社会人の夕飯と女子校生
「――で、また怒られたんだ」
「別に怒られてない。始末書書いてないし」
「始末書書かなければ怒られてない判定なの、多分健にぃだけなんじゃ……」
都内1LDK一人暮らしの会社員である健斗には、彼女もいなければ許嫁も、それに相当する誰かも存在していない。よって帰る家には誰もいるはずがないのだが、この一年で一人の空間が脅かされていた。
脅かしているのは隣の部屋に住む女子高生、詩織。隣の家は長らく両親と彼女の三人暮らしだったのだが、昨年両親が出張に出るようになり、家には彼女一人しかいないことが多くなっていった。
彼女の両親とは古い馴染みで、こうして疑似的な一人暮らしとなっている彼女の面倒を見ている。元々彼女が幼いころからよく遊んでやっていたこともあり、半ば家族の一員とカウントされているのだ。
帰ると制服のまま家事を始めている女子校生がいるのは少々異質だが、これまで積み重ねてきた関係性が健斗と詩織を親子のような立ち振る舞いにさせていた。
「詩織ちゃんは学校、楽しいか?」
「そうしたの健にぃ、急にお父さんみたいなこと言っちゃって」
「今はお父さんみたいなもんだろう」
「血、繋がってないし。精々近所のおっさんでしょ」
「か~!いうようになりやがって……昔は俺が抱っこしてやらないと泣き止まなかったのに」
「記憶ないし、赤ちゃんは誰だって泣くのが仕事なの」
「そりゃそうだわな」
健斗はダイニングスペースに座り、テレビをつけて缶ビールを飲み始めた。キッチンで夕飯の支度を始めていた詩織は呆れたような声で呼びかける。
「健にぃ、取り皿と箸とコップ」
「はいはい」
詩織の指示に従い、健斗は食卓の準備に移る。実の父親ではありえない従順さに、詩織はつい心の中で比較してしまう。健斗が父親ならいいのに、なんて絶対に言わないのだが。
「学校だけど」
「お、話してくれるんだな」
「恋人ができたんだ」
「お~、ついに詩織もそんな年頃か」
「友達に」
「なんだ友達の話か」
健斗はどこまでもお父さんだ。彼女には家族がいない間寂しい気持ちをしてほしくないという一心で、彼女の世話を見るし、どこまでもお父さんであろうとする。
当然の、反応だった。
「ま、私は初恋で振られてから好きな人いないし」
「意外だなぁ。俺が学生の頃に詩織に会えてたら、迷わず告白してるぞ」
「健にぃ、そんなこと言ってるからおじさんって言われるんだよ」
「エレベーター乗り場でおじさん呼ばわりされてたこと、話したっけ」
「いやそれは知らないけどさ……」
詩織は煮込んでいる鍋をかき混ぜながら、ぼーっとかき混ぜられる具材の気持ちを考えていた。そのせいかもしれない。いらぬことを言ってしまう。
「健にぃは初恋、どんな人だったの?」
「おじさんのコイバナって需要あるのかな」
「需要はなくても供給はできるでしょ」
「まあいいけど。そうだなあ……」
健斗が語り始めた初恋の相手は、まるで詩織のようだった。
短くまとめた黒髪、平均より少し低い身長、少し悪い歯並び。好きな人の前だと雑に絡んでしまうところ、好きな人の前だと所かまわず寝てしまうところ、料理はそこそこできるところ。
詩織にとって、うかつな質問だった。解答を知っているのに、聞いてしまった。
彼の初恋の相手が詩織の母親であることなど、ずっと前から知っていたのに。
「――あ、もう大丈夫。鍋煮込み終わったし」
「お、じゃあ熱いうちに食べちゃおうか」
鍋敷きをしいて、その上に真っ赤な鍋を置く。事前に健斗が用意しておいた取り皿に取り分けて、今晩も食事が始まる。
「――どう?」
「うまい」
「そうじゃなくて」
「いや、いつも思うんだけど、わざわざ作ってもらった料理に文句つけるのっていやじゃない?」
「健にぃが元料理人だから聞いてるんじゃん。料理、うまくなりたいし」
詩織が料理して、健斗がその料理をよりおいしくするためにはどうすればいいか、評価する。
この食卓におけるいつもの光景。
「でも、このままじゃ俺の好みになっていくだけじゃないのか?」
「別にそれでいいから。早く教えてよ、元コックさん」
「はあ、じゃあ――」
健斗が料理をより味わい、どうすればよりよくなるかを考え始める。その姿を見て、詩織は心の中で先ほどの話を思い浮かべていた。
「初恋の人さ」
「どうした急に。今絶賛詩織ちゃんの料理を分析中なんだけど」
「私より料理がうまいの。見返してやりたくて」
「その年で料理ができる男か。将来はコックさんだな」
詩織は小さく呟く。そのつぶやきは料理に夢中な健斗には届かない。
「絶対健にぃを見返してやるんだから」