11.18.Side-ナルファム-大量の細い腕
しばらく聞き慣れた音が急に失われると、誰もが異変に気付くものだ。
一番早く気付いたのはナルファムで、その次に気付いたのは大工の棟梁だった。
そして連鎖的に異変に気付く者が増えていき、最後に気付いたのは穴の近くで杭を打っていた兵士。
丁度土魔法での埋め立てを断念したところでの出来事。
次第に音が大きくなっているのは分かっていた。
だからこそその音が消えたのが不思議で仕方なく、穴を覗き込んでしまう。
表面に薄い膜が張られているだけでの、大きな穴。
覗いても何かが分かるわけではなかったかもしれないが、好奇心というものはなかなか抑えられるものではない。
一歩近づき、覗き見る。
どうせ何も見えないだろうと思っていたのだが、そうではなかった。
彼の目に飛び込んできた光景は……無数の目玉が、顔が、こちらを凝視している姿だった。
黒い膜に遮られて見えにくいが、確かに大きくかっぴらかれた眼球がこちらを覗いている。
恐怖に戦慄いた兵士が尻もちをつく。
「わあああああああああ!?」
その場に絶叫が響き渡る。
誰もが彼に視線を集める事だろう。
次に目にするのは、その奥にある黒い穴……。
小さな手が、出てきた。
見るからに痩せていて、飢餓寸前の子供の腕であるように見えるそれは、這いずって逃げていく兵士を追いかける。
黒い穴から小さな丸い頭が出現し、顔、肩、それから腹が持ち上がった。
黄色い目玉が標的を見据え、鋭く尖った牙がむき出しとなり、涎を絶えず垂れ流しながら一歩、足を動かした。
緑と茶色を混ぜたような醜悪な色合いは見る者の気分を悪くさせる。
骨ばっている体だが、腹部だけは栄養失調の特徴が色濃く出ており、大きく出っ張っていた。
爪はなく、真っ黒な歯を剥き出しにしながら打ち鳴らす。
その存在は目の前に動く肉……食料があると勇んで飛び掛かるが、次第に日に焼けて崩れ去っていく。
三歩歩いたところで完全に消滅し、灰がその場に積もった。
「……」
難を逃れた兵士は、その様子を見て固まった。
作業していた兵士、冒険者、大工たちも風に乗って去っていく灰を見届けているだけだ。
誰もが今の光景を見て口を噤み、這い出してきた存在をしっかりと眼球に納めてしまった。
時間がない。
それだけが、唯一理解できたことだった。
「い、急げ!! 急いで防衛施設を構築しろ!!」
「「はっはい!!」」
棟梁の号令で、再び作業員たちが動き出す。
先ほどよりも焦り作業が素早くなったため多少の粗さは残ってしまっているかもしれないが、今はそんなことどうでもよかった。
今は、日が出ているから襲ってこれなかっただけだ。
しかしすでに兵士が見たという橋は完成し、実際に出てきた。
もう、あの存在たちの、突撃準備は整っている。
あとは……夜になるのを待つだけなのだ。
「な、ナルファム……ギルドマスター……」
「あれ、なんですか? ……なんですか?」
「私も初めて見たわね……」
恐怖が伝染していく。
今夜にでもあれは攻めてくるだろう。
それも大量に。
その証拠に、穴に張られている黒い膜を、大量の細い腕が引っ掻いていた。
早く出せ、早く出させろと言わんばかりに。
外に出られる時が来るのを、待ち侘びているように。
魔物の恐ろしさとは一味違う。
奴らは人間の心の中に存在する恐怖を強制的に呼び出しているかのように思えた。
喉元に切っ先を向けられた時の、死の恐怖ではない。
かと言って精神的恐怖でもないような気がする。
その種に対する、固定概念。
あの存在は怖い、恐ろしいというすでに決定づけられた恐怖が、我々の身を強張らせる。
見たことがない存在の筈ではあるが、それでもそう感じてしまう程の恐怖があった。
「あれについて、調べないといけないね……」
「調べても出てくるんですかね……」
「分からない。でもやれることはやらないと。日光に弱いのは分かった。図書館に行こうか」
「調べ物は……得意です……!」
「それじゃあ期待してるよ、コレイア」
現場の作業は彼らに任せて、ナルファムたちは図書館で先ほど見た存在について調べに行くことにした。
だが結果としてまったく成果を得られることなく……夜を迎えた。




