【この皇族がアヤしい! 《反正天皇と孝徳天皇》】
注意
1.筆者は独自の理論を多数持っており、その理論は既に説明してあるので二度は言いません。
2.結論ありきの暴論だらけなので、鵜呑みにしないほうがいいよ!
【この天皇がマイナーだけど怪しい!】
えー、まあそのー。誰が怪しいか手っ取り早く言うと反正天皇である。
この人の事績を紹介しよう。
《仁徳天皇の王子として淡路宮に生まれる。
この産湯にタジヒ、古語で言うイタドリの花の花びらが舞いおちた。
そのことからタジヒの名前がついた。成長すると身長が3メートル弱、歯が綺麗な偉丈夫になった。
というわけでミヅハワケの名がついた。彼は兄のスミノエ王子が長兄の履中に反乱を起こした際に、スミノエを討ち取る功績をあげた。
晴れて父の仁徳のあとを履中が継いだ。詳しくはあとで説明するが、6年ほどで特に実績もなく、崩御。
跡を継いだのは履中の即位に功績のあった反正で、反正時代は五穀豊饒、平和そのものだった。
まあ要するに具体的な実績もなく5年で崩御。以後、履中の王子は天皇になれず、仁徳の正妻イワノヒメとの間の嫡子としては末息子になる、反正と履中の弟の允恭がついだ》
まずデカい。なんでデカいんだよこの人。そんなすぐわかるウソつくなら時代を考えなさい。
神武天皇は海神ワタツミの娘が産んだ子供だけあってウロコがあったとか龍のような見た目をしていたとかすぐわかるウソがある。
でも反正は古墳時代の人。何でそんなすぐわかるウソついたのであろうか。
ちなみに反正というのは中国語では「正しいに反す」または「敵軍を降伏させる」という意味である事に留意してほしい。
間違っても、「正しいに反した悪の天皇」などと誤解しないように。
【記紀にある反正の記述の妙な点】
1.実はこの人、史上初の兄弟相続を行った天皇である。履中から皇位を譲りうけ、子供がいるのに死ぬまで後継者を決めなかったらしいが、実質上それは弟の允恭に譲ったという事である。
2.二代目綏靖天皇は兄を殺して天皇になった。実に千年ぶりに実の肉親を殺した天皇の出現である。
3.履中の王子が天皇になれなかった上、反正の王子もまた天皇になれなかった事実。
4.そもそも名前がすこぶる怪しい。履中天皇反乱されるの巻では、大坂には当時、多遅比野なる地名があった。
ぶっちゃけ、これが反正天皇と深い繋がりがあるのでは?
おかしくない? 怪しくない? 誰も注目しないマイナー天皇だが、怪しい!
【1.反正、史上初兄弟相続をする】
正確に言うと史上初めて父子相続が途切れたのは仲哀時代である。
しかし、仲哀時代の記述は全て証拠に乏しい。むしろ苦しい記述である。
まず九州を征伐しようとしたのは嘘である。その当時はまだ大和王権はそこまでの力がなかったと思われる。
朝鮮征伐も嘘である。この時代に渡海して他国を征伐することができたはずがない。
そもそも彼の父親のヤマトタケルが実在しない。
また、既に王子のいた仲哀天皇の妻の神功がまだ子供も産んでないのに皇后になっていることも明らかなウソである。
神功皇后の存在自体が非常に怪しいことがこれでわかったかな。
ぶっちゃけ、応神は初の九州出身天皇だから、我が天皇家は九州出身だ、という主張をしたのでは?
「神功皇后は仲哀ではなく神の子供を孕んだ」という伝説がある。
それで、既に大王には王子がいたが、その兄弟を皇后が殺して大和に帰り、応神が即位したのだ。
そして「応神の意向はワニ系の母親をもつウジノワキが後継だったが、あの雄々しい景行天皇系の母親をもつオオサザキが明らかにクーデターを起こして即位した」
これに対し、「神武天皇が日向から大和へ来て即位したが、長子は奈良で出来た息子に殺されて、九州出身の血は半ば消滅した」
が非常に似ている気がするのは気のせいだろうあ。
ちなみに神武天皇が日向から来たというのは絶対にウソだ。
南九州は残念ながら畿内以下の後進地域であり、弥生時代の大規模集落跡など一ミリも出てこない。
いや、日向に厳しすぎた。うん。次に進もうか。
明らかに仲哀天皇は非実在、もしくは記紀での事績が全然史実と違うことは間違いない。
それなのに仲哀の事ばかり注目され、その曾孫にあたる反正は誰も目を付けないのは妙な話だ。
仲哀のとき何かがあり、反正のときも何かがあったのでは?
【2.反正、数少ない身内殺しの天皇】
神話をよく見ると、反正は優秀ではあるが目的のためなら実力行使を全く辞さない性格だとわかる。
【3.反正、皇位を弟に譲る】
反正は履中の即位に功績があり、その功績は、履中の王子を差し置いて自分が天皇になるほどだ。
だがその反正のあと弟の允恭が継ぎ、反正の子はその後全く出てこない。怪し過ぎる。
2と3に説明つけるため、海外の史書を引用しよう。
梁書ではこのような記述がある。
「倭王の賛没後、弟の彌が朝貢に訪れた。
彌の没後は子の済が。済の後は子の興が来た」
倭の五王の記録は、九州の王朝だったのだという珍説はこの際考えず、大和の事だと考えよう。
倭王賛は応神説、仁徳説、履中説がある。
これを履中とすれば弟の彌というのは反正ということになる。
次の済が不明だ。他の書では彌らとの関係性が書かれておらず、梁書でのみ彌の子であるとされている。
でも彌が反正なら済は允恭ということになってしまう。
また、済の子・興は安康であると思われる。
倭の五王を記紀にある大和王権に比定する場合、こうなる。
ぶっちゃけ反正の跡を継いだのは反正の実子の允恭なのでは?
だったら権力を持っていたはずの反正が王子ではなく弟に譲ったというのも、実は弟が実子なら当たり前の事では。
一応、年齢を比べるといかにも親子っぽいわけだが。
【4.反正、なぜかタジヒの名を持つ】
反正がタジヒの名を持つ謎については大阪にある丹比神社が詳しい。
これによると、恐らくこういうストーリーが見える。
「神社では反正天皇らとともに天火明命を奉っており、これがこの地の豪族の祖神だという。
これは尾張氏、海部氏などの始祖である事からこのどっちかの氏族と同類の豪族がこの辺を支配していたと思われる。
そしてこの地はかなり昔からタジヒなどと呼ばれていたという。
反正はこのタジヒの地に宮を置いていたらしいので、恐らく地名は反正が生まれる以前から存在したと思われる。
ちなみに反正から数百年後、継体の息子である宣化天皇の子孫が多治比公を名乗り、この地を治め、たった13家しかいない、氏姓としては最高ランクの「真人」に選ばれる。
そして記紀が成立した時期、多治比氏は丁度全盛期を迎えていた。
その勢いはなかなかのもので、多治比嶋という人は左大臣。
左大臣は右大臣より上なので、当時右大臣の藤原不比等より上という事になる。
多治比氏は藤原一族の繁栄初期における、有力なアンチ藤原家であった。
嶋の弟、多治比三宅麻呂は和同開珎の鋳造責任者となったが、これはいわば日銀総裁と財務大臣を兼任するみたいなものである。
古墳時代から存在した丹比は反正天皇と密接に繋がるが、この二者と後に貴族として出てきた多治比の関係は不明である」
これが真実であろう。天皇家には他に苗字らしき名前がつく人はあまりいない。
他にいることはいるが。天皇には何故か息長の名前がつく人が数人いる。
筆者はこれと同じ名前を持つ息長氏に関して徹底的に調べたが、当然、何故かタジヒの名前がつく反正天皇とタジヒも調べたのだ。
でわかったことは、宣化天皇の母も尾張氏なので、やはり丹比は古代から尾張氏に関係のある氏族が支配したいたようだってことくらいか。
【結論】
今までの部分では推敲も少なく、構成も乱雑であったが今回は綺麗にまとめに入れるぞ!
同母兄を殺し、兄の履中とその王子を蔑ろにしたとはっきり書いてあるかなり軍事的な性格を持つ反正が、群臣の意向で皇位を彼の王子ではなく、潔白な弟に譲ったというのは理解出来る。
しかし弟は筆者の理論では実子である。それが真実ならばどうか?
筆者は天皇家の葛城に対する態度から答えが見えてくると推理した。
飛鳥から平安初期の貴族・多治比氏と古墳時代の丹比連なる豪族は、明らかに尾張系または物部系である。
反正天皇もこれに深い縁があったとおもわれ、葛城とはほとんど関わらない。
ぶっちゃけ葛城系の母親から生まれているのかどうか怪しい!
いや、もっとはっきり言うなら筆者はこの反正という天皇は丹比氏の娘と仁徳天皇とのあいだに生まれたのではと睨んでいる。
そしてこの丹比氏。筆者は色々考えた結果、海部氏の関係と見て間違いないと確信した!
反正をまつる丹比神社のすぐ近くに余部という名がある。
また、海部氏の神社は籠神社といい、この神社は日本海側の丹後にある。
丹比神社と同じく天火明命を奉っている神社で天火明命は海部氏の祖神だという。
どういうわけか丹比と丹後で丹の字が共通している。
(大阪をなにわ・なんばと呼ぶのに対し丹波もたにわ・たんばと呼ぶ事に関してはなにか理由がありそうである)
そしてこの海部氏と、反正天皇と応神天皇の妻を出したワニ氏、両方の系図に登場するのが難波根子建振熊だニャ。
このネコは難波の有力者。もちろん渡来人と関係がありそうニャ。
そしてあの神功皇后に協力して彼女と応神の政敵を倒す手伝いをし、功績をあげたというニャ。
だから、神功の実家・息長氏の本拠地や海部氏の籠神社がある北近畿と関係があった、もしくは神功に協力したあとに関係が出来たこと間違いないニャ。
恐らく丹比氏は海部氏で、後に尾張系の多治比氏が出てくるけど、それは海部とほぼ同族だった尾張じゃなきゃだめだったんだと思うニャ。
もう一つ二つタジヒと北近畿の繋がりを現す伝説がある。
ヤマトタケルの正妻に近江の布多遅比売がなったという事実である。
これが仲哀天皇や布忍入姫なる姫を産んだと伝わっている。
この布忍入姫なる人物が反正天皇の宮のすぐ近くの丹比地方の布忍という地名の由来となったと考えられるような伝承がある。
また、そこの布忍神社では速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊などを奉っている模様。
筆者は事代主はニギハヤヒ、武甕槌は大物主の子孫で、ニギハヤヒは大物主とイコールであり、従ってニギハヤヒと武甕槌の二者は非常に近い存在だと確信している。
そして武甕槌は同じ河内地方に残る伝承によれば息長の祖先であるとのこと。
またこれは蛇神であり、蝮と書いてタジヒと読むことがあるという事実が存在する。
さらに、息長田別王というのがヤマトタケルの息子であり母は不詳とのこと。
間違いなく、布多遅比売が母親だと言いたいところだが、不明なので迂闊なことは言わない。
ぶっちゃけ、大阪は北近畿人の植民地で渡来人もわんさかきてたのかな、と思う。
なお、息長という人物が記紀に初めて登場するのは布多遅比売と同じく近江の息長水依比売である。
この人の子が丹波道主王であり、崇神時代の四道将軍であるとか。
息長は天日槍の子孫を自称する葛城高額姫とも婚姻し仲を深めている。
丹波王国 (仮)と越王国が提携した、と考えられる?
更に河内の有力者であったと思われるオホタタネコもまた息長と深い繋がりがある。
オホタタネコについては次回にじっくりやろうと思う。
そして彼が崇神時代に三輪山の祭祀を乗っ取っている事はれっきとした事実。
99%、崇神こそが奈良の纏向が発展していると聞いて奪いに来た外来勢力に思えてならない。
だが、まあ、崇神の事は別の機会に書こうと思うのでこれ以上は止めておこう。
こうなってくると、丹比はやはり丹波や丹後と何か関連するとしか思えない。
反正の話に戻ろう。彼は難波のネコ武振熊の子孫であるワニ系の娘をめとり、恐らくは息子の允恭をもうけているのではないかニャ?
そして、跡を継いだ允恭天皇が、母の親族にあたる葛城系の人物を粛清しているのが気がかりだ。
さらに允恭の息子・雄略にいたっては葛城系の人物を根絶やしにせんという勢いであった。
ここから見えてくるのは、非葛城系の母をもつ(と筆者が勝手に睨んでいる)反正がやはり非葛城系の母をもつ允恭に跡を継がせ、葛城の力をどんどん削って行った政争の跡。
どうもそういう筋道しか見えてこないが、皆さんは、そんな妄想聞くに値しないと思うだろうか。
確かに日本書紀や古事記の記述を都合よく無視しているのは認める。
だがこの背後に見えてくるのは近江や越前から継体天皇を出した息長氏、それを招き入れようとした大伴氏、物部氏の存在ではないか。
ちなみに反正の妻は皇夫人という。(この呼称は史上唯一反正のみが使ったようだ。意図は不明)彼女はワニ氏である。
明らかに渡来系で、かつ応神の妻をだした事から息長とも関係の深いワニ系の女性で、その名もツノ姫またはツヌ姫。
何度も言っているとおり、絶対に、渡来人であるツヌガアラシトは古代日本史に深く関わっているはずだ。
なお、仁徳天皇の時代には皇后・イワノヒメの親戚である紀角という人が百済と外交をするなど、アヤしすぎる記述が見受けられる。
また、イワノヒメの父、葛城ソツヒコという人物も渡来人と深い関わりがあるとの事。
古代朝鮮語でツヌは高貴な言葉だったと筆者は考えているが、実際どうかはしらない。
紀角は仁徳天皇の義理の叔父である。この時まだ紀角の父の武内宿禰は存命のご様子。
紀氏は渡来系だが、やはり渡来系の中でも息長はこの時代文字通り息を潜めてる感じがする。
ぶっちゃけ、『仁徳天皇はクーデターを起こして天皇即位した』と筆者は確信している。
彼にワニや息長の影響力が全然感じられないためだ。
応神の時代にはあれだけ勢力を誇っていたのに、だ。
その代わり葛城氏は仁徳天皇の時代に盛り返したようだ。
反正はその息長と繋がりが深かった可能性がある。
そしてワニ系の女性を妻とし允恭系の血筋にバトンタッチすると、允恭系は葛城の粛清に出た。
これが反正天皇が、「正しいに反す」の名をもらった理由である!
【とかいう結論が間違っている?】
残念ながら、ワニが渡来系だったとしても、葛城自体が渡来人や息長と深い繋がりがある。
崇仏派の筆頭、蘇我氏なんかまさにそうだ。残念。
そもそも葛城系の妻と母をもつ履中に反正が協力したならやっぱり丹比氏も葛城と協調姿勢だったのかも。
葛城といえばその後裔にあたるのが蘇我氏である。
蘇我氏は説明不要だろう。強力な力をもち、天皇家の外戚として国政を握っており、崇仏派の親玉であった。
物部氏などは排仏派の筆頭だったがあえなく敗北してしまった。
しかし大化の改新の一環として蘇我氏は徐々に排除されていってしまう。
つまり記紀編纂当時、葛城はあまり触れたくないものであり、葛城に対して別の勢力が勝利を収めたばかりといってもいい時代だったのだ。
反正は軍功を立てて名声は嫌われ者の履中より高かったはず。
その葛城から権力を奪い、ワニから生まれた允恭が本格的に粛清を始めた様が目に浮かぶようだ。
ところが、非常に奇妙なのが、継体天皇と尾張系の母から生まれた宣化天皇が蘇我氏を国の要職に初めて取り立てたことだ。
何故だー。何故そうなる。宣化どうした?
宣化の娘は欽明天皇の妃となり、敏達天皇を産んでいる。
宣化の娘の血筋から中大兄皇子らが生まれる事になっている。
つまりこの流れはアンチ蘇我氏なのだ。
ところがこの継体天皇の息子欽明は奇妙なことに兄の宣化が取り立てた蘇我稲目の娘をめとり、蘇我氏系の天皇である推古天皇などをもうけている。
蘇我とアンチ蘇我。相反する二つの系統は祖先をこの欽明に求めており、もちろんその祖先は継体であり、継体の祖・応神であり、仁徳から武烈までの天皇ではない。
河内ワケ王朝が、明らかに仁徳と葛城の台頭を画期としていることがわかる。
ところが中大兄皇子の名前は葛城皇子。もう意味わからん。
筆者の葛城の話はこれで破綻を見た。意気込んだのに残念!
葛城・非葛城で分けるのは難しそうなので、崇仏、排仏で分ける事にしよう。
我が国最初の宗教戦争が仏教を巡る対立だ。
もうすでに反正天皇からめちゃくちゃ離れてしまってるがまあ聞いてほしい。
それで、崇仏派の蘇我馬子と蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ聖徳太子が勝利した。
宗教戦争と聞くと一般的な人は信条同士がぶつかり合う避けられない戦いのように思える。
だが、実際のところ世界史を見渡すと他のいかなる利害よりも宗教の違いが上回り、戦争を引き起こすということはまずない。
最初から利害関係の対立などがあるところに、宗教という大義名分を持ち出すだけである。
例えば異端狩りなども、異端を信じたり、また一般庶民から異端と疑われるものが出るということは権力者にとっては住民の自分たちへの非服従を意味するので、弾圧して当然だ。
だから渡来人と繋がりの深い蘇我氏はその貿易によって利益を出し、故に財力のある権力者足り得たのであり、他氏族と対立したのは単に財力や権力の差と専横があったためと筆者は考える。
そして、それに圧され気味だった物部・中臣などの氏族は蘇我氏が崇仏派なら、と排仏派となったのだ。
証拠はない。ただ、そうである蓋然性は高い。
その際に天皇家には実権はなく、聖徳太子も蘇我氏の傀儡であったと筆者は考えている。
ちなみに隋書に出てくる倭王・アマ・タリシヒコは聖徳太子である。
聖徳太子は間違いなく大王だったが日本書紀などではそれを認めない。
聖徳太子が完璧な蘇我氏系で蘇我寄りだったからだ。
聖徳太子は、なんと蘇我系の親から生まれたにも関わらずさらに蘇我系の女性を妻にし、生まれたのが息子の山背大兄王。
要するに聖徳太子は蘇我氏同然であり、この時代は蘇我王朝と言っても過言ではない。
というか聖徳太子は蘇我馬子の功績をパクッたものであり、実在すらしなかった説まであるくらいだ。
ところが。なんと蘇我蝦夷は血筋的にはほぼ純粋な蘇我氏である山背大兄王を排斥し、舒明天皇を立てる。
名を息長足日広額である。
数少ない「息長」の文字が入った天皇である。
そしてこの人の子供こそ天智天皇と天武天皇となる。
100%断言できるが、こんなことはウソである。
蘇我蝦夷はなにをトチ狂って蘇我系を排除して息長系を立てているのだ!?
どうやら蘇我氏以外に大伴などの豪族が山背大兄王排斥に関わっているとのこと。
筆者は舒明天皇が天皇として即位していたとは全く考えていない。
彼の妻に皇極、後に斉明天皇がいる。
この二人が天皇だったとは、息子である天智天皇や天武天皇が勝手に言い出した事ではないのか?
自分たちは天皇である両親から生まれた最高に高貴な者であるとのウソをついたのである。
そして天武天皇の時代に父の舒明天皇の名前の息長と全く同じ名前の「息長氏」が天皇家以外では最高に高貴な姓であると定められている事実。
大分遠回りしたが、最終的まとめとして以下の事が言える。
1.息長は最低でも崇神天皇より少し前くらいから存在した近江近辺の豪族である。
2.息長は丹波や河内などと深い繋がりがあった。息長系の応神天皇以降、河内王朝が存在しているのがその限りなく強い証拠である。
3.河内は応神以前から非常に多様な渡来人の集まる国際都市のような様相を呈しており、息長の拠点の一つであったと思われる。
4.応神の時ついに息長が政界のトップに踊り出るが、恐らくクーデターで即位した仁徳天皇の登場により限りなく力が弱まったと思われる。この時葛城の力が復活した。
5.葛城の天下は長く続かず、履中の妻は葛城系。履中は反正に排除されたと思われる。その弟とされる允恭以降粛清が続き、ついに允恭の息子雄略に滅ぼされてしまう。
なんで葛城と息長の熾烈な争いの中で反正と允恭が重要な役目を果たしてるのにもっと注目されないのだろうか。
7.ついに息長の天下が到来。息長系の継体は河内にて即位。筆者の理論では大和の鴨氏や三輪氏と息長は同族のため大和にはもはや継体の反対勢力は居なかったと思われる。
何故彼が奈良に入るまで20年かかったか。別に入る必要はなかったからである。
8.継体の息子である宣化が蘇我氏を取り立て、宣化の弟・欽明の頃から本格的な蘇我王朝が唐突に発生している。このことは全くの謎である。
さすがの筆者でもこれで間違いない、と謎の自信を持って断言できる道筋を提示できない。
9.蘇我氏専横にはさすがの息長でも抗しきれないほどであったが、恐らく蘇我蝦夷は山背大兄王を殺す前に殺されているとふんだ。
すなわち山背大兄王を排除したのは主に息長、蘇我氏本流以外の奈良の豪族ではないか?
これ、蝦夷のやったことにされたのではないか?
この時点で蘇我系統の政治的権力は落ちていたと思われる。
10.それ以降、難波宮にて政治を行った孝徳天皇は蘇我氏を普通に使い、仏法も貴んでいたようだ。
意味不明である。大化の改新は蘇我氏を取り除くための改革ではなかったのか。
筆者は、大化の改新の引き金になった黒幕はこの孝徳であると確信している。
逆に天智天皇はどうだ? クッソ情けない、正直良いところ全然ないではないか。
孝徳は事績を信じるならば、紛れもなく優秀である。一回見てみるといい。
孝徳は別にそんなに悪いことをしていない蘇我を完全排除する気はさらさらなかったのでは?
11.孝徳は中大兄皇子によって殺される。
そして史上初、一度譲位した天皇が再度皇位につく。
何故、中大兄皇子の母親皇極も孝徳も中大兄皇子の傀儡だったなら皇極が一旦退き、孝徳が天皇となり、これが退位してからまた母親が斉明天皇として即位する必要があった?
明らかに孝徳こそが本物の有能で黒幕であり、中大兄皇子はこれにうまく乗ったと思われる。
ちなみにこの説は筆者だけでなくちゃんとした学者も言っている。
12.ここからは言うまでもないだろう。歴史は一応、ほとんど記紀の通りだと筆者は考える。
天智系統は一旦政治的権力を失い、天武天皇が即位する。そして記紀が生まれる。
はい、というわけで、筆者はツヌガアラシトに目をつけ、ツノがつく人を血眼になって探して、ツノ姫をめとった反正がどうも怪しい事に気づき、これを書きはじめた。
その後、こうして反正から遠く離れた話になってしまったものの、ヤマト王権の全貌の一部を説明出来た。
ある程度満足。