【古代史の基礎・邪馬台国】
【古代史の基礎・邪馬台国!】
筆者は関西出身なので邪馬台国が畿内を征服した、などとは全く考えたくはない。
しかし、そういった私情や関西へのナショナリズムを捨てて古代史を見渡し、客観的にどこが邪馬台国であり、どのような歴史を辿ったのか、ということの推理をここで書いてみたいと思う。
まず、いわゆる魏志の倭人伝を普通に読めば邪馬台国は九州である。
そのことはいまさら説明するまでもないが一応説明を。
まず、邪馬台国の卑弥呼や台与が2世紀終盤から3世紀前半にあったことは疑えない。
中国の資料まで疑ってはもう何も考えられない。
その3世紀前半もしくは後半ごろ、箸墓古墳が奈良県で建造され、すぐ近くの纏向が発展しているのは科学的事実である。
箸墓に埋葬されているとされるヤマトトトヒモモソヒメ(早口言葉か)
彼女の後継者の女王はトヨスキイリビメという女性。
トヨスキイリビメは記紀に記されている事を信じれば歴史上初めてアマテラスに仕えた巫女だ。
日の神に仕える巫女、日巫女である。
しかし先代にあたるヤマトトトヒモモソヒメは日巫女ではなそうだという説もある。
モモソヒメは大物主という山の神、蛇神を奉っているからだという。
ところが三輪の大神神社には日向神社などの摂社があり、太陽信仰は普通にあった様子。
ということはやっぱり、モモソヒメは卑弥呼?
ちなみにトヨスキイリビメが巫女となったのは崇神天皇6年。
崇神天皇は当時56歳という高齢で、しかも120歳まで生きたという。
古代日本の暦は1年に2歳ずつ歳を取るという仮説があるので単純に数字を半分にすると、崇神天皇6年時点で彼は28歳?
崇神の娘トヨが13歳(半分だと6、7歳か?)だとすると生まれた当時の崇神の年齢は22歳。
トヨが実際13歳だった場合、生まれた当時父の年齢は15歳くらいという事になる。
どっちもありえない数字では全然ない。むしろ父が15歳くらいで生まれてた方が古代っぽくて信憑性ある?
ところが。近畿説には無理が生じる。
モモソヒメがあるとき突然死した事件もあるのだが、その時期は不明である。
モモソヒメは神託によって部下の謀反を予言したとも言われる。
魏志倭人伝にある、《女王が死ぬと男王が立ったが、民これに服さず国が乱れ、13歳のトヨが女王となり、国は安定する》
という記述と矛盾する。また、この時代の纏向すなわち奈良の大和は強大だった。
女王は南の「狗奴国」に対する戦争の援軍を中華王朝に求めたようだが、クナ国がクマ=熊野=紀伊だったとしても、可住地が非常に狭い紀伊ごときが奈良を脅かすほどの存在であるとはとても考えられない。
現代ですら人口は力だ。人口が大きくなる余地がそもそもない和歌山は言ったら悪いが、奈良の敵にはなり得ない。
そもそもトヨスキイリビメの母親、つまり崇神天皇の妃は、紀伊出身である。
よって、邪馬台国近畿説はかなり苦しい。
邪馬台国九州説はそもそも当時の九州の様子を記す文献が存在しないため、近畿説のように記紀との矛盾を気にする必要がないためある意味有利だ。
だが、ひとつ問題が。邪馬台国が、どの形をとって日本に存在したかが重要な問題だ。
【邪馬台国九州説を3種類紹介】
《パターンA》
東遷説。
西暦3世紀に九州にあった邪馬台国はのちに西日本全土を征服し、奈良に王朝を築いた。
これが「纏向に入ってきた王」すなわちミマキイリヒコ=崇神天皇。
神武天皇の遠征は紀元前7世紀。九州はそんな昔ではなく西暦3世紀ごろに大和を制圧した。
これが邪馬台国東遷説。九州では鉄=武力が多く発掘され、奈良ではほとんど見つからない。
畿内と九州の武力の差は明らかであり、記紀ですら天皇家は九州ルーツとしている。
やはり、大和王権は九州にあった邪馬台国ルーツでは?
ただ疑問なのは、飛鳥時代の記録を残した隋書によると、「倭国の首都は魏志にあるヤマタイと同じところである」という記述がある。
法隆寺や飛鳥寺などが近畿に建立されていたこの時代に九州が首都というのはいくらなんでも有り得ないが。
今でも九州のヤマタイは心の首都だ、ということだろうか?
《パターンB》
九州王朝説。
九州には邪馬台国があった。それは、長い間独立を保っていた。
記紀でも初期天皇は一ミリも九州と関わらない。纏向遺跡なども九州とは何の関係もない独自の王朝。
しかし記紀にあるとおり河内のワケ王朝が出来た5世紀はじめあたりから半島への玄関口九州はヤマト王権とは同盟、または従属関係になっていると思われる。
この辺で邪馬台国は滅びた。恐らく継体朝に起きた九州の磐井の乱は奈良のヤマト王権から派遣された地方総督が税を横領するなどして勢力を拡大し、反乱を起こしたのでは?
隋書にある「魏志のヤマタイは飛鳥時代の日本のヤマトと同一である」とする記述は、日本側のウソを隋が信じたため。
本当は別々。また、崇神天皇が初代大王であり、その前の欠史八代は崇神の祖先である普通の奈良の豪族。
天皇家が九州を祖とした記述はあるが、同時に記紀は「神武の兄弟は奈良土着の豪族ナガスネヒコらとの戦いで全員命を落としているため、その子孫は存在しない」と暗に言っている。
すなわち神武は奈良に単独で入って来たも同然ということだ。
そして二代目天皇は奈良生まれ奈良育ちの王子がなっており、神武が九州の姫との間に授かったタギシミミという九州出身の長男は跡目争いの末殺されている。
記紀は「九州出身の純血種はもはや天皇家にもどこにも残っていない」と書いているも同然だということがわかったはずだ。
もし残っていたらその誰かが異を唱えるはずだ。
というかタギシミミが奈良の大王争いをするのも妙だ。九州で王になればよかったんじゃ?
そしてその後の天皇家に、九州はしばらく全く関わってこない。
天皇家が九州出身ならもっと九州出身の部下や家臣が奈良にもやってきていていいハズだが、そんな話は全く出てこない。
九州から神武がきたというのは何かの間違いか、あるいは何らかの事情でついたウソである可能性が極めて高いと思う。
もちろんそれは、魏やそれよりも更に前の、西暦57年ごろに後漢光武帝から金印を授かった倭奴国の流れを汲む非常に古い国こそ自分たちだ、と中華王朝らにアピールするためのウソだろう。
筆者はパターンB支持者である。
夢のない説だが、逆に一番現実的かなと思う。文献、考古学などとも矛盾が少ない。
《パターンC》
邪馬台国は分裂し、九州の邪馬台国と奈良のヤマト国に分かれ、九州が飲み込まれた説。
邪馬台国というのは、紀元3世紀の時点で既に九州を首都とし、西日本の大半を手中に収めた巨大帝国だった。
神武天皇の紀元前7世紀の遠征は、あるいは九州から稲作を伝えた弥生時代初期の非常に古い伝承の事かもしれない。
神武は怪し過ぎるので置いとくとして、超古代には実際に九州が西日本を制覇した、とする。
ところが奈良で纏向が発展するようになり、近畿は武力ではなく経済的に九州を上回るようになった。
農業生産力も近畿の方が高いし、九州の土地は痩せて荒れていると記紀にもある。
実は征服された側がした側を取り込んだり上回ったりするのは結構世界史にも良くあることで、古代にはイタリアのローマを領土として持たないのにローマを名乗る東ローマ帝国が現れた。
こっちは征服された側なのだが、経済力が高かったので、首都ローマを持ってた西ローマ帝国より千年くらい長持ちした。
ということは奈良に、九州の邪馬台を受け継ぐヤマトがあってもいいだろう。
そういうわけで政治・宗教的にも重心が奈良へと移り、近畿は九州を忘れた。
経済を奈良が支配するようになったことと、出雲地方や越の国からの渡来を奈良が管理しはじめたと思われる記述がある。
これが、福井県敦賀の語源になった新羅の王子ツヌガアラシトである。
この人はちゃんと記紀にその伝説が残る渡来人である。
他にも朝鮮半島から来たアカルヒメが大阪のヒメゴソ神社で奉られるなど、割と昔から渡来人が近畿に、九州を経由せず直接来ているっぽい。
こうして九州が他地域に持っていた、鉄器などのアドバンテージも消えうせた。
近畿が爆発的に成長したことで九州は相対的には力を弱め、近畿が九州を逆支配するようになる。
その後、飛鳥時代に遣隋使が派遣されるも、その時代はまだ、飛鳥の政権は自分たちを九州が首都だった邪馬台国と連続するものだと認識していた(?)
そのため、隋書の倭国伝では「遣隋使が倭国から来た。首都は魏志におけるヤマタイである」という記述が残っている。
あるいは、当時の政権は魏志のことは知っていたが、まさかあれが九州の事を言っているとは思ってなかったかもしれない。
これらにはそれぞれ弱点があるが、それぞれの長所を組み合わせると弱点を補い合える。
《パターンA:邪馬台国は3世紀に西日本を制覇した説の弱点》
1.結局九州滅ぼされてる上、九州は土蜘蛛、熊襲、隼人などと差別までされている。
2.近畿と九州に争った形跡がない。というか交易すらそんなにしてないっぽい。
3.東遷説では崇神以前の天皇家を全く無視している。
4.何故そこまで九州と奈良の力関係が傾いたのか不明。
《パターンB:大和王朝と九州王朝はしばらく並立していた説の弱点》
1.天皇家が九州ルーツを騙る理由が弱い。それ以外はこれといって弱点なさそう。
《パターンC:邪馬台国分裂説(?)の弱点》
1.あの時代にそんな巨大帝国が運営できるか問題。文明度が非常に高い外国ならともかく文字や暦、馬すらない日本で出来るか……?
2.何故邪馬台国の次の覇者が先進地域の出雲などではなく、奈良盆地だったのだろう?
3.九州と近畿の往来は乏しく、両者が纏向遺跡の全盛期(崇神・垂仁朝?)からみてそう遠くない過去に同一だったとするのは難しそう。
というわけで3つの長所を組み合わせ、出来るだけ矛盾の少ないように頑張って作った新説がこちら!
《紀元180年ごろの倭国大乱。魏志にある通り倭国は女王を共立した。
これは武力による統一ではないはずだ。
この時代にそんな統治や征服が出来ているとは思えないし、その痕跡もない。
当時無数にあった小国が同盟を作り、その盟主に当時第一の先進国であり、魏の後ろ盾の権威を得ていた北九州の女王が選ばれたと思われる。
その一員に奈良のクニも含まれていた。
それで卑弥呼の存命中すでに奈良は纏向の街を発展させ、もはや全国で第一の国となった。
どうやら女王は狗奴国との戦争に苦戦しているようなので、すでに邪馬台国の権威はこの時点で失われていたか。
同盟国は多数あってもあまり助ける気はなかったようだ。
(もしかして垂仁朝に作られたとされる伊勢神宮というのは邪馬台国の卑弥呼=日巫女を奈良のヤマトが連れてきた……?
天照大御神を奉ることになった崇神の娘トヨスキイリビメとはイリ、すなわち入ってきたを意味する。
邪馬台国から入ってきたトヨ、という意味か……?)
ともかく、奈良の大和は全国を支配するようになったがその際に行ったのは武力制圧というよりは経済支配と宗教支配だろう。
我々はあの邪馬台国の日向の血を継ぐのだ、という嘘で権威をつけたのでは?》
どうだろうか。ほぼ完璧に近い推論ではなかろうか。
ちなみに、魏志倭人伝ではこんな記述がある。
《収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之》
《訳:人々は租税を納め邸閣あり。国々に市があり交易をする。これを大倭が監督する》
大倭というのが、一体何を意味しているのかは様々な学者が議論をしてきた。
説A.大倭というのは日本を統治する者の称号であり、邪馬台国のこと。これを奈良は後世、パクッて使うことにした。それが大和。
説B:大倭とは纏向のあった奈良のヤマト王権の事であり、当時すでに九州にまで多大な影響を及ぼしていた。
説C:大倭は纏向遺跡の事であるが、これは当時邪馬台国の影響力のうちだった。
説D:大倭は大使または大委の誤字。大使・大委は官僚?
説E:誤字ではないが、大倭とは国家の官僚だとする説。
皆さんはどの説を推しますか?
筆者は説Aを推すが、もし説Bが真実なら拍子抜けしてしまう。
魏志倭人伝に、全ての真実が最初から書いてあるということになってしまうから。
少なくとも「大倭」などという重要なパワーワードをたかが官僚に使うか?
説D、Eは個人的に好かない。
この時代、奈良の纏向の王は「崇神天皇=ミマキイリヒコ」だったはずである。
ミは尊称でマキは纏向。イリは入ってくる。ヒコは大王のこと。
「纏向に入ってきた大王」という事で容易に理解できるだろう。
ちなみにトヨスキイリビメ、ミマキイリヒコなどイリがつく人は非常に少ない。
他にイリがつくのは11代目天皇(実質2代目?)垂仁天皇ぐらいである。
このイリがつく三人がほぼ同時に奈良へ入ってきて、それゆえほぼ同じ時代を生きた三人だけにイリがつくというシナリオが容易に描き出せる。
ミマキイリヒコと、彼が九州にいた時点で既に生まれていた息子のイクメイリヒコにイリがついたのは、この説を取るならば当然中の当然という事になる。
崇神と垂仁にイリがつき、実際に九州から奈良に入ってきたという伝説がある神武天皇にイリの名前がつかないのも、実際に神武なんて奴はいなかったからでは?
九州に邪馬台国があって近畿もその範囲内だったが後に独立して権力が近畿に移ったという筆者の説では、崇神と息子の垂仁が九州の邪馬台国から入ってきたのだという解釈の余地もあるし、奈良盆地内の勢力やそれに近い近畿・中国地方という手もある。
いずれにせよ奈良のヤマトがどこかの段階で大倭を名乗り出したのは間違いない。
それこそ邪馬台国が倭国大乱以来、持っていた日本を統べる大倭の称号だったんではないか。
それが筆者の結論。みんなはどんな説があるかな?
次回より【恐るべき渡来人】