うときにからかって来るのが、可愛くてたまらない。
「さて、今日はどこに連れて行ってくれるの? 任せてって言われたから、丸投げしちゃっけど」
「今日は気合い入れてスケジュール立てたので、期待しててくださいよー?」
「ふーん? それじゃあ、連れて行ってもらおうか!」
今日は、付き合い始めて丁度2年の記念日。これまでの埋め合わせの意味もあるし、美玖さんを楽しませるために何週間もプランを考えた。
さぁ、最高の記念日にするぞ!
時は過ぎ去り、すっかり夜に。
都会の光に照らされて星は姿を現さないものの、綺麗な円を描く月が、静けさのある神秘的な雰囲気を作り出している。
僕と美玖さんは夜風に当たろうと芝生広場に来て、芝生の上に寝転んでいた。
美玖さんはお酒が入って、すっかり顔が真っ赤になっている。
「そう言えば、朝思ったけど、すっかり良くなったよね」
「数週間前まで、外に出ることすらままならなかったのに……今ではこんなに元気で。アップロード手術様々ですよ」
僕は少し前まで、病室で横になって過ごす日々だった。余命あと数ヶ月だと診断されたときは、まだ若い自分が……と信じられなかった。
そこで僕は、脳の構造を再現した機械に、脳内の意識をアップロード。自分の身体を精巧に再現したアンドロイドに機械をセットして、新たな身体を手に入れる手術、《アップロード手術》を受けた。
おかげで、僕は今こうして生きている。美玖さんと一緒に、2人の時間を過ごせている。
「肌も温かくてやわらかい。これが機械の身体だなんて信じられないよぉ」
美玖さんが僕の頬を両手で挟み、もみくちゃにしてくるにしてくる。
あぁ……酔ってる美玖さんも可愛いなぁ……。
「ここ数ヶ月は毎日本当に心配で心配で……こうしてまたデートできるなんて、夢みたいだよ……」
ゆめ……夢か……ヤバい、暗い気持ちになりそうだ。
こんな雰囲気を出してちゃ駄目だ。美玖さんは、僕のこう言う雰囲気を即座に感じ取って、すぐ……。
「ん? 祐樹くん、どうしたの?」
あぁ、ほら……すぐ僕のことを心配してくれる。
でも、これは言った方が良いかな。美玖さんなら真剣に聞いてくれるだろうし、誰かに話した方が少しは楽になるから……。
「さ、最近、変な夢ばっか見るんです……」
「変な夢? どんな……?」
「えっと……」
真っ暗な場所に、僕1人が立っているんです。
至る所に鏡があって、僕の姿が映ってる。
でも……僕自身の姿は見えない。
「どう言うこと?」
鏡に映っている僕を見ることはできるのに、僕の身体を見ることはできない。
僕の手、足、身体……僕が立っているハズなのに、僕はそこには居ない……。
そしてしばらくすると、突然誰かが現れるんです。
僕の目の前に、謎の男が立っていて……。
「その男は……誰なの?」
分かりません……顔は見えず、白いシルエットだけなんです。
瞬きすると姿は消えていて……辺りを見回してもどこにも居ない。
どこにも、居ないんです……。
「それでいつも目が覚めて……。ここ最近、ずっとその夢ばかりを見てて……眠りが浅くて困ってるんです」
「だから電話を掛けても、いつも眠そうに……」
優しく、ゆっくりと、美玖さんの手が僕の頭を撫でてくれる。
あんな夢の話をした直後で、荒れた僕の心を、美玖さんの優しさが包み込んでくれる。
「もしかしたら、まだ新しい身体に慣れていないことへのストレスがあるのかもしれないね……」
「美玖さんもそう思います? 自分も、多分そんなところだろうと思ってて……」
「そんな不気味な夢、早く終わると良いね……」
結局この後、僕と美玖さんは駅で解散。
泊まっていくかと言ってくれたけど、大学の荷物が家にあるからと断った。
でも今日は直接美玖さんの声を聞けたから、久々にぐっすりと眠れそうな気がする……。
……プルルと、スマホの着信音が聞こえてくる。この音に誘われて、僕は深い眠りの中から抜け出し、現実へ。
まだ開ききらない目を擦りながら、スマホを耳に当てる。一体誰からだろうか?
「もしもし? やっと出た……」
この声は……美玖さんだ! はぁ……久しぶりに眠れたと思った直後に、大好きな人のモーニングコールで起きられるなんて……最高の一日だ。
「美玖さん……モーニングコールありがとうございます……」
「モーニング!? とっくに過ぎて、今はもうお昼よ! お昼、アフターヌーン!」
「……え?」
壁掛け時計に目をやる。長針は3を、短針は12を指している。
僕の頭の中にある時計は、一瞬針の動きを止めた。しかしその間にも、壁の時計の秒針は刻々と時を刻んでいく。
「……午後12時過ぎ!?」
「そうだよ! 大学に居ないからかけたんだけど、全然出ないんだから……」
ヤバい……午前の授業をすっぽかした上に、急がないと午後の授業に遅刻する!
美玖さんに心配かけちゃって、申し訳ない……。
「急いで準備して行きます! 電話、切りますね!」
クッソ……最高の一日の始まりだと思った矢先にこれか……最悪な一日の始まりだなぁ……。
外は曇り空。昨日はあれだけ眩しかった太陽は姿を隠し、降り注いでくる光はほんの僅か。
あれだけビビッドに見えたビル群は、何だか冷たくて面白味のないように感じる。
街の人達を掻き分けながら、急いで走っている僕。
時刻は1時になろうとしている。ヤバい……あと20分で到着しないと……。
機械の身体はいくら動いても疲れないけど、まだ走るの慣れてないんだよ……。
「マジでやべぇ……っ!? ちょ!?」
目の前で突然、人がその場で歩くのを止めた。
僕は止まりきることができず、少し強めの勢いでぶつかってしまった。
ぶつかった人はバランスを崩し、顔から倒れてしまった。
「だ、大丈夫ですか――!?」
目の中に入ってきた光景を、僕の頭は理解することが出来なかった。
いや……正確には、目の前の出来事を受け止めることができず、理解することを拒否したのだ。
ほんのさっきまで僕が目で捉えていたはずの男性は、居なくなっていた。
彼が居るハズの、彼が倒れているハズの場所には、多くの僕の姿が映っている。
「わ……割れた鏡……!?」
そんな……そんな訳が! この鏡は夢でしか……まさかっ!?
嫌な予感が鳥肌となり、背筋を刺激する。
予感は強い興味へと変貌し、僕を突き動かす。
辺りを見渡す。
街を点と点で埋め尽くしていた人々が、一人もいない。
そこにあったのは……僕の姿だけ。
「これは夢!? もし、そうだとしたら……」
――嫌だ。
――見たくない。
――知りたくない。
そう思えば思うほど……そう考えれば考えるほど……僕の頭の中を興味が支配してくる。
ゆっくりと視界を下へ……。
両手を広げる。
訴えかけるために。
僕はここに居るのだと。
僕の目に。
僕自身に。
「あ……あぁ……」
……僕がどれだけ訴えかけたとて、自分がそれに答えてくれることは……無かった……。
どうして……どうして……。
――やっとだ。
どこからか、聞き覚えのない男の渋い声。
こんな広い街の中で、耳に入ってきたのはその声だけ。
前を向いてみると、見覚えのある白いシルエットが立っていた。
僕の存在が希薄になっているようなこの空間で、そのシルエットは異様な存在感を放っている。
「ここ数週間、ずっと語りかけていたのだがね……ようやく実を結んだようだ」
嫌なほど耳の中に入ってくる、男の声。
扉に鍵を掛けていても、それを無理矢理こじ開けてくるかのように。
「安心したまえ。これは夢だ、現実世界では無い。既に君は気付いているようだがね……」
ビルに囲まれた街の中に、僕と謎の男の2人きり。ビルの窓は灰色に染まり、全ての鏡は男のシルエットだけを映し続ける。
息が詰まりそう。
あれだけ広く感じていた街がとても狭く、そしてどこにも居場所が無いように感じる……。
「あ、アンタは誰……」
意を決して、僕はシルエット男に声をかける。
視線を感じる。表情は見えないものの、彼がまっすぐこっちを向いていることが分かる。
「……ヨーク。君と同じ、身体を失いし人間だよ。もっとも、人間と呼べるのかは怪しいところだがね」
身体を失いし……アップロード手術を受けた、と言うことなのか?
いや、しかし……。
「言うなればアンドロイド……これは美しくない。言葉の中に宿る、感性を刺激してくれる魔法が掛かっていない」
空を見上げるシルエット男――ヨーク――。
何かを、考えている……?
「そうだな……機械人形。うん。古風な表現ではあるが、美しい」
な、何を一人でブツブツと……この男は一体何なんだ?
「お、おい! アンタは何者なんだよ……これも、今までの夢も、全部アンタの仕業なのか!?」
「今君と会話をしている私は、私では無い。私自身の思想や思考をラーニングさせたAIだ」
AI……? どうして僕の頭の中にそんなものが……?
「こうして会話を交わすために、数週間かけてデータを送信し続けた。君の言う夢は、恐らくその副作用だ」
「もう……なんなんだよ! 勘弁してくれよ! 僕に何の用なんだよ!?」
「うん。その説明しなければだ、祐樹くん」
ど、どうして俺の名前を!?
シルエットが動き始める。
一歩、一歩と、近付いて来る。
ヨークの動きに目を奪われていると、一瞬で街が無くなった。
ど、どうなってる……ビルも、空も、鏡でさえ無くなっている!
ただただ真っ黒な空間に立っているだけ……何が起こってるんだよ!
理解を超えた現象に、恐怖と焦りでおかしくなりそうだ……。
「私は長年、AIの研究をしていてね。しかし半年前、不慮の事故に遭った……。命は取り留めたものの、意識戻らなくてね。所謂、植物人間さ」
ヨークの言葉に合わせて、この真っ黒な空間の壁一面に、謎の映像が流れ始めた。
これは……この男の記憶の映像か何かか?
「そこで、家族がアップロード手術を選んでくれたのだ。当時の私は、再び家族に会えたことが嬉しくて、涙を流したよ」
涙を流しながら抱き合う、3人の映像。
「その後はずっと幸せで、毎日が輝いて見えたよ」
子供と遊んでいる映像、2人で晩酌を楽しむ映像など。ヨークが幸せだと感じていた日々の映像が、切り替わり切り替わり流れていく。
「でもある日、私は考えた。今の私は、本当に私なのか、と」
ヨークがパンッと、両手を叩く。
流れていた幸せの映像は、光の粒となり、宙へ舞う。
紫色の光が、ヨークの周りを漂う。光が彼の顔を撫でる度、不気味なまでに真っ直ぐな目が露わになる。
「何を……言ってる?」
僕の疑問に答えるかのように、ヨークは彼自身の頭を指さす。
「手術の際に用いられる、機械の脳。これは人間の脳の構造、ニューロンの動きを完全に再現したもの。知っているね?」
「……手術の前に、説明を受けた」
ヨークの鋭く直線的な視線と、僕の怯えて震える視線が交差する。
彼をジッと見つめる僕の瞳の中に、青色の光が映り込む。
「精巧に再現されているからこそ、脳内の意識をアップロードできる訳だ。しかし……こうは考えられないか?」
再び、ヨークがパンッと手を叩く。
直後、僕の目の前に突如として僕が現れた。
「うわっ!?」
ただ僕の顔を見つめてくる僕。
何の輝きもない瞳。その瞳の奥底にある暗闇の中に、僕の意識が吸い込まれそうになる。
「君の目の前に現れたのは、今の君と同じ見た目、同じ記憶を持ったものだ。ふとした時に出る言葉や仕草、クセまで同じ」
「……だから何だ?」
「君は、コレを君だと思うかね?」
……言っている意味が理解できなかった。
確かに見た目は瓜二つ。この男の言う通り、記憶も全く同じだと仮定する。
だとしても、理解できない。この疑問に対する答えなんて、たった一つなのだから……。
「思わないさ……思う訳が無いだろ?」
「理由を聞いても良いかな?」
「僕は僕だけだ。ここに居る、この意識がある僕だけ。例え見た目と中身が瓜二つでも、ソイツは僕じゃない。ニセモノだ……」
……なんだ?
僕の言葉を聞いた途端、ヨークが頷き始めた……。コイツ、本当に何考えてんだ!?
「とても良い考えだ。しかし祐樹くん、こうとも捉えられないかい?」
「こうって……何が?」
ゆっくりと、男の右腕が上がる。
5本の指先が、僕の方へ向く。
赤色の光の粒子が、彼の掌に落ちていく。
僕の網膜に映るその赤き光が、僕の心の平静を奪っていく。
「君自身が、君のニセモノだと……」
僕の全身が、赤く照らされた気がした。
赤色は、今の僕にとって冷静さを失わせる、心を乱す色。
僕は今の自分の心の内を、口で言い表すことができない。
肌で感じるこの光が、僕の心情を鮮明に現し、丸裸にしていく。
「そんな、そんな訳……」
「機械の脳は人間の脳の構造を再現したもの。言い換えれば、君の脳の記憶を再現している……こう考えられないか?」
そ、そんな突拍子の無い……馬鹿馬鹿しい!
「今の君の身体だって、肉体の見た目を完全に再現したもの……」
「例え再現された見た目でも、僕は本物だ!」
「祐樹くん、君が言ったんじゃないか。見た目と中身が瓜二つでも、ソレは偽物だと」
再びヨークが手を叩く。
目の前に居た僕のニセモノが姿を消し、再び白きシルエットの男が僕の視界の中に入り込んでくる。
「今の私の意識は、肉体の頃の記憶を再現したモノ。もしそうだとしたら、今の私は過去の私とは別人なのでは……この考えが頭から離れないのだ」
「それが、僕と何の関係があるんだ……」
「私は知りたい。同じ手術を受けた者がどのように考え、どのような答えを出すのか……だからこうして、君に接触したと言う訳だ」
無色のシルエットを照らす、青色の光。
淡々と、冷たく。
僕の揺さぶる彼の視線、彼の言葉。
僕の頭はヨークから漂う雰囲気に縛られ、思考が止まる……。
「さて……ここまで聞いて、君はどう思う?」
「……どう思うなんて言われても、答えは一つだ! 僕は僕、僕は本物、ただそれだけだ!」
「それが、本当に君の答えなのかい?」
「あぁ……当たり前だ!」
「本心なのだね?」
「ほ、本心だ!」
――では、その声の震えは?
「震えてなんか……!」
――その泳いでいる目は?
「デタラメを言うなっ……」
――その動揺は?
「な、何を言っても無駄だ! 僕は僕だ……それだけだ!」
――そうか。
次の瞬間、ヨークのシルエットは姿を消し、黒い空間が音を立てて揺れ始める。
大きくヒビが入る音が、この空間全体に響き渡る。
揺れに耐えることができず、僕の両足が床から離れる。
――今の君の答えは聞いた。もし君の中で心変わりしたのなら、また聞きに来るとしよう……。
――プルル。
――プルルル。
――プルルルル。
刻々と動く時計の針音と、ホワイトノイズ。それらを引き裂くように鳴り響く、スマホの着信音。その着信音ですら、ただ聞こえてくるだけの環境音。
今の僕の耳に残るのは、自分の荒い呼吸音だけ。
長針は6を、短針は3を指す時計。起きる予定の時間は過ぎているものの、大学に遅刻することはない時刻。
しかし美玖さんから電話が掛かってきている。多分、チャットの返事が無かったからだろう……。
虚ろな表情のまま、鳴り響くスマホに手を伸ばす。
「……もしもし」
「良かった……返事が無かったから、寝坊すると思って心配したぁ……」
「いや……また悪夢を見てしまって……」
「だいぶ声が疲れてるよ……大丈夫?」
はぁ、やっぱり可愛くて、優しい声だ……。
でも……何故か気持ちがハッキリとしない。昨日とは違う、胸に短剣が突き刺さったかのような……。
「……美玖さん、変な質問しても良いですか?」
「え……何?」
「僕は、本当に僕なんでしょうか……」
自分の口から咄嗟に出た質問。
これを聞いたとき、美玖さんが電話越しに困惑している声が聞こえてきた。
それでも、美玖さんは答えてくれた。
「……祐樹くんは、祐樹くんだよ。高校のときからずっと見てきたんだから、間違い無いよ」
……この言葉が聞きたかったから、あの質問が浮かんだのかもしれない。
完全に、とは言えなくても、刺し傷が少し塞がる気がした。
「ありがとう、ございます。大学で会いましょう……」
「うん、待ってるね」
外の天気は曇天、窓からは何の光も差してこない。
照明の点いていない部屋の中は、ずっと暗いまま……。
荷物が入ったカバンを持って、通勤通学の人達でごった返している街中へ。
昨日のことが頭から離れず、ずっと視線が下に落ちる。
地面の至る所に水溜まりが……寝ている間に雨が降ったみたいだ。
美玖さんが僕を癒してくれたと言えど、疑問が消えた訳では無い。
あの夢は一体何だったのか……。
僕は、本当にあのヨークと言う男と会い、言葉を交わしたのか。
それとも、また全て夢なのか……。
何が夢で、何が現実なのか……。
疲れきって据わった僕の目に、大きな水溜まりが現れる。
それは大勢の人々に踏まれて水面を揺らしながら、絶え間なくその人達を映し出す。
何気なく、僕の靴はその水溜まりに足を踏み入れる。
小さな水しぶきが上がり、水面に波紋が広がる。
自然ともう片方の足が前に出たとき、僕の瞳孔が開いていく気がした。
周囲の時が止まり、自分の頭だけが猛スピードで回転しているような。
何も知らない、何も変わらない顔で歩いていく街の人達。
それはそうだ。何も変なことは無いのだから。
――僕の姿が映っていないこと以外は。
「はっ!?」
何で……まだ僕は、夢を見ているのか?
やっと目を覚ましたと思っていたのに、まだ夢の中!?
水溜まりの上に乗り続ける両足から、絶え間なく波紋が広がる。
混乱。
困惑。
恐怖。
視界がぼやける。
ガタガタと歯が震える。
呼吸が荒くなる。
そのとき、僕の背中に何か強い衝撃が。
僕は前に倒れないように、なんとかバランスを保つ。
「すいません! 大丈夫でしたか?」
そうか……僕が突然止まったから、後ろから歩いて来ていた人がぶつかったんだ……。
悪いことをしたな、僕も謝らないと……。
謝罪するために、急いで振り返る。
「いえ、僕も止まってしまって……はぁっ!?」
す、スーツ姿の男性……。
声色からして、爽やかそうな人だった……。
それなのに……この人の顔は!?
どうして僕の顔が映ってる!?
「うわぁぁ!!!」
驚きのあまり腰が抜け、尻餅をついてしまった。服に雨水が染みていく。
突然1人の男が地面に座り込んだことに、周囲の人達は何事かと興味を示す。
人々の冷たい目線が、一斉に僕の元に集まる。
全身に突き刺さる矢印に不穏な気配を感じながら、恐る恐る見上げる。
「うっ……!?」
だ、誰も無い……顔が無い!
鏡……顔が映っている鏡になっている!?
こ、これは夢か!?
夢であってくれ、夢で!!!
「もう……なんなんだよっ!!!」
とにかく、とにかくこの場から離れたい!
この視線から、この顔が鏡になった人達の中から、早く抜け出したい!
そう思う前に、僕の身体は走り出していた。
変な人だと見られたかもしれない。
誰かを突き飛ばしてしまったかもしれない。
でも、今の僕の頭の中は、そんな他人に向けた考えを定着させることはできず、浮かんでは消えていく……。
冷静さは完全に消え、錯乱していると言っても過言では無い心理状況。
視界から色が消えていく。
白と黒の無彩色。
無機質で冷たいと感じていた、このビル群。
しかし今の僕はもう、温かさすら目で感じることができない。
誰か……誰か……誰か教えて……。
誰か僕を、現実に引き戻して……。
――くん?
――うきくん!?
――祐樹くん!
「はっ!?」
こ、この声は……。
「祐樹くん! どうしたの……」
あぁ、美玖さんが僕の身体を包み込んでくれる……。
いつの間にか大学の近く……両膝を突いて、その場でうずくまっていたみたいだ……。
そんな僕の姿を心配して、駆け寄って来てくれたんだろう……。
あぁ……なんだか、安心する。
視界の中に、色が戻り始める……どんなに曇天で薄暗くても、全てが鮮やかに見える……。
「大丈夫? 立ち上がれる?」
美玖さんの細くてしなやかな手が、僕の頬を撫でてくれる。
僕もその手を握って、優しさを肌で噛み締める……。
「すいません……でも、大丈夫です。言ったじゃないですか、美玖さんの顔を見れば――」
――
――――
――――――
――――――――
僕が見る世界は、赤一色に。
赤色は、僕にとって冷静さを失わせる、心を乱す色。
僕は今、何が起きているのかを理解することを拒否している。
視界を支配するこの色が、僕の全品を照らすこの色が、目の前で起きている出来事を……。
外は暗闇に包まれ、身体に大きな水の粒が叩き付けられる。
水は肌を伝って僕の口の中、目の中にまで入ってくる。
しかし、そんなことはもう、どうでも良い。
今はとにかく、一人になりたい……。
そう言う思いで僕は今、廃ビルの屋上で座っている。
どうしてこの場所に来たのか、どうやってこの場所に辿り着いたのか、何も覚えてない。
ただ我武者羅に走って、いつの間にかここに……。
「クソっ、もう何が……」
――新しい知見は、得られたかな?
こ、この声は……!?
反射的に僕の首が動く。
見上げると……そこにはあのシルエットが!?
「君の機械脳のシステムに、少し細工をさせてもらった。昨日の出来事が“夢の中の現実”だとするなら、今日は“現実の中の夢”、と言ったところか」
「なんで……なんでそんなことをっ!」
感情が昂り、僕の身体はシルエットに向かって殴り掛かる。
しかし、このシルエットは僕の目が見ている幻影。
拳が当たる訳もなく、情けないまでに滑稽に、僕の身体はすり抜ける。
「言っただろう。心変わりしたら、新たな答えを聞きに来ると」
「こ、心変わりなんかしてない! 僕は僕だ!」
「理由は同じく、君が意識を認識しているから?」
「……それだけじゃない!」
今朝は、本当に悪いことをしてしまった。
傷付けてしまったかもしれない。
それでも今は……美玖さんのあの言葉が、僕の支えになっている……。
「美玖さんが、彼女が言ってくれた。僕は僕だと。高校の時から見てきた私が言うんだから、間違い無いと!」
「……なるほど。丁度良いみたいだ」
ヨークが手を叩く。
あの時のように。
また、僕を心を揺さぶるために。
パンッと音が聞こえてきた直後、見知らぬ他人が現れ、僕とヨークを取り囲む。
この人達に生気は無い。
ただ無表情で、ただ棒立ちしているだけ。
据わった目で、ずっと僕達を見つめている。
「昨日の話には、まだ続きがあるんだよ。自分が自分だと定義するための方法、についてと言う話がね」
「……自分の、定義だって?」
「昨日の君は、君自身が認識している君こそが、祐樹であると言った。これもまた、自分が自分であると定義するための方法の一つだ」
「それ以外に……何があるって言うんだ!?」
錆びた消火栓の赤いランプが、正面から僕の怒号を受け止める。
「……他人だよ」
街を照らす光を取り込んだ雨粒が、シルエットの中をすり抜ける。
「君が君自身を認識するように、他人もまた君を認識する。外見や言動、態度などからね」
「それがどうした……」
「昨日言ったであろう? 今の君の外見、また君の脳内は、完全に再現されたものだと」
絶え間なく降り続く雨粒が空を覆い、酷く濡れた髪の毛から水滴が滴り、首元を伝う。
雨は時に天井のようで、時に壁のよう。どこまでも広がるように見える空と街を隠し、閉塞感を与えてくる。
「見た目と記憶が全く同じということは、他人が君を認識するために得る情報も、全く同じと言うことだ……」
「それが何なんだ……」
「分からないかね? 他人が君を認識する際に、君自身が本当に君なのかは関係ない。他人が君のことを、君だと認識すれば良いんだ」
再び手を叩くヨーク。
生きているのか、死んでいるのか分からなかった顔が消え、鏡となる。
真正面。
斜め前。
真横。
斜め後ろ。
真後ろ。
赤いランプに照らされ、目元に影が落ちた僕の顔が、全ての角度からまざまざと映し出される。
「君はさっき、彼女さんという他人が認識してくれていることを、自分が自分であると言う根拠だと言った。しかし、こうとも考えられないかい?」
「考え……考えられない!」
もう嫌だ……聞きたくない!
僕がどれだけ聞くことを拒否しても、男は話し続ける。
僕の頭がどれだけ扉に鍵をかけても、男の声は扉を突き破ってくる。
「外見の中身が全く同じ君から発せられる情報を見て、他人が君だと認識するのは当たり前のことだ」
「やめろっ!」
消火栓のランプが明滅し始める。
この暗闇の中で、唯一僕の存在を証明し続ける光が、僕の揺れ動く心と連動する。
「つまり他人は、君の姿を映す“鏡”」
「全部妄想、デタラメだ!」
影が消える。
影が現れる。
僕の影が夜に溶ける。
僕の影が夜を飛び出す。
「鏡が姿を映すために必要なのは、外見であって中身では無い。だから……」
――だから頼む、やめてくれっ……。
「君が本当の君でなくても、君自身が居なくても、問題は無い」
ランプが消える音。
赤色の光は、僕を見捨ててどこかへ。
足元から伸びていたハズの僕の影は、最初から存在していなかったかのよう。
光に照らされていた僕の姿は、夜の闇で包み込まれる。僕の目でも視認出来ないほどに。
しかし鏡には、僕の姿が嫌なほど鮮明に映っている。
口から出る白い息、揺れ動く瞳、強ばった頬。
「そんな考えが、私の頭を巡る、駆ける、翔回る……。肯定しても否定が浮かび、否定しても肯定が浮かび上がる……私の中では答えが出ないんだ……」
空から落ちゆく雨粒を、愛おしく撫でるかのように、腕を天高く掲げるヨーク。
雨粒は彼の姿を映さず、無視をし続ける。
一方的な感情が、天の涙に向けられる。
「君の、最後の君の答えを聞きたい……。私の考えは全て伝えた……。呑み込むも良し、否定するのも良しだ……」
その嫌なほどに艶めかしく動く腕が、僕に向けられる。
彼の掌は、指先は、僕を求める。
僕は男を拒否する。
ゆっくり、ゆっくりと後ずさりしていく……。
「答えを聞かせてくれ。君は……君か?」
「そうだ……そうだ!」
「本当かい?」
「本当だ……」
「その理由は?」
「理由は既に言ってる!」
――私の考えを否定すると言うことだね?
「それは……」
――否定しないのか?
「そう言う訳じゃ――」
――完全に否定せず、どうして君は君だと考えた?
「う、うるさい!」
――その考えは本心か?
あぁ……。
――確証を持てているのかい?
あぁぁ!
――君は君だと断言できる、材料を持っているのかい?
アァァァァァ!!!!!!!!!
――本当の考えを、教えてくれ。
君は、君なのか――