表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古代日本史の謎を筆者は解いた!  作者: ニャンコ教三毛猫派信者
5/20

【神話を揺るがす恐るべき渡来人3】

前回までのあらすじ


初代天皇である神武は実母がタマヨリヒメだったよ。

正妻の母親はイクタマヨリヒメだったから、義母もタマヨリヒメなんだよ!


神武の正妻の父親はどうかというと、奈良で最大級に尊崇されている事代主だよ。

でも神武が奈良に攻めて来たとき事代主なんか一ミリも出てこないよ。

ナガスネヒコとニギハヤヒのみが奈良を代表する人物のような扱いだよ。


ナガスネヒコはニギハヤヒの裏切りによって死んじゃったよ!

ニギハヤヒは神武が奈良に入ってくる際の、最大の功労者と言えるよ!


もう一人神武の奈良入りを助けた人物がいるよ。

神武の正妻の母親の父親、つまり外祖父にあたるカモタケツヌミだよ。

カモタケツヌミは神話において神武を導いたヤタガラスと同一視されるよ。


神武に恩を売ったその二人の一族が、その後の奈良で発言力を持つようになるはずだよ!

ところが以前から奈良を支配していたはずの事代主の姿は神武東征以降も全然出ないよ!

そして事代主はカモタケツヌミ=ヤタガラスの娘タマヨリヒメを妻にしているよ!

タマヨリヒメとの子供は全員その後の奈良に多大な影響を与える大王級の人物だよ!


神武を助けたタケツヌミと事代主が姻戚だよ。

でもここにニギハヤヒの名前が出てこないよ。

なのに、神武神話に出てくるのはニギハヤヒ、ナガスネヒコ、ヤタガラスだよ。

これってつまり、事代主はニギハヤヒということになっちゃうんだよ!


ニギハヤヒと結婚した櫛玉姫という人がいるけど、イクタマヨリヒメも玉櫛姫の別名があるよ。

イクタマヨリヒメの子孫にあたるとされるのが崇神天皇の時代に現れたオホタタネコだよ。


オホタタネコはどういうわけか、いきなり現れて三輪山の祭祀を完全に乗っとるよ。

古代では政治はマツリゴトと言って宗教と政治が一体だったはずだよ。

どちらかを支配すれば国そのものを支配できるはずなんだよ。

というより、政治を支配する権力がなければ宗教に携われなかったはずだよ。

それを奈良の外の河内から来たオホタタネコが急にやることになるなんて不思議だよ!


もっと不思議なのは、こんなに怪しいオホタタネコのことに誰も注目しないことだよ。

「アラハバキ」とか「ツヌガアラシト」みたいな見るからにヤバそうな名前だったらよかったのにね。

オホタタネコなんて、ただ可愛いだけで、まさかそんなヤバい事に関わってるとは誰も思わなかったんだろうね!








オオタタネコの説明もかねて、ちょっと鴨王のwikiを引用しよう。



【考証】


《『書紀』の一書によると、綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、『書紀』本文では、孝霊天皇の皇后も該当することが次の孝元天皇の記述から分かる。

『古事記』では懿徳天皇までの3代の皇妃となっているが、綏靖天皇の后は「師木県主の(おや)河俣毘売(かわまたびめ)」、懿徳天皇の大后は「師木県主の(おや)賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)」となっている。

また同書では、孝霊天皇の皇妃は十市県主の女となっているが、前述の『書紀』との比較から、これは師木県主と同一のものであるとみなすこともできる。

また『書紀』には神武天皇から安寧天皇までの皇妃を事代主神やその子・天日方奇日方命の近親者から輩出した記録があり、磯城県主の居住した磯城郡は三輪氏の本拠でもあった。

上記のことから、磯城県主とは三輪氏の本宗と考えられ、その祖である弟磯城とは世代的にも系譜的にも事代主神の子・櫛御方命(天日方奇日方命、鴨王)にあたると見る説がある。

この説によれば磯城県主は大王家の最大外戚家となり大王を輩出したとも見られるが、『先代旧事本紀』の記事に見えるように、崇神天皇の前代に本宗が断絶し、物部氏が磯城県主の娘婿となって磯城県主を継承したと見られる。

また本宗が断絶したため崇神天皇の御代に磯城県主の分家から意富多々泥古(オホタタネコ)を探し出し、三輪神の祭祀を継続したものと見られる。

このため『姓氏録』や「天孫本紀」に見える磯城県主の出自伝承は、三輪氏族の磯城県主を継承した物部氏族の磯城県主のものと考えられる。》


やっぱりニギハヤヒの息子=鴨王=天日方奇日方命?

それなら、その子孫であるオオタタネコが出てくるのも納得がいく。



物部氏がニギハヤヒを祖先とし、またニギハヤヒの妻はナガスネヒコの妹だったことからナガスネヒコをも祖先とすることがわかった。

やはり鴨一族、三輪一族、物部一族は、同じ祖先をもつかなり近い部族なのだ。

彼らは全てニギハヤヒと非常に近しい。オオモノヌシとも非常に近しい。

そしてニギハヤヒは九州より東の地域では非常に篤く信仰されている。

つまりこれはどういうことなのか?


ニギハヤヒ及び鴨一族が神武東征以降、ヤマト王権の第一人者であり続けたのだ。

そして、初期天皇家は決して奈良全土を支配するほど大きくはなかった!

また彼らの周囲の豪族もやはり群雄割拠状態で、纏向遺跡のように大規模工事のようなことをしていたとは思われない。

故に大きな古墳がないのだ。

欠史八代の古墳がないから創作説がある、というが、そんなの当たり前。

その当時天皇家はそんなに大した家ではなかったのだ。


「古墳がないから創作ではなく、大王だったというのが創作だから古墳がないのだ!」


だが、天皇家は崇神天皇の周辺くらいから力を持ち、他家と一線を画す存在となったのだろう。

その証拠に大物主=コトシロヌシ=ニギハヤヒを奉る権利を崇神の時代から天皇家が獲得している。

もちろん崇神はそれらの神をすぐさま奉りはじめる。

この頃には他の家は天皇家に追いぬかされたのだろう。


それを隠すために天皇家は嘘を書いたが、記紀が全くの出鱈目というわけではないと思う。

第一そう考えた方が面白い。


もちろん、出鱈目のつもりはなくても編纂時期がかなり後になるので情報が混乱している可能性はある。


大神神社に日向神社とかいう摂社があるように、奈良には纏向以外にも日向という地があった。

もしニギハヤヒが大阪から来た出雲系の渡来人であり、神武がやってきたのは宮崎県ではなく奈良北部もしくは京都方面で、磯城や鴨と結婚や融和を繰り返しながら勢力を拡大したとしたら?

日向を九州の日向だと誰かが勘違いしていたら?

九州から旅立ったというヒコホホデミとイワレヒコは本当に同一人物か?

もしそうなら神武の神話が全部畿内だけで完結させてしまう事すら可能だ!




興奮しすぎた。それで、肝心のオオタタネコについての事を話そう。


オオタタネコは河内に住んでいた。古代の話だ。


当時天皇家の最大外戚だったとされる磯城氏、あと三輪氏やその他有力豪族の祖先である鴨王とは恐らく同母兄弟または子孫にあたる偉い神様だ。


でもそんな神が河内なんてところにいた。

奈良から外れれば即辺境の時代といっていいだろう。

そんな河内に大物主の子供がいて、しかもオオタタネコはカモワケイカヅチを産んだイクタマヨリヒメの子供。

すなわち彼はカモタケツヌミ=ヤタガラスの孫であるという。


どういう事だーッ!?


何故神武天皇とだいたい同世代の男が数百年後の崇神天皇の時代にいる!?


だから、神武天皇=崇神だという学者がいるのかもなぁ。


崇神=神武ならオオタタネコ=カモノオオミカミ=ニギハヤヒで、ヤマトの実権を握る勢力だった?


だが古事記では、オオタタネコはちゃんと大物主の神の子孫ではあるが、崇神とそう変わらない世代の人間だと書いている。

それにしたって怪しい。奈良の外の河内にオオタタネコがいた。

その彼が、三輪山の祭祀を一手に引き受ける事になったのだという。


既に言ってる通り、古代の政治はマツリゴトと言って政祭一体である。

マツリゴトの全てを任されたオオタタネコは、「神託だ」と言えば奈良の全てを何でも思い通りにできたであろう。

そうならないよう、奈良の人は奈良の宗教と政治を大事に守っていたはずなのである。


それが、急に得体の知れないオオタタネコとかいう、河内の田舎者に祭祀を奪われている。

確かに、後に河内は仁徳天皇などにより後に最盛期を迎えるが、まだ河内が力を付ける時期には早いのではないか?

はっきり言って意味不明な神話である。しかも崇神の時代という日本の歴史上恐らく最重要な時代の神話。


しかも聖人や王者が生まれる神話にはお決まりの処女が神の子を産む伝説があるのだから怪しさは満点。

そのオオタタネコが鴨氏の祖先という。意味不明!


えっ。じゃあ待って。『鴨一族の祖先がオオタタネコなら、それより昔のカモタケツヌミや鴨王はどうなる???』


オオタタネコの前にカモという人はいた。じゃあカモとはなにか?

カモとは「神」そのものの事を指す言葉ではないだろうか。

神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)=神武天皇も、カモヤマトと読んでいたのでは?


実は日本神話では「神」の漢字がつく神様は多くない。

アイヌ語でカムイが神なら、実際に古代日本では「カム」や「カモ」だった可能性がある


それが人為的または単なる時間の経過とともに忘れられていった。

カモ一族は単に神だったのではないか?

そしてオオタタネコ神話を信用するなら、この当時既に河内が非常に大きな力を持っていたはずだ。

どうやって、か? 渡来人や中国四国地方からの交易品を大和へ運ぶ経路にある街として大阪は発展していたはずだ。

それ以外考えられない。東京(江戸)が、広い平野部を利用し、大きな人口を抱えた大消費地として発展したのに対し、大阪は歴史上常に一貫して商業都市である。

大阪西部は狭い上に海水や地層の関係で、飲み水が出ないような土地柄で、要するにヴェネチアと同じ。

海を使って商業する以外に道がない、という地形なのだ。


河内ワケ王朝が巨大古墳を作るようになったのも、大阪で得られる交易の富を大王家が一手に握ったからかもしれない。

あの豊臣秀吉や家康も大阪を商業都市として捉え、その機能を十全に果たせるようデザインしたわけだから、やはり筆者の言う大阪は商業都市以外にはなれない説は説得力があるだろう。


崇神時代には纏向遺跡があり、大和が非常に繁栄していたという。

磯城氏の分家筋に過ぎなかったオオタタネコが大和の祭祀を一手に握った事件はその時代に起きている。

この当時から既に莫大な富をもたらしていた大阪を支配するオオタタネコは財力を背景に大和の実権を握るといったような事が起きたのか?

うん。考えすぎか。ニギ「ハヤ」ヒや、磯城県主・ハエが、ニギハヤヒが降臨しオオタタネコの根拠地だった「ナミハヤ」=大阪と関係あるだなんて、程度の低いダジャレの範疇かもしれない。


だが、どうもオオタタネコが渡来人と関係していると解釈できないこともない記述がある。


大物主は日本書紀にてこう語った。


「もしわが子大田田根子に、私を祀らせたら、たちどころに天下は平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」



????????



ご存知のとおり、この時代は三国の混乱時代であり、大陸の国が日本と戦争などしてるとは考えづらい。

もしくは晋朝の統一時代かも知れないが、いずれにしろ海外の国は日本などに関わってる場合ではなかっただろう。

というかこの時代の日本の技術水準で大陸と船を往来させて戦争など、信じられない。

海外というのが、そもそも何を意味するかは現代人の感覚で考えてはいけないのかも知れないが、何故海外が出てくる?


ぶっちゃけ、海外の国って邪馬台国など九州の国だったのでは?



ちなみにオオタタネコが祭祀を司るようになった大神神社には摂社がある。

その名も日向神社。さっき話してたやつだ。

とんでもない名前の神社の祭神はこうなっている。


御祭神


櫛御方命 飯肩巣見命 建甕槌命


クシミカタはオオクニヌシともニギハヤヒと同一神とも言われる。

要するに古事記の系譜で見られるオオタタネコの祖先達が並ぶ。


ちなみにすぐ近くの高宮神社では日向御子神とかいうとんでもない名前の神様を奉っている。

大神神社の更にもう一つの摂社にオオタタネコ神社があるが、何故かここにスクナヒコナが奉られている。どういうことだろう。

スクナヒコナの事は後で語ることになるだろう。




【補足】



Q.なぜ鴨王が日向の名を冠する女性を妻にしている?

普通に考えれば神武関係だろうが、その逆という可能性もあるんじゃないか?


A.はい。京都には向日神社があります。向日山に大歳神がきて、稲作を奨励したと伝説にあります。

まるでニニギとそっくりではありませんか。

この向日がなんかの間違いで九州の日向と混じり、実際に宮崎県の方にあったニニギの神話と混じった可能性があります。

実際のところ、神武天皇は、京都出身である可能性すら考えられる。

そして日向賀牟度美良姫も、日向の由来は京都の向日や奈良の日向である可能性は十分ある。

向日神社では火雷神(ホノイカヅチ)、その妻タマヨリヒメなどを奉っている。

鴨一族にとって重要なところだ。更にその理論を補強してくれる神社が奈良にある。


葛木御歳神社は、その名の通り向日神=御歳神の総本社とされ、「中鴨神社」の別名もあるクッソ怪しい神社。

どのぐらい怪しいのか、wikiを引用してみよう。



《全国にある御歳神社の総本社を称する。高鴨神社(上鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「中鴨社」と称される。


【祭神】


祭神は次の3柱。


主祭神

御歳神(みとしのかみ、三歳神/御年神)

相殿神

大年神おおとしのかみ - 御歳神の父神。

高照姫命たかてるひめのみこと

『延喜式』神名帳での祭神は1座。

同帳に「葛木御歳神社」と見えるように、御歳神(三歳神/御年神)を祀る神社とされる。

『古事記』によると御歳神は須佐之男命(スサノオ)の孫にあたり、大年神(スサノオの子)と香用比売(かよひめ)またはカグヨヒメとも読む(?)の間に生まれたという。

「御歳」は「御稔(みとし)」の意で穀物を司る神とされ、朝廷の祈年祭では最も重要な神として祀られていた。

御歳神に関して、『古語拾遺』では御歳神の祟りで苗が枯れたので白馬・白猪・白鶏を献じるようになったという説話が見えるほか、『延喜式』祈年祭条では御歳神にやはり白馬・白猪・白鶏各1つを加える旨が定められている。


一方他文献では、『先代旧事本紀』に「高照光姫大神命 坐倭国葛上郡御歳神社」の記載があるほか、『大神分身類社鈔』にも「長柄比売神社一座、大和国葛上郡、曰御歳神社、高照光姫命」と見え、高照光姫命を祭神とする説が存在する。

この高照光姫命祭神説に関して、本居宣長の『古事記伝』では、神名帳において鴨都波八重事代主命神社の次に葛木御歳神社が掲載されていたために、事代主の妹神である高照光姫命をおしあてたに過ぎないと推測する


そのほか、上述の『古語拾遺』の説話には殺牛祭祀や薬用植物の知識が見えることから、古代豪族の葛城氏の配下にあった渡来系集団が御歳神の祭祀形成に影響を与えたとする説がある。

この説において、同様の殺牛祭祀の伝承が記紀の天日槍(あめのひほこ)都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の渡来説話にも見え、それらの説話で比売許曽神社(大阪府大阪市)の起源譚が語られることから、比売許曽神社祭神の下照比売神(したてるひめ)が春先の殺牛農耕祭祀で「御歳神」として祀られる太陽女神であったとする。

加えて下照比売神は葛城地方の神社にも見えることから、葛木御歳神社の祭神も元々は下照比売神であったと指摘される。》


やっぱりニギハヤヒとオオタタネコ、渡来系じゃないか!


タカテルヒメは出雲系。アマテラスの別名とされるオオヒルメムチも出雲っぽい。

ていうか神武、百歩譲って大和の人じゃないにしても、九州人ではないんじゃないの?

オオナムチとオオヒルメムチ以外に、ムチの名を持つ神は存在しないじゃないか。

アマテラスってタカテルヒメとニギハヤヒ、それにあとで神功皇后をミックスしたんじゃ?


タカテルヒメは「ヤタ」のカガミに関連して来る鴨氏と関わりが深いとは既に言った通りだ。

するとやっぱり、神武天皇が九州出身っていうか実在したかどうかというのは怪しくないだろうか?


こうは考えられないだろうか。


向日神=御歳神は古代、大物主と同一。大物主はニギハヤヒと同一だったと思われる要素が非常に沢山見られる。

これらは要するに太陽神であり、古代奈良に太陽信仰が存在した。

当たり前だ。農耕民族なら太陽を崇拝して当たり前である。

ところで、崇神時代にツヌガアラシトが福井へ渡来し、奈良に来たという。

その前に、アカルヒメのヒメゴソ神社がある大阪に行かなかっただろうか?

だとすれば大阪を経由した彼が奈良へ入ってきたのは大阪側からという事にならないか?

これが斑鳩に船でやって来たニギハヤヒという神話の正体では。

そして、彼がやって来たのは、ただ単に挨拶しにきただけだろうか?

崇神は何かもらったはずだ。それこそが朝鮮から来たヤタノカガミではなかったか?

当然ツヌガアラシトは短い滞在ではなかったとちゃんと記紀に記述がある。

垂仁のときやっと帰ったのだそうだ。垂仁のときに伊勢神宮が出来たそうだが、ツヌガアラシトが持ち込んだ鏡が三種の神器と何か関係があるでは?

ちなみに、ツヌガアラシトが鏡を持ち込んだというのはちゃんと記紀にも書いてある。

別に筆者は妄想はするがねつ造はしない。wikiを引用しよう。



垂仁天皇3年条

『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、


羽太のはふとのたま 1箇

足高のあしたかのたま 1箇

鵜鹿鹿の赤石のうかかのあかしのたま 1箇

出石の小刀いづしのかたな 1口

出石のいづしのほこ 1枝

日鏡ひのかがみ 1面

熊の神籬くまのひもろき 1具

を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。


また、天日槍は但馬国の太耳の娘の麻太烏(またお)をめとり、彼女との子孫がのちの神功皇后であるようだ。


麻太烏。あなたはこれを、またおと読みますか?

それともこの人はマタガラスだと思いますか?


いや、別に、「神武天皇など存在せず本当は崇神天皇がツヌガアラシトの力を借りてヤマトを制圧したのではないか」とか、そこまでは言ってないよ?


それに「河内から来たオオタタネコは大阪の実力者で、かねてより渡来人と海を通じて繋がりがあった大阪勢力も崇神達に加勢し、オオタタネコは三輪山の神事を乗っとった」なんて言うつもりも断じてない!


ましてや、「紀伊勢力は崇神の故郷であり、神武がナガスネヒコに負けて紀伊に逃げ込んだのは、実際に崇神が紀伊を根拠としていたことを暗示しているからで、神話では紀伊にいたタカクラジというニギハヤヒの息子が神武を助けたが、鴨や三輪系統の祖であるオオタタネコの仲間であるはずで、そもそも崇神もオオタタネコの手下であり、彼らが渡来人に協力した」なんて全然言ってませんからね。


もちろん、「崇神から始まった天照大御神信仰が紀伊由来のもので、その時既に生まれていた息子の11代目垂仁天皇=イクメイリヒコはともかくとして、12代目景行天皇からタラシの名前が始まり、隋書でも倭王アマタリシヒコの存在が確認され、タラシの名は崇神朝のアマテラス信仰から始まった証拠に、崇神の娘で紀伊系の母を持つトヨスキイリビメがアマテラスを初めて奉りだした」だなんてそんなまさか。


いやいや、「ミマキイリヒコの妻のミマキ姫は先代大王の娘で外来の崇神が箔付けのためにめとったことを隠しているため、まるでミマキ姫が崇神の実の妹であるかのような記述があるのであり、これは事代主の妹にタカテルヒメがおり、このタカテルヒメは本来ナガスネヒコの妹でニギハヤヒがめとったものであり、ナガスネヒコこそ真の大王でニギハヤヒは外来だから箔付けのために彼女をめとったのであり、崇神にとってのミマツ姫と事代主のタカテル姫は全く同じ」なんて思ってませんから。


「オオタタネコの父タケミカヅチの父がミカハヤヒ。

タケミカヅチが倒したタケミナカタはナガスネヒコと同一視。

実は神話で争った二人は同族であり、タケミナカタがナガスネヒコということになると、タケミカヅチはニギハヤヒである可能性が浮上してくる。

カモワケイカヅチとも絶対に関係がある。

どちらもツチの名前がつく。ツチはノヅチ、ツチノコ、ミヅチなどのように蛇の古語である。

ところで、大物主は蛇神であり、アジスキタカヒコネも蛇神である説があり、筆者はどちらもニギハヤヒ及びツヌガアラシトと同一視する」


だからといって鴨氏が蛇信仰していることと関係する証拠はないですし、


「カモタケツヌミの別名が三嶋溝杭耳であり、三嶋は大阪の三嶋であり、大阪にはアカルヒメが渡来し、彼女はアカルヒメ神社の伝承によるとタマヨリヒメであり、タマヨリヒメは三嶋溝杭耳の娘であるし、大阪からは、船に乗って大和へニギハヤヒが渡来したとされる」


からといって、


「ニギハヤヒの天孫降臨神話はツヌガアラシトが大和へ来訪した事を現した比較的新しい伝説で、アカルヒメはタマヨリヒメで、その息子がオオタタネコで、実質上崇神より権力持ってたんじゃないか」とか全然思っていません!


「最悪の場合、ミマキイリヒコ=崇神天皇も任那(ミマナ)からきた渡来人である」なんて思ってません!



うーん。別に誘導したつもりはないんだけど、どう見ても邪馬台国近畿説です。



えー、ここまで読んできてだいぶ疲れたと思う。

最後にwikiにも載っている大阪の楯原神社の由緒を引用しようと思う。




《崇神天皇6年、この地の国造・大々杼名黒(おおどのなくろ) (?)に対して「国造館に奉斎する国平くにむけ大神と建甕槌命を同床共殿に祭るのは恐れ多いため、別殿を造営して奉斎せよ」との詔が下り、建甕槌命を「楯之御前神社」、国平の鉾を「鉾之御前神社」と称して鎮斎し、同7年9月2日に鎮座祭を行い、同9年に神領地を南は多治井、北は味原、西は浪速までと定めた。「国平の鉾」とは、建甕槌命が国譲りに際して大国主命のもとに遣わされたとき、大国主命が「天の弘鉾」を「国平の鉾」と称し、「この鉾を持って天下を巡行すれば、自ずから平定されるだろう」と予言して授けたものである。建甕槌命は大国主命の霊をこの鉾に依り憑かせて天孫降臨に供奉し、天下を平定した末にこの地に留まり、亡くなる間際に孫の大々杼命(おおどのみこと)に「私の十握剣を私の霊代とし、国平の鉾を大国主命の霊代として鎮斎せよ」と命じた。その子孫大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣により十握剣を携えて熊野に赴き、これを奉ったために大鵄の導きを得て大和平定に貢献した。その功により大々杼彦仁は大々杼国造とされ、「剣臣」の号を賜ったとするが、上記の所伝は、記紀により造作したものと思われる。


神功皇后の時代、三韓征伐にあたって軍事に関する託宣が降り、還幸後の神功皇后11年、品陀和気命 (後の応神天皇)を伴って当社を親拝した。このとき、大々杼氏の息長田別王と杙俣長日子が奉仕し、皇后の詔により楯之御前神社は「楯原神宮」、大々杼氏は「息長氏」に改名した。同62年にも皇太子とともに親拝し、このとき国平の鉾を大和に返還し、代わりに松を植えて国平の鉾の霊を依り憑かせ「御鉾松」と名付けた。》



この神社が作られた同時期、オオタタネコが河内から奈良へ呼び寄せられている。

オオタタネコとは、オオド氏と響きも似るし、近い存在だったのかっ!?

オオドとは、言うまでもなく近江などに近しいところに関係があり、古代史トップ10には入る要注意人物である、継体天皇の名前もオオドである。


神社の伝承を信じるなら、オオドはヤタガラスおよび鴨一族とも深い繋がりがあるようだ。


古事記でのオオタタネコいわく建甕槌命は彼の父親であるという。

そして建甕槌命は亡くなる間際に孫の大々杼命(おおどのみこと)に後事を託したという。

もう一回確認するよ。建甕槌命の孫が、オオドの祖先ということになる。

あれ。建甕槌命の息子の名前がないな?


ところで古事記によると建甕槌命の息子がオホタタネコだという。

両者の伝承を重ね合わせれば自動的にオホタタネコがオオドと息長の始祖と言うことになる。


オホタタネコは大々杼+某+タタ+ネコということか……?



そして建甕槌命は武神であり天の矛=ツヌガアラシトの象徴を持っているという。

そして神武東征の際に軍事的に活躍したという風な表記のある大々杼彦仁は、大々杼国造とされ、「剣臣」となる。

つまりオオドは強力な武力を持った=鉄を扱う渡来系の氏族?


あれあれあれ。


筆者の妄想と大阪側に残る伝説が完璧に合致してはいないだろうか?



オオタタネコ、やっぱ怪し過ぎる。








次回は日本史上最要注意人物の一人、神功皇后の話をするよ!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ