エピソード6:hearts leaving③
政宗の運転する車で一度マンションへと戻った3人は、ひとまず、ユカが普段使っている部屋で、櫻子に休んでもらうことにした。彼女をベッドへ寝かせた後、荷物を整理してくるという名目で退室したユカはリビングに戻る。そして、そこにいた政宗の服を引っ張り、自分の方へと視線を向かせた。
「ケッカ?」
「ここはあたしが対応するけんが……政宗、統治の様子ばみてきてくれん?」
刹那、彼が目を軽く見開いてユカを見下ろした。政宗もまた、櫻子と同じくらい、統治の様子が気になっていたから。
「いいのか?」
「うん。正直……統治も放っておけん。なんか、1人で思い詰めて、このまま2人がすれ違ったまんまやったら、全部、良くない方に進みそうで……」
ユカはここで言葉を切ると、彼に向けて握った右手を突き出した。
『仙台支局』は少数精鋭の適材適所、だとすれば……今、政宗がいるべき場所は、ここではないと思う。
「2人のために、あたし達が出来ることをしよう。そうしたら……きっとまた、いい方向に動き出すよ」
「分かった。透名さんのこと宜しくな。もうすぐ彩衣さんも来てくるけど、何かあったらすぐに連絡してくれ」
政宗もまた、握った右手を軽く彼女のそれにぶつけて。すぐに車の鍵とスマートフォンを手に取ると、玄関へと向かった。
扉が閉まり、足音が遠ざかる音を聞きながら……ユカは扉に鍵をかけて踵を返し、櫻子が横になっている部屋へと戻る。
ちゃんと、彼女の誤解を解いておきたいから。
ベッドで横になっていた櫻子が、ユカの入ってくる気配を感じて体を起こしたことが分かる。彼女に気を遣わせたくなくて、ユカは足早に彼女の方へと近づいた。
「大丈夫ですか? 辛かったら横になっていてくださいね」
「いえ……横になっていると少し息苦しいので、起きていますね」
そう言って苦笑いを向ける櫻子の隣に、ユカはそっと腰を下ろした。そして、心配そうな彼女を見やり、現状を告げる。
「統治のことは、政宗に任せました。もうすぐここに、富沢さんや伊達先生も来てくれるので、安心してくださいね」
「ありがとうございます。私……本当に、ご迷惑ばかり……」
そう言って、膝の上で両手を握りしめる櫻子。ユカは一度息を吐くと……彼女の手の上から、自分の手を重ねた。
言葉だけではない温もりを、少しでも伝えたくて。
以前、彼女が同じことをしてくれたから。
「ユカちゃん……?」
「覚えてますか? 8月、あたしが政宗との関係でギスギスしとるとき……櫻子さん、登米からわざわざ駆けつけてくれて、伊達先生の胡散臭い話にも、最後まで付き合ってくれたんです」
8月、政宗と統治がユカに対して嘘をついていたことが分かり、2人に対する信頼が揺らいでしまった時。
心がささくれていたユカを支えてくれたのが、櫻子だった。
あの時、小鶴新田駅まで車で迎えに来てくれた櫻子は、目的地に到着し、助手席から降りようとしていたユカの手を握って……こう、言ってくれたのだ。
――あ、あのっ……ゆ、ユカちゃんは1人じゃないですからねっ!!
どこか不器用で、でも、真っ直ぐな誠実さが最短距離で伝わってきて、とても安心したことを鮮明に覚えている。
その上、もしも自分が、政宗や統治を傷つけるような暴言を吐きそうになったら止めて欲しい……そんな申し出にも、彼女は笑顔で頷いてくれたのだ。
――分かりました。その時は……2人でご飯でも食べに行きましょう。
味方になってくれる人がいる。
それだけで……知りたくないことに向き合う勇気を得ることが出来た。
「櫻子さんがいてくれたから……あたしはあそこで踏ん張ることが出来ました。櫻子さんじゃなきゃ、きっと、ダメだったと思います。そして……きっと統治も、あたしと同じように、櫻子さんに救われたことが……絶対、絶対にあったと思うんです」
「そう、で、しょうか……でも……」
「さっきから、自分語りばかりになってしまってごめんなさい。でも、もう少しだけ……あたしが体験してきたことを、お話させてください」
この言葉に櫻子がオズオズと頷いたことを確認したユカは、まず、10年前のことをかいつまんで説明した。
名杙家は、霊的にとても強い影響力があり……ユカや政宗も、統治と一緒にいるだけで、体調を崩したことがあったこと。
その時は、統治が自身の力をコントロールすることと、ユカや政宗の能力を底上げすることで、対処したこと。
ユカはスマートフォンのカメラアプリを起動した。そして、櫻子にそれを持つように頼むと、カメラの前に右手を出して、指先から伸びる『関係縁』を一本、つまみ上げる。
「実はコレが、あたしと櫻子さんを結んでいる『関係縁』なんです」
鮮やかな赤い糸をカメラ越しに見せられ、櫻子は思わず目を丸くした。
存在そのものは知っていたが、視認するのはこれが初めてだ。
「そう、なんですか……これが……!!」
「割ときれいな色ですよね。って、そうじゃなくて。櫻子さんは……8月にも『縁』に関するトラブルに巻き込まれていますし、統治と繋がった『関係縁』も切られています。あたしと櫻子さんの『関係縁』が毛糸だとすれば、統治と櫻子さん……名杙直系筋と繋がっている『関係縁』は、電線なんです。常に力が一定方向に流れているイメージが近いかと思います」
統治や心愛、里穂など、名杙直系と呼ばれる能力者は、他の能力者とは根本的に雲泥の差がある。そして彼らは、周囲に対して無自覚の圧力をかけてしまうことがあり、過去、ユカや政宗、仁義も、良くも悪くも影響を受けてきた。
――お前の能力は桁違いなんだ、冗談抜きで人が死ぬ!! そうなったら……お前、どうやって責任取るつもりだ!? 佐藤君が万が一『痕』になったら、『縁』、切れんのか!?
10年前、己の力をコントロール出来なかった統治が、福岡で川上一誠から叱責されている様子を、ユカは別室で聞いていた。
そして……自分自身も体調不良を感じたこともあり、改めて、彼の中に流れる『名杙』という血の濃さを思い知ったのだ。
櫻子自身も、統治とともに過ごす時間が長いことで、ある程度の耐性はついていたかもしれない。しかし、彼女は『縁故』ではないので、霊的に疲弊した中で『関係縁』を無理やり切られるなんて、心身が耐えられなくて当然なのだ。
「それを、しかも無理やり切ることで、今は身体的にも霊的にも大きな負荷がかかってしまっています。実際、統治も『関係縁』を切られた瞬間、自分の机に突っ伏して震えていました。櫻子さんは、ただでさえ霊的に安定していないところに、とどめを刺されたと言ってもいいかもしれません。記憶が飛んでいるのも、櫻子さんを守ろうとした防衛本能の可能性があります。今の櫻子さんは、後遺症のリハビリをしているような状況です」
「リハビリ、ですか……」
「そんな状態の中、あんな威圧感しか無い嫌味全開の大人に、しかも名杙直系の人物に会ったら、本能的に萎縮して当然なんです。正直、訓練を受けているあたしも、しんどかったです」
普段接する名杙直系筋が、統治や心愛、里穂、領司など、自分たちに対して好意的な人物ばかりだったので、感覚として薄れていたけれど。
本気で敵視されたら圧倒的に不利になってしまうことを、改めて実感させられる。
「統治もそれを分かっていて……自分が近くにいると、今は逆に、櫻子さんにプレッシャーを与えてしまうから、自分から離れているんだと思います。まぁ……それをちゃんと説明して行け、とは、思いますけどね」
こう言って苦笑いを浮かべるユカに、櫻子は浅く息を吐いた。
統治が自分のために離れてくれたことは、分かっている。
ただ……。
「名杙さんは……優しい方、ですから」
「あたしに言わせればお互い様ですよ、櫻子さん」
ユカがこう言って櫻子を見るが、彼女は涙を浮かべた眼差しで、唇を噛みしめた。
こみ上げるのは、自分自身への失望だ。
「私は……皆さんのような力もありませんし、何も、変われない……うまく立ち回ることも出来ないままなんです……」
統治の優しさは、今の櫻子が、彼にとって足かせであることと同じ意味に思えた。
迷惑をかけたくなくて、隣に並び立ちたくて。
今日の午後のように、『櫻子さん』と呼ばれるような、そんな関係になりたくて。
先程、ユカは自身のスマートフォンを通じて、『関係縁』を見せてくれた。統治は社外秘だと言って言葉を濁していたけれど……それはやはり、自分が戦力外だから、そう思えて仕方がない。
優しい人は、その背中に全てを背負ってしまおうとするから。
優しい人は、人に甘えることを良しとしないことが多いから。
だから……支えたい、そう思った瞬間が、これまでに何度もあったはずなのに。
まるで機械が壊れてしまったように、自分の中の一部にアクセス出来ない日々。
一度出来ないことが分かると、再び挑戦することが怖くなってしまう。
自分に出来ないことを、痛感させられてしまうだけに思えてしまうから。
思い出せない。
何も出来ない。
そんな自分が……情けない。
悔しい気持ちが、涙と一緒に零れ落ちていく。
「名杙さんに助けてもらいながら……頑張ってきた、つもりでした。でも、それは……結局、名杙さんの優しさに甘えていただけで――」
「――甘えていいじゃないですか」
刹那、ユカは櫻子の両手を再度強く握りしめた。そして、困惑している彼女へ、同じ言葉を繰り返す。
「自分のことを思って、優しくしてくれる人に……甘えて、いいじゃないですか。櫻子さんはそれだけのことを相手に返しているんです。お願いだから……そのことまで忘れないでください」
「ユカちゃん……」
どうすれば伝わるのか分からないから、正直な気持ちを言葉にして、嘘がないことを指先の熱で伝えたい。
宮城にやってきて初めてできた、同年代の、大切な友達に。
「貴女があたしを支えてくれて、統治を送り出してくれて、政宗を見守ってくれたから、あたし達3人はここにいられるんです。だから……今くらい、思いっきり甘えてください。櫻子さんは……一人じゃ、ない、から……!!」
伝わってほしい、言葉と温もりに力を込める。
優しい人は、その背中に全てを背負ってしまおうとするから。
優しい人は、人に甘えることを良しとしないことが多いから。
「あたしも……統治や、政宗との思い出を、自分の過去の行動を、気持ちを、思い出せない部分があって。それを知った時は、思い出そう、思い出そうって……必死やった。欠けているものを取り戻したいって……取り戻さなきゃ、自分が自分じゃないような気がして、怖かった」
歩いてきた軌跡の中にある、明確な空白。
それを埋めたくて焦ったり、悩んだりしたこともある。
そして今の櫻子を見ていると……そんな自分と、重なってしまう。
ユカの言葉を受けた櫻子は、小さく頷いた。
「……少し、分かる気がします」
不安が残る彼女を、ユカは真っ直ぐに見つめた。そして、あの時の彼の顔を思い出して、口元に笑みを浮かべる。
「でも、今は……あまりこだわらんくなったかな。勿論、思い出したいと思うこともあるっちゃけど、今の、ここにいるあたしを……記憶が欠落しているあたしも、受け入れてくれる人がいるって、気付くことが出来たから」
――そんな頑張り屋のユカのことが、俺はずっと大好きなんだからな。
不安に押しつぶされそうな中で、自分を信じて、笑顔で背中を押してくれた人がいてくれたから。
今、ユカはここにいることができる。
だからこそ……次は、自分の番だ。
情けは人の為ならず。いつか、この気持ちのバトンが……縁を伝って、巡り巡って、彼のところへ戻るように。
「勿論、櫻子さんもその一人。だから……未来の自分のために時間と思考を使おうって、思ったと、です」
「未来の、自分のために……」
「今の櫻子さんが、統治のことをどう思っているのか……それを直接、本人に伝えてください。過去がどうだったとか、そうじゃなくて……今の、ここにいる櫻子さんの気持ちが、本物だと思います」
ユカがこう言った次の瞬間、来客を告げるインターフォンが聞こえた。ユカは「ちょっと待って下さいね」と告げて、玄関で相手を出迎える。
十数秒後、二人分の足音が近づいてきて……。
「――櫻子さん……!!」
部屋に飛び込んできた彩衣が、焦った表情で櫻子の方へ駆け寄ってきた。普段の彼女は髪の毛を1つにまとめ、カチッとした服装でいる姿をよく見るが、今日の彩衣は長い髪の毛を振り乱し、ロングTシャツにジーンズというラフな格好だ。身なりに構わず飛び出してきたような印象を受ける。
彼女はベッドの縁にしゃがみ込むと、櫻子の顔を覗き込んだ。
「佐藤さんから、過呼吸のような症状が出たと聞きました。今は大丈夫ですか? 苦しくはないですか?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます……」
後ろからついて入ってきたユカは、彩衣がここまで取り乱す様子を珍しげに眺めていた。それは櫻子も同じだったようで、自分の様子を確認して安堵する彩衣へ、目をパチクリとさせる。
そして……肩の力を抜くと、彩衣へ向けて、改めて頭を下げた。
「本当にありがとうございます。皆さんのおかげで大事に至ることはありませんでした」
そう言って頭を下げる櫻子へ、彩衣もまた、胸をなでおろした。
そして……少しうつむくと、どこか苦々しく吐き捨てる。
「……名杙慶次と、会ったと聞いて……少し、動揺してしまいました。あの人は……人の傷を抉るのが、生きがいのような、人ですから……」
彩衣なりに言葉を選んだつもりかもしれないが、大分直接的に的を得た表現だと思う。そして、その言葉を受けた櫻子もまた、あの時のことを思い出したのか……目を伏せてしまった。
ユカは周囲を改めて確認した後、彩衣ならいいだろうと判断して口を開く。
「あの、櫻子さん。一つお伝えしたいことがあります」
「ユカちゃん?」
「さっき、あの派手な女性から言われたことなんですけど……あれ、全部、櫻子さんの作戦なんです」
「え?」
刹那、何を言っているのか理解できず、顔を上げた櫻子が首を傾げる。ユカは状況を飲み込めない彩衣に事の顛末を簡単に説明すると、半信半疑の櫻子へと説明を続けた。
「多分、スマホのメッセージにもやり取りが残っていると思うんです。あたしも政宗も、この話を聞いた時は驚きましたけど……今日のことで、確証を得ることもできました」
「――佐藤、山本、1つ提案があるんだ」
それは先日、4人で油麩丼を食べた夜のこと。
今後の方針を話し合う際、真っ先に口を開いた統治に、ユカと政宗は思わず目を丸くして統治を見つめる。
「統治、具体的に聞いてもいいか?」
「ああ。まずは、櫻子さんの個人情報がどうやって流出しているのか、確固たる証拠を掴みたい。そのために罠を仕掛けようと思う」
罠、という言葉が統治の口から出たことに、ユカと政宗は驚いてしまったが……彼がそれだけ本気なのだということを悟り、話の続きを聞いてから判断することにした。
とはいえ……政宗が統治を見やり、詳細を促す。
「身上書以上に相手の気を引ける情報に、心当たりがあるんだよな?」
「ああ。これはあくまでも『虚偽の情報』だということを念頭に置いて欲しいんだが……櫻子さんの検査結果を書いたものを、俺が親父に渡す。検査の詳細は、一般的な妊娠が可能かどうか。その書類には、あまり芳しくない結果を書いておくんだ」
「おいおい……」
予想以上にデリケート、かつ、名杙としては死活問題を平然と提案する統治に、政宗は思わず乾いた笑いを浮かべていた。
確かにそれは、櫻子を追い出したい勢力にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい情報だろう。
そして……病院が実家であり、かつ、伊達聖人という本職の医者が味方になってくれている今、櫻子が要請すればその書類を用意することは難しくない、ということになる。
万が一、この情報が『名杙当主の了承無しに』出回ることがあれば、情報漏洩は決定的だ。
「統治、それはそれとして……情報漏洩の証拠はどうする?」
「親父の部屋に小型のウェブカメラを仕掛ける。万が一、本体を破壊された時のことを考えて、録画データをクラウドで保存しておくつもりだ。親父の許可を取っておけば法的な問題はない」
「なるほどな……それなら、言い逃れは出来ないな」
政宗は統治がパソコン関係にめっぽう強いことを思い出し、彼がやるなら間違いなく配線が見えないように小細工するだろうな、などと、作戦の成功を確信していた。
ただ……いくら嘘とはいえ、あまりにも彼女の身を切るような、そんな作戦であるような気もした。
「透名さん……それ、いいんですか?」
念のために櫻子へ尋ねると、彼女は平然とした表情で頷いて。
「私は構いません。ただ、書類を用意するまでに1週間程度時間を頂きたいのですが……」
「も、勿論それは問題ないです。それまでに俺たちも……出来ることをやっておきますから」
こう言って頷く政宗に、櫻子は「お願いします」と頭を下げる。
顔を上げた櫻子の眼差しが、とても強く見えて……ユカは改めて、身を引き締めたのだ。
ただしこれは、櫻子と統治の『関係縁』が切れる前の出来事。よって、今の櫻子の身に覚えがないのは当然なのだ。
ユカの話を聞いた櫻子も、現に、半信半疑といった様子。でも、少しでも信じたくて……恐る恐る、ベッドの脇に伏せて置いていた、自身のスマートフォンを手に取る。
ぎこちなく、本体横の電源を入れると、画面がパッと明るくなった。
ユカはそんな画面を覗き込み、「ココをタップ……押してみてください」と、画面の右端にある、メッセージアプリのショートカットを指差して。
櫻子は一度、ツバを飲み込むと……少しだけ震える指で、そのアイコンをタップする。
次の瞬間、画面が一瞬で切り替わった。速すぎる挙動にビクビクしつつ、画面を凝視する。
やり取りをしている相手との名前が一覧でズラリと表示されており、一番上にあるのは、『名杙統治』の名前。
「こ、ここを押せば、押してもいいですか?」
隣にいるユカに確認すると、彼女が確証を持って頷くから。
櫻子は再度気を引き締めて、画面に指紋がつくような強さで統治の名前をタップした。
すると、メッセージのやり取りが、最新の時系列から遡って表示される。
記憶が曖昧になってから、このページを見ることはなかった。統治からの連絡は基本的に電話だったし、櫻子自身が仙台のビジネスホテルに滞在していたので、直接、やり取りをすることも多かったこともある。
それに……スマートフォンの操作が分からないことに統治が気付けば、きっと、自分を助けてくれるだろう。彼に頼らなければ満足に扱えない自分を自覚したくなくて、本当に最低限度のことにしか使ってこなかったのだ。
ユカは横から櫻子のスマホ画面を指でスクロールして、「この辺から読んでみてください」と、告げる。やり取りの日付を見ると、10月中旬。画面横のスクロールバーを見ると、これより上には更に膨大なやり取りの記録が残っている気配すらある。
統治とのやり取りは、簡素な文とスタンプが主な内容だった。
覚えていない、思い出せないけれど……でも、文面のぎこちなさと絶妙な誤字脱字から、櫻子自身が作成した文章であることは疑いようもない事実。
そして、送信しあっている日付を見ると、ほぼ、毎日のようにやり取りをしていることが分かる。
『統治さんおかえりなさ。い。おつかれさまでした。』
『ありがとう。櫻子さんも一日お疲れ様。』
『あした、ふるかわでごはnでもい?』
『俺は問題ない。時間は予約を取ってから連絡する』
『きょうは料理、統治さん、ありがとうございました。たのしい時間は、あっという間、ですね。』
『そうだな。山本も佐藤も喜んでくれて良かった。書類については全て任せることになるが、本当に大丈夫か?』
『わたしは大丈夫です。うそのじょうほうでだれかをだますなんて、ふきんしんでしけど、ちょっとどきどきしちゃいますね。』
『本当にありがとう。宜しく頼む。』
『わたしから言い出したことですし、だて先生には、お話しておきますね。』
画面に表示されるのは、嘘偽りのない、過去の自分の軌跡。
覚えていないのに、どこか懐かしい。
そして、これを見るまでは、どうせ、まともに文を打つことはできていない……なんて、懐疑的な気持ちだったのに。
こんなに。
こんなに、文字を積み重ねて。
こんなに。
こんなに、やり取りを続けて。
こんなに。
こんなに……過去の自分は、苦手なことを、頑張っている。
そして統治もそれを、こんな自分を笑うことなく、当たり前のこととして、受け入れてくれている。
おぼつかない記憶を手繰り寄せ、恐る恐る、ひらがなで『と』と入力してみる。
すると、予測変換で真っ先に表示されたのは、『統治さん』という4文字。
電子機器が苦手な櫻子でも、流石に察することが出来る。
過去の自分が、この言葉を大切に入力してきたこと。
そして……どの言葉よりも多く、メッセージの中に書き続けてきたこと。
「統治、さ……ん……」
久しぶりに口に出した、その響きを噛みしめる。
とても温かくて……胸が、震えた。
「っ……!!」
思わず。スマートフォンを握りしめる。
会いたい。
胸に去来するのは、たった一つの願い。
「私……こんなに、出来るようになっていたんですね」
ポツリと呟いた言葉に、ユカは「そうですよ」と同意した。
「櫻子さん、スタンプや絵文字まで使えるようになっているんですよ。そういえばさっきも、メモ機能まで使いこなしてる感じでしたね」
「へ? め、メモ……です、か?」
一切心当たりのない事実に櫻子が目を白黒させていると、ユカが画面を一つ戻した。そして、縦に並ぶ表示の中、『さくらこ』と書いてあるところをタップする。
「設定をしておいて、電子メモ代わりに情報を打ち込む使い方をする人がいるんです。統治がやってるのを見て、真似したのかもしれませんね。だから櫻子さんも、きっと……」
きっと、何か大切な情報を書き残していたのではないか。
ユカの言葉と共に切り替わった画面。それを目の当たりにした櫻子は、一瞬で顔を赤くした。
その様子を少し離れた場所で見ていた彩衣が、キョトンとした表情で問いかける。
「……櫻子さん、どうかしましたか?」
「へっ!? あ、あの……え、えぇっと……!!」
どうしたものかと言いよどみ、櫻子はスマートフォンを再度握りしめた。
そして……意図せずそれを目の当たりにしてしまったユカもまた、満面の笑みで櫻子を見やり。
「……ほら、あたしの言った通りでしたよね?」
「そうですね……あぁもう、私ったら、なんてことを……!!」
画面に並ぶ情報の羅列は、櫻子が探していた答え、そのものだった。
櫻子が自身に関する虚偽の情報を流す、という展開は、最初から決まっていました。
私の中で彼女はまさに、肉を切らせて骨を断つ、そんな行動をする女性だと思っています。それが出来るのは、勿論、統治を信じていたから。
そして、万が一に備えて用意周到でございます。最初は「統治への手紙を書こう」と思っていたのですが、ここで櫻子が手書きになってしまうと、結局アナログになってしまうので、デジタルに対して誠実に向き合っている姿を伝えたくて変更しました。だから、後半は完全に櫻子が私に教えてくれた展開です。予測変換のくだりを思いついたときの私は、史上最高に気持ち悪い顔をしていたと思います。
ユカは5幕のここ(https://ncode.syosetu.com/n2544fd/4/)で、櫻子に支えてもらったことを、ずーっと感謝しておりました。今回、その時の挿絵も改めて使わせていただきました。おが茶さんありがとう。ということもあり、今回のユカは何かと櫻子の手を握っています。いいぞもっとやれ。
そして、ユカが政宗にはげまされたお話はコチラ。(https://ncode.syosetu.com/n4578fx/30/)
情けは人の為ならず。ユカの行動理由に政宗が明確に入り込んできたので、早く付き合えばいいと思いますがそんなことしません!!




