1.10.研ぎの感覚
カルロの姿をしっかりと見ていたテールは、彼の構えを完全にコピーして手に力を入れる。
それを見たカルロは声には出さなかったが驚きの表情をしていた。
初めて砥石を触ったというのに仕事をする姿勢が完璧だったからだ。
さすが一つしかスキルを持っていないだけはあると素直に感心する。
テールはしっかりとナイフを抑え、一度引いてみた。
するとナイフ越しに石のザラザラを感じることができた。
刃が砥石に当たっている部分は既に真っすぐになっているようだったので、そこを軸にして鉄を削っていく。
「ん?」
そこで何かに気が付いた。
引く時に力を入れるのはそのままに、気持ちだけ刃を立てる。
イメージとしては鉄を曲げる感じだ。
なので見ただけではまったく刃は立っていないし、テールとしてもただ引く時に刃側に力を入れているだけなので立てている、とは言えない。
そのあとまた刃の面を軸に研いでいき、数回に一度は先に力を入れて研ぐ。
さてどうなっただろうかと思ってナイフを見てみると、刃は既に真っ白になっていた。
「ど、どうですか?」
「どれどれ……」
カルロにナイフを手渡すと、彼は水っ気を取って手で刃を触り始めた。
刃の面が真っすぐになっているかどうか確かめているらしい。
そのあと光に当てて研げていない部分を見る。
ナイフを光に当てて具合を確かめているカルロの姿はなんとも格好が良かった。
小さな得物ではあるが、それだけでも職人らしさを表している。
すごいな、と感心していると、満足げに彼は頷いた。
「刃先に力を入れて研いだね?」
「え!? 分かるんですか!?」
「刃返りの大きさでなんとなく。何回も研いでいるのに刃返りがこれだけしかでていないのはそういうことかなって。でもやり方としては正解だよ」
「……あの、刃返りってなんですか?」
「ん? これのこと」
刃の面の反対側を見せて、刃先を触る。
見ただけでは良く分からなかったが、触ってみると鋭い引っ掛かりを感じることができた。
なんだこれ、と興味深く触ってみる。
荒砥石で研ぐとこんなことが起きるのかと驚いたが、カルロはこれが普通だと言わんばかりに説明してくれた。
「当たり前だけど、鉄っていうのはなかなか削れないんだよね。それにめちゃくちゃしぶとい。刃先は鉄の分厚さが極限にまで薄くなっているから、砥石に刃先が当たると刃が裏返ってしまうんだ。それを“刃返り”というよ」
これは他すべての砥石でも起こりうることだ。
しかし仕上げ砥石はこれがまったくと言っていいほど分からない。
この刃返りはしっかりと刃先まで砥石が当たっているということを教えてくれるものであると同時に、刃に負担をかける要因でもある。
だから少しでも刃返りが出ればすぐに取るのがベストだ。
そして刃返りが残っている状態だと、刃物は本来の切れ味を発揮することが一切できないので、確実に除去しておかなければならないものでもある。
では刃返りの取り方はどうすればいいのか。
それは刃の反対側を砥石にべた置きし、研ぐ。
「……これだけですか?」
「そっそ。これだけで刃返りは取れるよ」
触ってみると、確かに引っ掛かりはまったくなかった。
二度、軽く研いだだけなのに刃返りというものは簡単に取れてしまうらしい。
これはそんなに難しい作業じゃないなと思ったいたのだが、この作業に関する注意点をカルロが説明する。
「刃返りは取りすぎないこと」
「と、いいますと?」
「この作業は一回から三回までの研ぎで確実に刃返りを取らなければならない。それ以上やってしまうと、刃側に刃返りが出てしまうんだ。そうなるとまた刃を研がないといけなくなる。中砥石で取ってもいいんだけど、そうすると取った鉄の小さな粒が砥石に残ってしまって、刃に傷をつけてしまう可能性があるんだ。だからできるだけ完璧に、ここで取ってしまうのがいいよ。まぁ時と場合によるんだけどこれが基本って覚えておいてね」
目には見えない小さな粒子にも気を遣う。
感覚的な問題ではあるが、初めからこうして教えていた方がいいというカルロの判断だ。
実際、刃返りは次の段階の砥石で研ぐこともある。
その場合は刃返りを取ったあとその砥石をもう一度水でしっかりと洗い、本研ぎを開始する必要がある。
それでも気になる人は、砥石を変えるごとに水すべてを入れ替えてしまうのだ。
これはカルロも重要な仕事を任される時には使う手法である。
「さて、次は刃先を研いでみようか」
「そういえば……刃先には石が当たってないですね……」
「反ってるからどうしても当たらないんだよね。ではどうするかというと……“当てる”」
「?」
まずは見本を見せてくれるようで、カルロはしゃがんで砥石に向かった。
刃の腹部分を砥石に当て、引くと同時に刃先に砥石が当たるようにナイフを動かす。
「……え? も、もう一回……」
「いいよ」
スシャッ、スシャッ。
刃を当てている角度をそのままに、柄を握っている手を右へとずらし、刃を抑えている左手を引いて刃先まで砥石に当てた。
手を固定して研いでいた研ぎとは一変、手首を柔らかく使い、右手を緩くして左手に力を入れて研ぐ。
どうやら実際に使っているのは左手だけのようだ。
「まずはこれを練習かな」
「が、頑張ります……」
「うんうん。で、これが終わったら中砥石、仕上げ砥石の順番で同じことを繰り返すだけだよ。よし、やってみよう」
そう言ってカルロはナイフを再び手渡した。
これは難しそうだと思いながら、もう一度砥石に向かったのだった。