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傷物令嬢が王子殿下の婚約者候補を辞退して、初恋の幼馴染と幸せになるまで

作者: 垣見



薄暗がりの街道をゆっくりと進んでいた馬車が、突然ガタガタガタッと慌ただしく止まった。


それからの時間は、細切れな記憶しか残っていない。


「貴様達、何者だ!?」と叫ぶ御者の声。

キンキンと剣を打ち合う音。

「うがあああ」という誰かの呻き声。

必死で馬車の扉を掴む侍女の震える手。

とっさに被せられたブランケットの粗い編み目。


バキィッと扉が破られた音に重なる侍女の悲鳴。


「お嬢様ぁぁ! お逃げください!」


半壊した馬車、必死に叫ぶ侍女の声。


被せられたブランケットの隙間から見えたのは、血まみれになって戦っていたわたくしの護衛達だった。


突如ブランケットを剥がされ、立ち塞がった黒い影に顔を上げると、全身を黒に染めた大きな男が立っていた。


「見つけた。確認するまでもないが、お前がコレット・ブランシェだな?」


恐怖のあまり身体がすくんだが、キラリと光る刀身が見えた瞬間、とっさに顔を腕でかばっていた。


シュンッと風を切る音とともに、右腕に焼けつくような痛みが走った。


「お嬢様! コレットお嬢様ああ!!」


すぐ近くで侍女の悲鳴が聞こえる。


「あ……」

「チッ、動けたか。まあいい、傷はついた。お前はもう”キズモノ”だ」


低い声が脳内に響く。


(キズモノ……)


自分の声が脳内のものだったのか、声に出していたのか分からない。

わたくしはそのまま、意識を失っていた。




次に目が覚めたのは、見慣れたわたくしの――ブランシェ侯爵家の屋敷にあるコレットの部屋だった。


「痛っ……」


起き上がろうとして力を入れた腕の痛みに目をやると、わたくしの右手にはぐるぐると布が巻かれていた。


「コレットお嬢様!」

「アンナ……」


すぐに近付いてきたのはわたくしの侍女、アンナだ。

ずっと側についていてくれたのだろう、酷い顔色をしている。


「まだ横になっていてください。腕はなるべくお使いにならないようにと医者から言われております」

「そう……」

「旦那様と奥様を呼んで参ります。何かお飲み物もお持ちいたしますね」

「ありがとう。アンナは無事だったのね? モリスとマルクは?」


一緒にいたはずの護衛達の名を出すと、扉の前で今まさに外へ出ようとしたアンナが振り向いた。

しかしその表情は泣きそうなものになっている。


「まさか……!?」

「いえ、二人とも多少の怪我はありますが、無事です」

「良かった……」

「ですがっ!!」


耐えきれないというようにアンナの瞳から涙が零れ落ちた。


「っ、申し訳ございません。すぐに旦那様を呼んで参ります」

「アンナ!?」


わたくしの呼びかけも無視して出て行ってしまったアンナ。

閉ざされた部屋の中、ズキズキと腕が痛み出す。


(これは、傷が深いのかしら。……そう。そうね、わたくしは”キズモノ”になってしまったのだわ)


左手でそっと、布に巻かれた右手を押さえた。


「……すべて、失ってしまったのね」


口から出た言葉の響きがあまりにも頼りなく、自分でも少し驚いた。


わたくしは自分が思うよりもずっと、悲しいのかもしれない。




王城での王子妃教育を終えた帰り道、何者か――差し向けた犯人は分かり切っているが、それを口にすることはできない――に襲われ、傷物となったわたくしは、コレット・ブランシェ。

このリロイ王国唯一の王子殿下であらせられるジョルジュ・リロイ様の婚約者候補となった侯爵令嬢である。


ジョルジュ殿下は今年、王立学園へ御入学され、わたくしも同級生の一人として同じ教室で過ごしていた。

そして先日、殿下の十六歳の誕生日を祝う夜会で、わたくしを含む五人の婚約者候補が発表されたのだ。


筆頭候補と目されておられたのは、五人の中で一番家格の高いシャルロット・アラード公爵令嬢である。

シャルロット様はこのリロイ王国における五大公爵家の一つ、アラード家のご令嬢だ。


五大公爵家は王国建立時代から王家とは深い関わりを持ち、王妃を何度も輩出しているし、逆に王女が降嫁されることも多い。

しかし、ジョルジュ殿下は第一子であるパトリシア王女とは歳が離れているせいで、殿下と同時期に子を産むことができたのはアラード家だけだった。とはいえ、シャルロット様もジョルジュ殿下の一つ上である。

しかし他の四家の夫人が子を望める歳ではなかったため、殿下が生まれた時のアラード家はお祭り騒ぎだったという。


五大公爵家で唯一、王子殿下と歳の釣り合うご令嬢である。

彼女で決まりだろうと誰もが思っていた。


だからこそ、わたくしはジョルジュ殿下の婚約者候補になることを了承したのである。


それがまさか、こんなことになってしまうなんて。



「コレット! 目が覚めたのね」


慌ただしく入ってきたのは母だった。

母も顔色がとても悪いが、わたくしの方へ駆け寄ると左手をぎゅっと握りしめてきた。今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。


「お母様……」

「無事で、生きていて、本当に良かったわ。コレット……」


わたくしの左手を握ったまま額に当て、祈るように目を閉じている。きっと|健康≪サンテ≫の神に祈りを捧げているのだろう。母は信心深いのだ。


「コレット、気が付いたか。気分はどうだい?」


仕事の途中だったのか、疲れた顔をした父も部屋の中へ入って来た。


「お父様、気分は悪くはありませんわ」

「そうか。話は出来そうかい?」

「ええ」


わたくしが返事をすると、父は父ではなくブランシェ侯爵の顔になった。

その表情で、わたくしは自分の未来に絶望するとともに、これからの行動を決めた。


「医者の話では、残念ながら傷跡は残ってしまうようだ」

「そう、ですか……」

「ジョルジュ殿下の婚約者候補は辞退することになるだろう」

「……はい」

「そして、馬車を襲った犯人だが……証拠は見つけられなかった」


父が悔しそうに拳を握りしめている。母も唇を噛み締めていた。


「すまない、コレット」

「お父様が謝ることは何もございませんわ」

「……モリスとマルク、それにアンリからも職を辞するとの申し出があった」


思わず目を見開いたが、先ほどのアンリの様子を思い出せば納得できた。

責任感が強く、誰よりもわたくしを敬愛していてくれた三人だ。自分のせいでと思い詰めても仕方がない。


引き留めたところで、彼らはわたくしを見るたびに事件のことを思い出すだろうし、わたくしの傷跡を見るたびに、罪悪感に押しつぶされそうになってしまうのだろう。

きっとお互いのためにならない。受け入れるしかない。


「そうですか……わたくしは、何もかも失ってしまうのですね」

「そんなことはない。私達は何があってもコレットの味方だ」

「ふふ、ありがとうございます。ではお父様、わたくしをリーンハイツへ」

「何!?」

「何を言い出すの、コレット!?」


さすがに父も母も慌てふためいている。

それもそうだろう、リーンハイツとは王都の外れにある貴族女性向けの修道院である。


「傷物となったわたくしに相応しいのは、神の花嫁以外にございませんわ」

「そんな……だってあなた、レオンはどうするの?」


母から出てきたその名前が、わたくしの胸を痛いくらいに苦しくさせた。


「殿下にもあの方にも、この国を支える素晴らしい殿方に傷物は相応しくありませんわ。神ならきっと、わたくしのことも受け入れてくださいますでしょう?」

「レオンだって受け入れるに決まっている」

「わたくしがあの方の瑕疵になるなんて……そんなの、自分が許せませんわ。あの方の隣に堂々と立てないのならば、意味がないのです」

「コレット……」


母が痛ましそうにわたくしを見つめている。けれどわたくしの決意は、変わることはない。



レオン。

わたくしの幼馴染でもある彼は、レオン・モローという。

ブランシェ家と同じ侯爵家で、父親同士の仲が良いこともあり幼少の頃から交流があった。


二歳年上の彼は、小さい頃からとても穏やかな少年だった。

わたくしの兄はレオンよりも三つ上だというのに屋敷を走り回ったり、わたくしの大切なぬいぐるみを隠したり、虫を捕まえて侍女を驚かせたりという男児だったから、レオンと出会った時はこんなに穏やかな男の子がいるのかと感動したほどだ。


年を重ねるごとに、わたくし達は仲良くなり、お互いを意識していった。

それがほのかな恋心に変わるのに、そう時間はかからなかった。


そして、レオンが学園へ入学する前年のことだ。

これはわたくしの一番大切な思い出として、胸の奥深くに厳重にしまい込んでいる。


レオンは十五歳、わたくしは十三歳だった。


いつものように両親とともにモロー領を訪れていたわたくしは、話に花を咲かせる両親達を置いて庭を散策していた。

モロー領の屋敷は海にほど近い小高い丘にある。そのため、庭の一部からは海が見えるのだ。

その一角は東屋として整備されており、わたくしはそこから海を眺めるのが好きだった。


「コレット、ここにいたのか」


背後から掛けられた声に振り向くと、レオンが東屋へ入って来た。


「レオン。ごきげんよう、お久しぶりね」

「久しぶり。元気だった?」

「ええ」


何気ない挨拶を交わしながら、レオンがわたくしの隣に座った。ふわりと漂うのはレオンの香りなのか分からないが、胸が高鳴った。


「コレットはこの場所がお気に入りだね」

「ふふ、海が見えるんですもの。ブランシェには海がないから羨ましいわ」

「まあね、海が自慢の領だから」


時折、船が通っていく。

東屋の柱を枠とした絵画を見ているようで美しく、心が凪いでいくのを感じる。


この景色は大好きだが、しばらくはお別れだ。

来年の今頃は、レオンはもうここにはいない。学園に入って王都で暮らしているはずだ。

わたくしも両親とともにここへやってくることはないだろう。


「目に焼き付けておかなくちゃね」

「おれがいなくても、いつでも来ればいいよ」

「そんなわけにはいかないわ」

「いいよ。……婚約者だったら、普通のことだろ」


パッと視線を海からレオンへ移動させた。

レオンはじっとわたくしを見つめている。その瞳はとても穏やかで、凪いだ海のようだ。


「レオン……」

「おれがいなくても、ここで待っててよ。ちゃんと帰ってくるからさ」

「……婚約者として?」

「そう、婚約者として」


ふふふっと二人でひそやかに笑い合った。

ふわりと駆け抜けていく潮風が、わたくしとレオンの髪を緩やかに揺らしていた。


これが、わたくしとレオンだけが知る、わたくしの一番大切な思い出だ。


その後、レオンはわたくしの両親にわたくしとの婚約を願い出てくれた。

だが、わたくしはまだ正式に婚約を結ぶことができる年ではなかった。

それでわたくしが学園に入る十六歳になる年までは待つことになったのだが、わたくしとレオンの交流は両家の公認のものとなり、細々ながらもお付き合いを続けていたのだ。



状況が変わってしまったのは、それから約二年後、わたくしが学園へ入る前年のことだった。

正式な婚約を来年に控えていたわたくしとレオンだったが、それは王命によって阻まれることとなったのだ。


「殿下の婚約者候補に? しかも王命、ですか……」

「ああ。だが候補は他にも四人いる。アラード公爵家のシャルロット嬢、宰相のガニョン侯爵家からサラ嬢、リシャール侯爵家のアリス嬢、ベルトラン侯爵家のマルグリット嬢だ」

「それは……シャルロット様でほぼ決まりなのでは?」

「ああ。私達もそう考えてはいるが、王家としても代々のやり方を変えるわけにはいかないのだろう。とりあえず数合わせだとは思う」

「そうですか……」


それならば、早々に候補から脱落してしまえばいい。

王子殿下の婚約者候補に選ばれた事実は名誉として捉えられるため、選ばれなかった令嬢達には婚約希望が殺到するという。

わたくしがレオンと結婚するのに問題はないはずだ。


「分かりました。ですが、くれぐれもモロー家にはきちんとお話をしてくださいますようお願いいたします」

「もちろんだよ。婚約の時期が一年ほど遅れるだけだからね」


そうして、わたくしはジョルジュ殿下の婚約者候補となったのである。



王命はあったものの、公表はまだ為されていなかった。あれは一応、打診という形だったようだ。


それからわたくしは無事に王立学園へ入学し、ジョルジュ殿下の同級生になった。

茶会などで顔を合わせたことはあったが、十六歳の夜会デビューがまだだったわたくしは、殿下ときちんと会話をするのはこれが初めてだった。


学園という場でもあり、かしこまった挨拶は禁止されている。そのためジョルジュ殿下は誰にでも気さくに話しかけ、色々な方と交流を持とうとされていた。

そのうちの一人に、もちろんわたくしも入っていた。


「やあ、ブランシェ嬢。これから色々とよろしくね」


“色々と”に含まれた意味を察することができなくては、貴族令嬢は務まらない。


「殿下、こちらこそよろしくお願いいたします」

「きみは優秀だと聞いている。一緒に授業を受けることを楽しみにしているよ」

「それは光栄ですわ」


最初に交わしたのはそんな会話だったと思う。

わたくしが見る限り、ジョルジュ殿下は誰も特別扱いすることなく、誰にでも気さくに優しく、だが胸の内は決して見せないお付き合いをされていた。


「ジョルジュ様!」


それが気に入らないのが、この方。

筆頭候補と言われていたアラード家のシャルロット様である。


彼女は殿下の一つ上になるため、教室が違うにもかかわらず、頻繁に顔を出していた。

そしてその度に殿下を独占しようとするものだから、月日が経つにつれて殿下の表情が硬くなっていった。


さらに悪いことには、シャルロット様の評判も勢いよく下がっていったのである。

殿下が御入学されてからというもの、殿下の後を追いかけ回すことにしか興味がなくなってしまったようだ。殿下の反応が悪いから、余計に焦っていたのかもしれない。


余裕がなくなると、気品もなくなるのだ。

わたくしから見ても、殿下を追いかけ回すシャルロット様の必死さは見苦しかった。


教室に殿下がいらっしゃらないと、周りの者に当たり散らす。

殿下が低位貴族の令息令嬢と会話をしていると「そのような者と殿下が話す必要はございませんわ」と遠ざける。

教師から注意されようものなら、「わたくしを誰だと思っているのです?」などと威圧する。


このような振る舞いをして、彼女は王妃に選ばれると本当に思っているのだろうか。

無難に過ごしていれば転がり込んでくるはずのものを、自らの手で遠ざけているとしか思えなかった。


その後、学内でも殿下は硬い表情をしていることが多くなった。

入学当時の気さくな殿下を見ることができるのは、シャルロット様がいない授業中だけになってしまった。



「あ、コレット」


二つ上のレオンと顔を合わせたのは、三番目・|豊穣≪アディ―≫の月を過ぎてからだった。

同じ学校に通っていても、接点は驚くほど少ないのだ。それこそ、シャルロット様のように教室まで押しかけないと、なかなか会えないのである。


「レオン様。テオ様も、ごきげんよう。お久しゅうございます」


帰宅前、担任の教師に呼ばれた帰り道、後ろから声を掛けてきたのがレオンだった。隣には親友であるテオ・ボネ伯爵令息もいる。

テオ様は令嬢たちに花の妖精王とあだ名をつけられるくらいお綺麗な顔立ちをしている。だがレオンも優しい笑顔が素敵なのだ。二人が並んでいるのは眼福である。


「久しぶりだね、コレット嬢。学園にはもう慣れた?」

「ええ、楽しく励んでおりますわ」

「……大丈夫なの?」


テオ様に返事をすると、レオンが心配そうに眉を寄せていた。


「え? 何がでしょう?」

「あー。色々と話が入ってくるんだよ。殿下の周りが騒がしいとか」


レオンの代わりにテオ様が答えてくれた。

わたくしが王命によって殿下の婚約者候補となることは、レオンには伝えられている。その上で、待っていてくれると聞いている。

殿下の周りが騒がしいのはシャルロット様が原因だろうが、来月、殿下の十六歳を祝う夜会でわたくしや他の婚約者候補が正式に発表されたあと、その騒ぎに巻き込まれるのは想像に難くない。


「今のところは、何もございません。今後は分かりかねますが」


正直にそう言うと、レオンはさらに眉を寄せた。そんな顔はさせたくないが、適当なことを言って誤魔化すこともしたくなかった。


「何かあったら言えよ。絶対」


真っすぐにわたくしを見つめる目に胸が高鳴る。

隠すことなく、わたくしを思いやるその目が、どうしようもなく苦しい。

わたくしは、なぜ素直にこの手を掴むことが許されないのか。わざわざ遠回りをさせられなければならないのか。


「……ええ、もちろん」


そう答えはしたものの、わたくしは自分の言葉なのにまったく信用できなかった。




四番目・|正義≪ティスリン≫の月。

ジョルジュ殿下の誕生夜会を控え、学内も社交界も婚約者候補の話でもちきりになっていた。


公表はまだだとはいえ、もはや五名の候補者は暗黙の了解である。

そして、筆頭候補であったシャルロット様の評判が落ちたことは社交界にも伝わっており、何故か同じ教室にいるという理由だけで次点の候補者がわたくしになっていた。


(予想外だわ……。殿下が楽しそうになさっているのが授業中だけ、そしてその教室にわたくしも居るという事実だけで、わたくしと居る時の殿下が一番楽しそうという話になっているなんて)


今はまだ密やかに囁かれているだけのようだが、あの方――シャルロット様のお耳に入ってしまうのも時間の問題だろう。


(矛先がわたくしに向いてしまったら、どうしたらいいのかしら)


そんな思いは誰にも相談することができなかったが、殿下はもうわたくしとの情報を掴んでいるのだろう。以前にも増して、必要以上にわたくしへ近づいてくることはなくなった。それだけで殿下の気遣いが分かるというものだ。

ご自分が一番大変な思いをされているだろうに、周囲への気配りも忘れない方で良かった。



しかし、当人達の思いがどうであれ、事態は構わず進んでいく。


予定通り、殿下の十六歳を祝う夜会において、国王陛下より五名の婚約者候補が告げられた。

殿下が学園を卒業するまでの間に、一人に絞られるという。あと二年と半分だ。


打診の段階では、一年ほど過ごした後にシャルロット様だけを残すというのが大方の予想だった。

だが今となっては、殿下がシャルロット様を早々にお選びになるとは思えなかった。


夜会では一人ずつ、殿下とダンスを踊ることが義務付けられていた。

最初にシャルロット様、次にサラ・ガニョン侯爵令嬢。その次がわたくしである。

お二人とそつなくダンスをこなされた殿下は、わたくしの前で手を差し出してきた。


「コレット嬢、一曲お相手いただけますか」


硬い声と表情だ。わたくしは微笑みながら頷いて手を取った。


ホールの中央に進み、音楽の始まりとともに踊り出す。さすがにリードがとてもお上手で踊りやすい。


「コレット嬢」

「……はい」


踊りながら耳元で囁いてくる殿下。口元は硬い笑顔を浮かべたまま、視線も前を向いたままだ。

一瞬だけでそれを確認したわたくしは、同じように視線を前に戻した。


「私が、あなたを選びたいと言ったら困るかな?」


その言葉に反応することができなかった。

殿下は何の言葉も返さないわたくしの中に答えを見つけたのだろう。


「今のは、忘れていいよ」


思わず顔を上げそうになったが、何とか思いとどまった。


「気にしないで。言い方は悪いけど、あれじゃなきゃ誰でも良いんだ」

「殿下……」

「さすがにあれは選べない。国民にとって害悪でしかないから」


王家に生まれたというだけで、生涯を共にする人を自由に選べないのだ。それは貴族もそうだが、その制限は比べ物にならないだろう。

それを受け入れ、それでもなお国を想うその心に涙が出そうになった。


「いいんだ、本当に気にしないで。まだあと二人もいるんだからさ」


ということは、わたくしの前に踊ったサラ様にもお断りされてしまったのだろうか。

わたくしの視線に気付いた殿下が、ほんの少しだけ笑った。


「サラ嬢にはまだ見極めたいと保留されてしまったよ。でもあれを選ばないという気持ちは評価してもらえた」

「まあ……」


サラ様も殿下よりは一つ年上だが、そんな風におっしゃるなんて凄いお方だ。それを受け入れている殿下も器が大きい方である。


「なるべく早く決めるから、それまでは付き合ってくれ」

「そんな……わたくしの方こそ、申し訳ありません」

「うん。申し訳ない気持ちを持ってもらえるなら、他の三人に私の学内での様子を良いところだけ伝えておいてもらえるかな。印象を良くしておかないとね」


悪戯っぽく言う殿下は、本当はこんな風に気さくな方なのだろうと思う。

最近はずっと硬い表情をしていたけれど、本当は人と関わることが好きで、この国が好きで、国民のことも愛してくださっているのだ。


「ええ、ぜひ」


心からそう言うと、殿下はふふっと息だけで笑った。意外と器用である。


殿下とのダンスを終えた後は、父や兄と踊った。一応とはいえ殿下の婚約者候補となってしまったからには、身内以外の男性と踊ることはできない。


(レオンと、踊りたかったなあ……)


不自然にならないようにレオンを探したが、どうしても見つけることができなかった。



翌日から、王城での王子妃教育が始まった。


学園で授業をこなし、その後、王城で専門の教師に個別の指導を受ける。

五人の候補者達が同時に指導を受けることはなく、また、すれ違うこともないように配慮されているようだった。

おかげで他の候補者に会うこともなかったのはホッとした。


夜会でのダンスで、殿下が他のお二人――アリス様とマルグリット様にいいお返事を頂けたのかは分からない。

だが、わたくしの侍女アンナが王城での噂話を仕入れてきたところによると、わたくしが次点の候補者どころか、シャルロット様より相応しいとまで言われているようだ。危険である。


「アンナ、その話はどの程度まで広がっているのかしら」

「お嬢様……大変申し上げにくいのですが、決定打となったのは昨日の夜会だったようです」

「夜会? 昨日の?」

「はい。その、殿下は五名の方とダンスをされ、やはりコレット様と踊っている時が一番楽しそうだったと。硬い表情を崩したのはお嬢様が相手のときだけだったと」

「そんなはずは……」


いや、話の内容はともかくとして、確かに表情を崩されていたのは事実だ。実際は王子妃の打診をお断りしたという、とんでもない事実だけれど。


「あのお方のお耳に入るのも、時間の問題かと思われます」

「どう出るかしら。そう過激なことはなさらないと信じたいけれど」


はあっと重い溜息を吐いたが、わたくしには祈ることしかできなかった。




――これが、つい数日前のことだった。

たった数日でわたくしを取り巻く状況は一変してしまった。ズキズキと痛む右腕がそれを知らしめてくる。


殿下の婚約者候補を辞退することについては、元々選ばれない予定だったのだから何も思うことはない。

だが、レオンのことは。


「お父様、お母様。わたくしを憐れんでくださるなら、一刻も早くリーンハイツへお送りください」

「なぜ急ぐのだ。ゆっくりと療養して、それからでは遅いのか?」

「わたくしがここに居ることで再び何かが起きたらもう、わたくしはわたくしを許すことができなくなります。……それに、もうレオンに会いたくないのです。何を言われても、きっとわたくしの思いは変わりませんわ」


たとえ傷を気にしないと言われても、こんなわたくしがレオンの隣に立つことを、わたくしが一番許せない。

万が一、世間と同じように傷物を見る目をされてしまったら、わたくしは大切にしまっておいた一番の思い出さえも汚されてしまう。


会わない方がいい。会うのが怖いのだ。


「旦那様。コレットの望むようにしましょう」

「しかし……」

「コレットがこれ以上傷つくところは見たくありませんわ。わたくし達が親としてできるのは、静かな環境を用意してあげることくらいです」

「……そうだな。分かった、すぐに手配しよう」

「ありがとう存じます」


わたくしはそっと頭を下げた。



それから数日のうちに、わたくしはリーンハイツ修道院へ身を寄せた。

ここは訳ありの女性や生活に困った未亡人などが入る貴族用の修道院だ。身元のしっかりした女性しか受け入れない、王家の庇護がある修道院である。


院長のアデル様もお若くして旦那様を亡くされた、元子爵夫人だそうだ。

きっちりとまとめられた髪が高潔さを表しているような、気品を感じる方である。


「アデル様、コレットでございます。本日よりお世話になります」

「ようこそいらっしゃいました。コレット様、ここでは皆、神の花嫁として等しい存在です。貴女様も尊い身の上ではありますが、ここで修道女としておられる限りは家名ではなく、コレットとお呼びすることになります」

「ええ、もちろん構いませんわ」


そうしてわたくしは、ただのコレットとしてこの修道院で暮らすことになったのだ。



このリーンハイツ修道院は王都の外れにあるせいか、とても静かな場所だった。

のんびりとした空気が流れていて心地よい。まるで海のそば、モロー領のような空気である。近くに湖があるせいだろうか。


王城からの使者は月に一度、他に我が家を始めとした修道女の実家から寄付が届くのも月に一度か二度。

個別に面会があったりもするが、基本的に来客は多くない。

代わりに、近くに住む庶民向けの礼拝堂が隣接しており、そちらには定期的に人々が祈りを捧げにやってくる。


わたくし達修道女は、自分達の修道院はもちろん、その礼拝堂の清掃や管理も行っている。

掃除や炊事などしたことがなかったわたくしだが、同じ立場の先輩方に支えられて何とか生きていた。



「コレット、お客様ですよ」


その日も礼拝堂を清掃していたわたくしは、院長のアデル様に呼ばれて修道院へ戻った。

早速、母が様子を見に来たのかもしれない。


「コレットでございます、失礼いたします」


面会用の部屋の扉を開けると、その狭い部屋にいたのはレオンだった。


「コレット!」

「レオン様……」

「何でこんなとこにいるんだよ。帰ろう、迎えに来たんだ」


少し日焼けしたレオンだったが、優しい笑顔は変わらない。

傷物になったわたくしにも、向けられる笑顔は今までと同じだった。そのことに酷く安堵したのに、わたくしは首を横に振った。


「いえ、わたくしはここにおります」

「何で?」

「ここが、わたくしに相応しい場所だからですわ」


そう言うと、レオンは珍しく不機嫌さを表情に乗せた。


「何で? おれは待ってるって言ったよね?」

「あなたにわたくしのような者は相応しくありません」

「そんな傷なんて気にしないよ」

「あなたが気にしなくとも、周りは許しませんわ」

「構わない」


強く言い切るその言葉が、どれほどわたくしを想っているかを伝えてくる。

涙が出そうなほど嬉しいのに、それでもわたくしは頷くことができない。


「わたくしのせいで、あなたが悪く言われるのは耐えられません」

「そんな奴ら、こっちから願い下げだよ」

「……レオン様、本当はお分かりなのでしょう? あなたは選ぶ立場であり、わたくしは選ばれる場所から落ちてしまったのです。もう、戻れないのですわ」


傷一つだけで。そう思うのに、それを許せない自分も確かにいる。

この方の隣を歩くならば、わたくし自身に一つの瑕疵も許せない。


「さようなら、レオン様」


席に着くことなく、わたくしは部屋から出た。


どうか、お幸せに。

言葉にはできなかったけれど、明日からは祈りのたびに彼の幸せを願うことにしよう。



それから、レオンの姿を見ることはなかった。

わたくしはいつも通り、変わらぬ清貧な日々を過ごしていた。


噂では、わたくしの他にいた殿下の婚約者候補は、シャルロット様を除いて全員辞退されたという。わたくしが襲撃されたことで怖気づいたのだろう。無理もない。


その中でもサラ様は、レオンの親友であるテオ様とご婚約されたという。お幸せになっていただきたいものだ。


そして狙い通り唯一の候補となられたシャルロット様だが、こちらの状況は芳しくないようだった。

だが殿下も新たな候補者を立てることができなかったようなので、小康状態といったところだろうか。

あのような方が王妃になられるかと思うと恐怖しか感じないので殿下には頑張っていただきたいが、これ以上押さえ込むことも難しいのかもしれない。



そんなある日、礼拝堂を掃除していた時、一人の男性が近づいてきた。


「こんにちは。何かご用でしょうか?」


こんがりと日に焼けた男性は帽子を目深に被り、顔がよく見えない。服装は庶民のようだが、どこか違和感があった。

先んじて声を掛けると、男性は帽子のツバをそっと上げた。


「レオン……」

「久しぶり、コレット」

「あなた何でそんな恰好……」

「面会だと会ってもらえないかなって思ってさ。どう? 帰る気になった?」


会いにきてくれたことは、信じられないくらい嬉しかった。

だが、そんなに簡単に変わるような気持ちではない。

わたくしが何も答えずとも分かったのか、レオンは変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ「また来るよ」とそのまま去っていった。


「どうして……」



それからもレオンは、不定期にひょっこりやって来ては同じ問いを続けた。

わたくしの反応もまた、変わらぬものだった。


年が変わり、レオンは学園を卒業した。

モロー侯爵家の跡取り息子であるレオンは、領地に戻り経営を学ぶことになったのだろう。以前よりもここへ来る頻度は減っていた。

それでもまだ顔を見せにくるのだから、どうしようもない。


わたくしの気持ちが神だけに向くのは一体いつになるのか。




そうして日々は過ぎていき、わたくしが十八になる年に事件は起こった。


なんと、ジョルジュ殿下が真実の愛のお相手を見つけたという。

学園の最終年となるこの年になって編入してきた、エミリ・バーナード男爵令嬢がその相手のようだ。

エミリ嬢は大変優秀な生徒のようで、教師や殿下の信頼も厚く、また下位貴族ということで控えめな性格が謙虚で好ましいという。


婚約者になるのはきっとエミリ嬢に違いないと、公然と囁かれているという話がわたくし達の修道院へ入ってきたころには、もう事件が起きていた。


エミリ・バーナード嬢が襲撃されたのである。


その話を聞いたのは、面会に来ていた母からだった。蒼白になったわたくしを母はしっかり抱きしめてくれた。


「コレット、辛かったらこれ以上聞くのは止めておいていいのよ。でもきっと、噂はすぐにやってくると思うの」

「ええ、お母様。続きを聞かせてください」


ぎゅっと母を抱きしめ返しながら、続きを促す。

母の口からは、凄惨な事実が語られた。


「馬車を襲ったのは、ならず者だったらしいわ。御者は切り殺され、エミリ嬢は侍女とともに連れ去られたそうよ。侍女は足を切って動けなくされていたようなの。それでも何とか助けを求め、見つかったのは翌週だったわ」

「そんな……ひどいことを」

「見つかった時のエミリ嬢は……惨いことね。心に深く傷を負ったのは間違いないわ。今は領地で静養しているそうよ」


そうまでしてしがみつく候補者の座に、何の意味があるというのだろう。


「襲った犯人は」

「ただのならず者、盗賊ね。他には何の証拠もなかったんですって」

「……そうですか」


ここまでのことをしてしまえる、その独りよがりな思いが怖い。


「殿下のご様子は……?」

「憔悴なさっているそうよ。無理もないわね」

「お気の毒に……」


あれじゃなければ誰でも良いと言っていた、あの時の殿下を思い出す。

世界はなんと、ままならないことか。



程なくして、この話は衝撃を持ってこの地域にまで届いてきた。

殿下とエミリ嬢に同情的な声が多数を占め、庶民達も口さがなくシャルロット様の悪口を言い合う。

見も知らぬ貴族のことなど、日々のちょっとした彩りのようなものなのだ。


しかしながら当然のごとくシャルロット様の立場は変わらない。

殿下は十八歳になられ、候補から婚約者を選ぶ期限が迫っていたが、まだシャルロット様は婚約者候補のままだった。


わたくしも十八になったが、相変わらずレオンは不定期に顔を見せていた。


(いい加減、もう来ないでって、もう会わないって、言わないと……)


わたくしが十八ということは、レオンはもう二十歳である。侯爵家の令息として婚約者を決めなくてはならないはずだ。

わたくしに構っている場合ではないのに、きっぱりと告げられない自分が嫌になる。



その後、殿下が学園をご卒業されてしばらくしてから、なんとシャルロット様との婚約が白紙になったという知らせが入ってきた。


エミリ・バーナード嬢を襲撃させたのがシャルロット様だという証拠を、ついに殿下が見つけたらしい。

シャルロット様はここではなく、厳しい戒律のある砂漠近くの修道院へ送られたそうだ。


いつもの如く母からその話を聞いたわたくしは、ほっと安堵の息を漏らした。


「そうですか……さすが殿下ですわね」

「でも、肝心のエミリ様は領地から姿を消してしまわれたのですって」

「え!?」

「これでようやく、殿下も御婚約されるはずだったのに……エミリ様はご自分が王妃に相応しくないとおっしゃっていたそうよ」


その気持ちは痛いほどによく分かる。

わたくしとエミリ様では負わされた傷の深さは違うから、分かるなんておこがましいかもしれないが。


「けれど、これでコレットが襲われる心配もなくなったのよ。あなたはまだここで暮らすつもりなの?」

「お母様……申し訳ありません、わたくしはここにずっといたいのです」

「そう。いいわ、あなたの思うようになさい」


母の優しさが胸に染みた。




それからもわたくしの修道院での変わらぬ日々は続いた。

怒涛の展開を迎えたのは、殿下が新たな御婚約を結んだのがきっかけだった。


その頃、わたくしは二十歳になっていた。レオンは二十二歳。

レオンの親友であるテオ様はサラ様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるし、殿下の新たな婚約者はそのテオ様の妹君だという。


殿下は新たな婚約者となったそのご令嬢を大変慈しんでいると聞いた。エミリ様をずっと探しておられたが、見つからなかったようだ。けれど、きっと前を向いて歩き始めたのだろう。


(レオンもいい加減、このままじゃいけないわ)


これまで何度も思ってきたことだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。

だがようやく、わたくしはそれを行動に移すことができたのだ。


「コレット、元気だった?」


庶民の格好をして紛れていても、レオンならばすぐに分かってしまう。数か月ぶりでも、すぐに。


「……レオン様」

「ん?」


すうっと息を吸い込み、覚悟を決めた。そしてしっかりとレオンの目を見つめる。


「もう、ここには来ないでください」

「え……」

「あなたには会いたくないのです」


絶句したレオンに心が痛む。

けれど間違いなくわたくしの本心を告げたのだ。


「失礼いたします」


さようなら、とはもう言わなかった。

またね、と返ってくることもなかった。




変わらぬ日々を過ごそうとしていたわたくしだったが、世間はそれを許さなかった。


殿下が新たな婚約者――ジュリエット様との御婚約を正式に発表されると、エミリ様の目撃情報が噂されるようになった。

隣国で、いやバーナード領で、いや王都近くでと、不確かなものばかりだったが、口さがない人々は殿下とエミリ様が再び結ばれることを期待し始めた。

真実の愛という言葉の強さは、人々を惹きつけてやまないのである。


そんな中で、衝撃の事件が起きた。

エミリ様がバーナード男爵とともに捕縛されたのである。


この修道院は王都のはずれにあるのだが、バーナード領へ行くにはこの近くにある街道を通らなくてはならない。

数日前に殿下が通ったという噂が流れたときには、人々は遂にエミリ様を迎えに来たのだと囃し立てた。

だが昨日、殿下の御一行が同じ道を帰ってきたときには、バーナード男爵とエミリ様が罪人を運ぶ馬車に入れられていたという。

騒然としたのはこの地域だけではなかった。


そして程なくして、王家から正式にバーナード男爵についての文書が発表されたのである。


それによると、エミリ様――エミリ・バーナードとして学園へ通い、シャルロット様が差し向けたならず者に襲撃されたのは、偽物だったという。

髪を瞳の色が同じだけの優秀な孤児をエミリとして仕立て上げ、学園へ送り込み、ジョルジュ殿下に近付くように仕向けたのだそうだ。

その間、本物のエミリ様は領地で好き勝手に過ごしていたらしい。


そして襲撃事件後、領地へ戻された偽物のエミリは、男爵家によってその存在を消されてしまった。


「なんてひどい……」


拡散されたその文書は、修道女の誰かが実家からもたらされたようだ。

それを読んだわたくし達は、言葉を失うしかなかった。


男爵令嬢と同じ髪と瞳の色をしていたというだけで、理不尽な立場に置かれ、好きに利用された挙句に消されてしまったというその女性を思うと、涙をこらえるだけで精一杯だった。


「まあ。しかもその偽物の方とも、殿下は特別な関係ではなかったそうよ」


一緒に文書を読んでいた修道女が次の文面を指し示した。


そこには、そもそもそのエミリ様が編入となったのは、殿下が女性官僚として育てようとしていたからで婚約者候補ではなかったときちんと明言されていた。


「そうよね。家格の問題もあるし、ジョルジュ殿下は我を通すような方ではないわ」

「けれど気持ちが惹かれていたかどうかは分からないのではなくて?」

「でも……所詮庶民でしょう? あの殿下が?」

「真実の愛だというのも、バーナード男爵が噂を流したみたいね」

「なあんだ。じゃあ今の婚約者のジュリエット様を溺愛しているという噂はどうなのかしら」

「ジュリエット様はあのテオ様の妹君でしょう? それはもう大変な美しさだとか」

「わたくしの弟が、先日の婚約披露に招待されておりましたの。テオ様が花の妖精王だとすれば、ジュリエット様は花の妖精姫だそうですわ」

「それはきっとあの殿下と並ぶとお似合いなのでしょうね」

「殿下が溺愛したくなってもおかしくはありませんわね」


女性達はおしゃべりだ。ここには娯楽というものがない分、殿下の周辺で起こった一連の出来事はわたくし達の娯楽として消費されていた。



再び年が明け、新たな年を迎えてすぐ。

噂のジュリエット様がこの修道院へ視察に来られるという。


ジュリエット様は王子殿下の婚約者として正式に認められ、王城に部屋を賜ったそうだ。

お二人はどこでも大変仲睦まじい様子で、今度こそ、ようやく殿下のお相手が決まったのだと歓迎の空気一色である。


ジュリエット様はすでに公務を始めておられるようで、孤児院や修道院を精力的に視察し、なんと炊き出しまで自ら行っているらしい。

王都の各地で振舞われているのは、カリーという独特のスパイスを使ったスープ。

砂漠の向こうの国からもたらされたそのスパイスは、食欲を刺激する不思議な香りだという。


わたくしのいるこのリーンハイツ修道院も、その恩恵がもたらされるのかと期待に満ちていた。



そして当日。

護衛二人と侍女一人を連れてやってきたジュリエット様は、奇跡のようにお美しい方だった。


アデル院長が出迎えに出たのだが、わたくし達も影からこっそり覗いていた。

そしてその姿が見えた瞬間、わたくし達は全員が息を飲んだ。


「まるで、(マーリー)の神ね……」


うっとりとそう呟いたのは誰だったのか。そこにいた全員が激しく同意した。


ジュリエット様は期待に応え、カリーのミルクスープを振舞ってくださった。

わたくしも初めていただいたが、ピリッとした辛さがミルクでほどよく抑えられているのか、飲みやすくておいしかった。何だか後を引く味である。きっと定番の味になるのだろう。


礼拝堂にまで出て庶民にも直接スープを手渡しする姿が、入学当時の殿下と重なった。


(よかった。きっと殿下はお幸せなのね……)


聞こえてくる話と、そこにいるジュリエット様を見れば分かる。

あれじゃなければ誰でもいいと言っていた殿下は、きっともういないだろう。同じ方向を向いて、隣を歩いてくれる方を見つけたのだ。


ひとつ、わたくしが抱えていた思いが消えていくのを感じた。

色々な苦難があったけれど、殿下にもお幸せになっていただきたい。

巻き込まれた一人としてそう思うのである。



ジュリエット様が帰ってしまうと、わたくし達は後片付けに追われていた。


おしゃべりの話題はもちろん、ジュリエット様のことである。

あんなにお美しいのに、とても気さくに振舞われる姿は女性達をも魅了したのだ。

しかも修道女達にと、とてもいい香りのハンドクリームまで差し入れしてくださった。その全方位への気配りは、やはり殿下とお似合いである。


「あら? ジュリエット様の馬車ではないかしら」


窓の外を見ていた一人が呟いた。

視線を窓へ遣ると、先ほど出て行ったはずの馬車が停まり、ジュリエット様の護衛が御者席から降りてきた。アデル院長が慌てて入口へ向かっている。


「お忘れ物かしら? わたくし達も向かいましょう」


だが、途中で出会ったアデル院長はわたくしを見て手招きをした。


「コレット。ジュリエット様がお呼びですよ」

「わたくしですか?」

「そうなの。とてもお急ぎのようだから、すぐに行ってさしあげて」


そう言われて足を向けるが、頭の中は疑問だらけである。

先ほどの視察で、わたくしがジュリエット様と直接言葉を交わすことはなかった。会釈程度しかしていないはずだ。

それが、名指しでお呼ばれする意味が分からない。


指定された場所へ足早に向かうと、本当にジュリエット様が立っていた。

そばまで駆け寄って礼を取る。


「コレット・ブランシェ様でしょうか」

「はい。初めてお目に掛かります、コレット・ブランシェでございます」

「突然お呼びだてて申し訳ありません。ジュリエット・ボネと申します」

「いえ、とんでもございません。お目にかかれて光栄ですわ」


そう言うと、ジュリエット様は予想だにしなかったことを言った。


「わたくしもです。あの、実はレオン様……レオン・モロー侯爵子息のことでお伺いしたいことが」


久しぶりに聞いたその名前は、やはりわたくしの胸を締め付けた。

あれ以来、レオンはここへ来ていない。


「まあ。何でしょう?」

「その、最近レオン様とお会いになられていないとか」

「……あの方は、このようなところへ来られる立場ではありませんから」


来ないでと告げたのはわたくしだ。会いたくないと言ったのも、わたくしだ。

だがそれを口にすることはできなかった。


「あの、わたしにとって、レオン様はもう一人の兄のような存在なのです。贔屓目もあるかもしれませんが、素敵な男性だと思います。レオン様の何が受け入れられないのか、お伺いしたくて」


そういえば、ジュリエット様はテオ様の妹なのである。

レオンと付き合いがあるのも頷けるし、兄のように慕っているというのも想像出来る。レオンはああ見えて面倒見がいいのである。


「……ジュリエット様は、わたくしのこの手をことを、ご存知かしら?」


一年中手袋に包まれたままの右手を前に出すと、ジュリエット様は痛ましそうに眉を寄せた。


「はい。その、傷を負ってしまわれたとか」

「どうしてもね、消えなかったの。ただでさえ、わたくしのような者があの方の隣に並ぶのはおこがましいと思っていたのに、こんな傷持ちではとても無理だわ。あんな素敵な方に、わたくしなんかふさわしくないの。あの方はお優しいから、昔馴染みを見捨てられないのでしょうね」


自らその縁を切り捨てたわたくしは、どれほど苦しくともそれを嘆いていいはずがないのだ。


ふと目を上げると、ジュリエット様が不思議そうな顔でこちらを見つめていた。


「あの…あの方、というのは、レオン・モロー様で合っておりますか?」

「え? ええ、そうよ」


レオンの話をしていたはずだが、わたくしの勘違いだったのだろうか。

するとジュリエット様はとても言いにくそうな顔で言葉を続けた。


「不躾なことを申しますが、先ほど申し上げた通りわたしにとってレオン様は第二の兄、もはや身内のような存在なのでご容赦ください。あの、レオン様は確かに素敵な方ですが……コレット様のような素晴らしい方が絶賛するほどとはどうしても思えず」

「……え?」


言葉の意味がまったく分からなかった。

レオンは将来を約束された侯爵令息であり、立派な跡継ぎである。勉強も真面目にこなしていたし、領民からの評判も良かった。

しかしジュリエット様は、わたくしの困惑に更なる追い打ちをかけてきたのだ。


「レオン様は、貴族らしからぬ変人として名が通っております」


(へ、変人? レオンが?)


「見目麗しく人気もありますが、既に二十二歳だというのに婚約者も作らず、クレッシェでの貿易を掲げては船でしょっちゅう旅に出ておられます」

「……初耳だわ。たまにものすごく日焼けしていたのはそのせいなの?」


いつか庶民の恰好をしてきたとき、こんがりと日に焼けていたことを思い出す。

するとジュリエット様は神妙に頷いた。


「おそらく。それに夜会でも晩餐会でもどなたもエスコートされずに一人でいらっしゃいますし、後継はお姉様であるクラリス様のお子様に任せると公言し、最近ではモロー侯爵も諦めておられるとか」

「はっ?」


さすがにそれはあり得ない。

クラリス様にはお子様が多くいらっしゃるが、既に公爵家に嫁がれた御身である。レオンが結婚した上で御子に恵まれないときの最終手段としては考えられるが、結婚もせずにそのようなことを言い出すなんて。


「……それは聞き捨てなりませんね。次に会ったら考え直すように諭しますわ」

「今、向こうで待っているのですわ。ついてきてください。ダミアン、案内をお願い」

「はっ」


え? と聞き返す間もなく、わたくしの身体は反射的にジュリエット様の後を追っていた。

先導する護衛のその先に、久しぶりに見るレオンの姿が見えた。


「レオン様!」


声を掛けたのはジュリエット様だ。それなのにパッとこちらを向いたレオンは、わたくしと目が合うと嬉しそうに笑った。


「コレット!」


その顔のまま駆け寄ってくるレオン。

随分久しぶりに会うというのに、何も変わっていなかった。


「コレット、来てくれたんだ! おれ、もう会えないかと思って」


だが、わたくしは珍しく怒っているのである。


「レオン?」

「ん? どうしたの?」

「今、ジュリエット様にうかがったのだけれど。あなた、結婚はせずにクラリス様のお子様にモロー家を継がせるおつもりだとか」


ピリッとひりつく空気に、ようやくレオンも気が付いたようだ。へにゃっと眉を下げて誤魔化すように笑った。


「ああ、そうだよ。コレットじゃないなら嫁なんていらねえもん」

「貴族のくせに我儘言わない!」


ビシッと言い返すと、レオンは口を尖らせた。


「……そうやって言われると思ったから、平民になる準備してる」

「はっ!?」


信じられない言葉が返ってきて、思わず大声を出してしまった。


「平民なら傷がどうとか言われないだろ? 今はまだ甥っ子も小せえし、父上に何かあったら困るのは領民だし、もうちょっと先の話だけど」

「なんで、そんな……」


愕然とするわたくしを見つめるレオンの顔は、とてつもなく優しかった。


「だから、コレットじゃなきゃ意味ないって言ってる。お前が幸せになるならいくらでも諦めるけど、神様の嫁にするくらいならおれが嫁にする。そんでおれが幸せにする」

「レオン……」

「諦めないからな。おれの気持ちはおれだけのものだ」


そう言い切ったレオンは、わたくしがここへ来た数年前と何も変わっていない。

ずっと変わらぬ気持ちを持ってくれていたのだ。


「また来る。帰ろう、ジュリエット」


言うや否や、レオンは歩き出してしまった。わたくしはまだ動けない。


「コレット様、ではわたし達はこれで失礼します」

「……え? あ、ごめんなさい」


そうだ、ジュリエット様がおられたのだ。何もかもが吹き飛んでしまう衝撃だった。


「あの、レオン様が言い出したらどうしようもない方だというのはご存知かと思います。でも、コレット様が本当にご迷惑ならばわたしにお伝えください。殿下や兄に何とかさせますので」


ジュリエット様が本当に心配そうにわたくしを見ていた。

わたくしとレオンを引き合わせたのはレオンの為だっただろうけれど、その結果をわたくしに押し付けてはこない。

きちんと逃げ道を用意してくれようとしている。その真摯さが嬉しい。


「ふふ、そうね。レオンはいつもテオ様にお世話になっていましたわ」


幸せしかなかったあの頃を思い出す。

状況はすっかり変わってしまい、わたくし達も年を重ねた。


だがレオンの気持ちはあの頃と少しも変わっていない。

そしてその立場を捨ててまで、傷物のわたくしを求めてくれるという。

変人と思われようと、何も気にせずに。


(もう……いいのかしら。わたくしが隣に立てるように、レオンが降りてきてくれたのだもの)


レオンの気持ちを甘く見ていたことを、認めなければならないだろう。

あの頃と気持ちが変わっていないのは、わたくしも同じである。

こんなにも互いを想う気持ちが変わることがなかったのならば、きっとそれがわたくし達の生きる道なのだ。


どんなに厳しくとも険しくとも、二人で歩くべき道。


「ふふっ。変人と傷物なんてね」


口元を緩め、手袋に包まれた右手をそっと撫でた。




部屋に戻ったわたくしは、二通の手紙を書いた。両親と、レオンに宛てて。


それからたった三か月後の今日。

わたくしは王都にある大聖堂、その大きな扉の前にいた。


扉の向こうから荘厳な音楽が聞こえてくると、扉が開き、正装したレオンが姿を見せた。

レオンはわたくしの姿を見ると、ほんの少しの驚きのあとに物凄く嬉しそうな笑顔になった。


「きれいだ。本当の女神みたい」

「ありがとう。レオンも素敵よ」


レオンに差し出された腕に、そっと手を重ねる。

わたくしの右手は今日も美しい手袋に包まれているが、もうそれを嘆くことはない。


レオンの向こうには涙ぐむ両親。兄夫妻や見届け人として来られたジョルジュ殿下の姿もある。手前の来賓席には、テオ様とジュリエット様の姿もあった。

ここにいる皆が心から祝福してくださっているのが伝わってきた。


祝福の風に導かれるように、わたくし達は二人で新たな道を歩き出した。




END.


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