16.1.一宿一飯の恩は忘れませぬ
カチャカチャ……チャッチャチャチャッ……。
必死でお椀の中に入っているお粥を口に運ぶ男がいた。
ずいぶん水っぽい食事だがあるだけまだましであり、数日何も口にしていなかった彼にとってはまさしくご馳走であった。
ゴクリと喉をならして粥を全ては飲み下した男は、満足そうに大きな息を吐く。
生き返ったというのはこういうときのことを指すのだろう。
餓死しかけるとは情けない、と思いながら照れ臭そうに頬を掻く。
「い、いやはや……馳走になりもうした……」
そう言いながら茶碗を丁寧に置き、手製の箸を軽く水で洗った。
その口調はどこかよそよそしく、常に遠慮しているようだ。
自分に自信がないというのが容姿を見ただけでわかるほどの猫背で、目には大きな隈が刻まれて血色は悪い。
本来はしっかり寝て療養すべき人物なのではあるが、彼は不眠症なので眠りたくても寝られないのだ。
体に合っていない少し大きめの服を着ており、手は常に隠れてしまっている。
濃い藍色の和服は長い髪の毛と全く同じ色であり、痩せこけた顔も相まって不気味に感じた。
深緑の瞳はこの世界では珍しい。
なので恐れられることもよくあったように思う。
しかし人は見かけによらないとはよく言ったもので、口を開けばとても丁寧な人物であるということがよくわかった。
礼節を尽くす彼の姿勢は真っ直ぐで、恩義を重く感じる人物であるらしい。
餓死をしかけて倒れていたところを、間一発救ってくれた家族に、改めて向き直って深々と頭を下げる。
「た、助かりもうした……」
「流石に家に前で倒れられてたら……無視できないですから……」
「お気になさらず、旅のお方。気分はどうですか?」
「よい、気分……というのは、今のことを言うのでしょうな……。ええ……」
「それはよかった」
助けてくれたのは、この小さな村に住む夫婦であるようだ。
女房の隣には、小さな子供がこちらを警戒しながらしがみついている。
すると、子供の腹がくぅ、と鳴った。
「……あや……まさか……」
男はふと、家の中を見渡す。
先程自分が食った食事は、粥ではあったが随分水でかさ増ししてあったように思う。
それに少しだけ引っ掛かりを覚えていたのだが、どうやら彼が今気付いたことは見事に的中しているらしい。
隙間風が通るようなボロボロの家。
質素な着物に閑散とした室内。
そして目の前にいる三人のなんと痩せていることか。
「……私に……賄うだけの余裕は……あったのですかな……?」
「お気になさらず。人助けすればいつか返ってきますから」
男は、この家庭に一食分の飯を賄うだけの余裕はなかったのだと悟った。
この一家は、今男が食らった粥を分けて食べるつもりだったのだろう。
それを一人でがっついてしまった自分を恥ずかしく思い、申し訳なさで一杯になった。
なにか、何かこの家族にできることはないだろうか。
とはいえここに滞在し続ける訳にはいかない。
今この瞬間でなければ……。
「こ、このご恩……。何かで返したく……」
「いやいや、大丈夫ですよ。あなたは無事で何よりですから」
「な、何か返すことができねば、私は気を病んでしまいそうです。何かありませぬか。なにか……」
「あ……ではお名前を教えていただけますか?」
「性は蕪、名は無骨。蕪無骨にございます」
胡坐をかいて握り拳を床に置き、深々と頭を下げる。
一拍おいてゆっくりと面を上げるが、その顔はやはり不満そうだった。
「これだけでは……」
「と、とはいいましてもねぇ……。なぁ?」
「そうですね。私たちは皆が一緒なら頑張れますし、特には」
「さ、左様……にございますかぁ……」
恐らく、彼らが最も喜ぶことは、蕪がこの場から去ることだろう。
一食分の食事を彼に与えたのだ。
このままここに居続けることこそが、逆に彼らを苦しめる結果になってしまう。
だがしかし、受けた恩を返さずして何が武士か。
そういう考えが蕪の中で渦巻いていたが、この場に居てはやはり恩人を苦しめる。
去るべきだとはわかっていても、何もせずにこの場を後にしていいのかどうか。
難しい選択を今迫られていたが、蕪はスッ……と立ち上がった。
右側に置いていた真っ黒な日本刀を手に取り、それをのんびりとした動作で腰に携える。
立ってみると、案外背が高かった。
そしてそのまま、踵を返す。
「せ、世話になり申した……」
「きょ、今日くらいは泊って行っても大丈夫ですよ?」
「いえいえ……ここまま私が居れば、糧がなくなりましょう。あ、あとは何とかします故……これにて」
蕪は、恩を返すのは今でなくてもいいと考えなおした。
いつか彼らに何かを返せるように、違うところで金銭などを稼ごう。
すると目的の人物を殺すようにと本能が告げるが、彼はそれを押さえつけて玄関を出た。
「あえ?」
いくつかの気配を感じる。
こんな夜更けにぼろい家に、人が気配を消して集まってくるのは些か不自然だ。
明らかに普通ではないので、ふと振り返ってみる。
すると恩人が不思議そうな目でこちらを見ていた。
どうして立ち止まったのか気にしている様だ。
(何故、恩人様にこの数で、この夜更けに、訪ねることがあるのだろうか)
ざっと確認してみるに、気配を消しながら近づいてきているのは二十四名。
なかなかの大所帯だ。
これ程の数でこんな時間に集まってくるとなれば……彼らは何か特別な人物なのかもしれない。
蕪も、そういう経験はある。
「恩人様」
「……? はい?」
「失礼を承知でお聞きいたします。恩人様は、王家なる地位の出でしょうか?」
「「!?」」
あからさまに動揺した二人。
二人はすぐに子供を庇うようにして身を寄せる。
それを見てするに理解した。
「なるほど。そのお子様が、王子なのですな」
「……!」
「お二方は大方……ふむ。使用人、もしくは家来か何か……はたまた王家の重鎮ですかな? されどこの世の“きぞく”なる輩は人助けなどしますまい。となれば侍女か使用人といったところですかな」
「どうして……」
「……嘆かわしいことですな……」
蕪は、キンッと音を立てて鯉口を切った。




