経済と無限の関係
経済とは何か。こう考えると、非常に難しい問題な気がするし、数式など出てきそうだが、実際はそう難しくないのではないか、と今は考えている。それについて書こうと思う。
経済というのは、アリストテレスが示した困惑にその根本が現れていると思う。商品というものを考えてみよう。それは多様性に満ちた様々な物である。しかし貨幣は、それらの差異を一元化して数量化してしまう。この一元化の処理に、アリストテレスは不審の念を示した。そこに何か不気味なものを感じ取ったのだろう。
昔、ある会社の説明会に出た事がある。適当に話を聞いていたが、壇上の上司がパワーポイントを使って「我社は毎年右肩上がりだ」と自慢そうに言っていた。私はそれを聞いて、嫌な感じがした。最も、どうして嫌な感じがしたのか、その時の私には分析できる力はなかった。ただ(どうして右肩上がりでなければならないんだろう?)と疑問に思っただけだ。
現代社会においては経済はもはや宗教になっている、と言っていいだろう。普通の人が、「人生が変わるかもしれないから宝くじを買っている」と言う。では、そんなに金に困っているのかと言えばそうでもない。明日食うものはあり、明後日食うものも、来週、来月、来年食うものもある。衣食住は足りている。それでも、もっと金があれば全ては一変できると信じている。
「成長」という概念について考えてみよう。種子が「成長」して木になる。そういう成長の概念には、完成形というものが含まれている。立派に育った木が完成形である。同様に、子供が成長して大人になる、という時、立派に働いている大人が完成形である。この成長概念には完成という限界が想定されている。
更に、木がまた種子を生むとか、立派な大人は家庭を持ち、子供を育てる、と考えてみよう。こうなると成長は循環過程に流し込まれる事になる。それは回り続けるが、ある結末まで来ると、また最初に戻る。この考え方だと成長と衰退、生誕と死は輪廻として理解される。こうした考えは歴史の中で大きな役割を持っていた。
一方で、現在の経済信仰は、説明会での上司のように、無限の「右肩上がり」をなんとなく想定している。それは質を量に変換する思想である。
アリストテレスの困惑に戻ると、まず様々な質が数量に変換される。質、ここでは商品とは、いくら多様と言っても、物質なので限界がある。サービスだと考えても、時間や空間で区切られ、限界がある。無限のサービス、無限の商品はないし、地球環境も無限ではない。だが全てが数に変換された時、そこにはあったはずの様々な限界は消える。純粋に数だけが残る。数はどこまでも増やしていく事ができる。
数は無限に到達できる。「無双」という言葉が流行っている。連戦連勝がいいものらしい。会社は右肩上がりが良いのであり、貯金は延々と増え続けるのがいい。こうした無限信仰こそが、現代の「経済」の核心だと私は考えている。
この無限は一体、どこから来たのだろう? 暫定的な答えとしてはキリスト教だ。キリスト教は、神の国を来世におき、人間を現世に置いた。神の国はいつかはやってくるのであり、少しづつこちらに近づいてくる。向こうから神の国が近づいてくるのなら、こちらからもそちらに近づけるだろう。ここに成長という概念の生誕があったのではないか。
ヘーゲルとマルクスの思想はタイプが違うが、どちらも、キリスト教思想の変質と理解できる。ヘーゲルは保守的で、マルクスは革命思想で反逆的だが、どっちも神の国を現実の世界に押し込むという要素を持っていた。キリスト教の伝統的な考え方では、あくまでも神の国は彼岸であり、人間の手に届くようで届かないものだったわけだが、近代思想は神の国を現実に押し込む事を可能だと考えた。その思考の根源になったのは、産業革命などの人間の生産性の増大だろう。人間は自らの力を自覚しつつあった。
こうして人間は「成長」できるという事になった。労働環境は良くなり、寿命は長くなった。人間は良くなった。今の人は、今の時代が一番素晴らしい時代だと無邪気に信じている。というのは、今が一番「成長」した時代だからだ。そして未来はもっと良くなる。というのは全ては「右肩上がり」だからだ。
こうした単線系の考え方は、先に言ったように、無限という概念を現実に押し込む考え方である。現代が無限信仰というのはそういう意味である。プラトンのイデア論にしても、イデアの世界と現実の世界は別れていた。それが一つに重なっている。それを可能にするのは耐えざる生活水準の上昇であり、それを支える科学技術のおかげだ、と人は言う。
だが、どこまで生産性が上がったとしても、ついに人間が無限と一致する事はできない。人が心の中で追い求める物と、現実に達成された物との間にはどこまでも差がつきまとう。…これに関しては色々な哲学・文学が探索してきた問題だが、掘り下げるにはこの文章では紙数が足りなくてできない。なので、現実的な例だけ書いておく。
例えば、今のタレントは、私には大衆に嘘をつくのを強要された存在に見える。メディアという舞台の上は、一種の無限と考えられる。そこには無限の光輝がある。だから、タレントは大衆に向かっては、いかにも満足している姿を見せなければならないし、自分にはもうなんの不満もない、といった姿勢を見せなければならない。
これは金持ちでも同じ事だ。金持ちが「金を持っていても大して楽しくない」などと言うと、すぐに「それは金を持っている人間だけが言えるセリフだ」という庶民的な批判がはさまれる。というのは、金持ちとかタレントとか、現代の社会における無限と一致した存在が、自分に不満を漏らすというのは、この世界の宗教に反するからである。
彼らは例外なく満足していなければならない。「努力して夢を叶える」と人は言う。その際、夢が確固たるものでなければ、努力する気もおきないだろう。この夢を、メディアは耐えざる嘘で支えている。だから、メディアというのは内部で分裂している。実際には夢でも理想でもないものを、夢であり理想と言い続けなければならないからだ。それはもうやる気もなく、くたびれきっているのに、大衆の喝采に押されてしぶしぶ演じ続ける役者に似ている、とでも言えばいいだろうか。役者は内心うんざりしているのだが、大衆はキラキラした目でこれを見ている。
だが、どのみち人はどこかへ行かなければならない。人は行く所がどこにもなくても、どこかへ行かなければならない。それで「夢を叶える」「いつか金持ちになれる」という、叶わない夢は、人々の前にいつもぶら下げられていなければならないという事になる。それはまた、叶わないという事によって価値を持ち続ける。叶ってしまえば、実際はそれほど大したものでもないとわかってしまうからだ。こうしてタレントは、内部に分裂を抱えながら、大衆の願望を演じる容器としての芝居を続ける事になる。こうした大衆向けの祭祀形態は昔から変わっていないのかもしれない。
経済は特に数字に注目する事によって、死すべき人間というものから目を逸らさせる。数字は無限に上昇可能だからだ。それを現実の中に押し込むと、現実の抱える様々な限界が取り払われる事になる。フォロワーが増えるなどの、数重視も同じだ。こうした観点が行き渡り、人間の限界性を深く考える文学のようなものが廃れたのは当然とも言えるだろう。最古の文学とも言える「ギルガメシュ叙事詩」は明らかに、人間という存在の限界性が意識されている為に、優れた文学作品になっていた。限界性を取り払った時、そこにあるのは無限の上昇であり、これは陽気な楽観論となる。
楽観論と唯物論は数量に着目する事で、互いに手を取り合った。我々は無限に上昇していくという幻想の中で下降し続け、やがて死に至る。おそらく、この数量の無限性は、自己意識の無限性から来ているのだろう、と私は思う。人間の意識は過去から現在、現在から未来までずっと続いていく。するとこの一本の線をずっと続けていけば、無限ができあがる。しかし、それは現実には不可能だという意識から、無限を来世に置いておく宗教ができあがった。
今は無限を現実に繰入れ、それを否定する者を排除しようとしている。昔の宗教と現代の合理主義のどちらが正しいのか、私にはわからない。しかし、人が思っているように、人間が成長しているとは私は思わない。そもそも成長が無限上昇であり、自分達が一番成長しているという、そう判断する基準そのものを現代の我々が都合のいいように恣意的に決めているに過ぎないからだ。
こうした時代が、歴史の中でどういう風に判断されるか、私にはわからない。ただ、私には我々がどこまで走っても、いつか無限や永遠に辿り着けるとは思えない。相対的なもの、生活水準の向上のようなものをどこまで延長させても、神の国に至る事はないだろう。あくまでも神の国は我々が作り出した観念である。だからこそ、我々は死ぬ瞬間まで、神の国という幻想を胸に抱いたまま、希望を胸に宿しつつ、安らかに死ぬ事ができるのだ。