表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古代日本史の謎を筆者は解いた!  作者: ニャンコ教三毛猫派信者
19/20

【補足② そして筆者はドツボにはまった】




【考えていたらドツボにハマった】


まだまだ中部・東海地方の話は続く。「アジスキタカヒコネ」なる神が居て、この人は別名「カモノオオミカミ」なる仰々しい名前がついている。


天孫降臨の際に登場した。


まず高天原の上層部では、アメノワカヒコに出雲の国を譲る交渉を任せ、出雲の主の大国主に使わした。

一方、大国主は娘のシタテルヒメをアメノワカヒコの妻にし、籠絡していた。

高天原のタカミムスビの神が、部下に様子を見に行かせると、アメノワカヒコは公然と高天原に反逆した。


タカミムスビは一切躊躇なくアメノワカヒコを殺し、夫を失ったシタテルヒメは悲しむ。

ところが、そこへアメノワカヒコそっくりのアジスキタカヒコネが現れて一同は仰天。


いやいや親族、シタテルヒメの兄であるタカヒコネの存在を忘れるなよ。


しかし、死人に間違われて怒ったタカヒコネは大量(オオハカリ)の剣で、葬式をしていた喪屋を打ち壊し、その場を去ってしまう。

これは美濃の国にて起こった出来ごとであるという。

美濃加茂市という市もあるから、美濃とカモ氏は関係ありそう。


しかしなんかまるで出雲の国は美濃にまで勢力を伸ばしていたと取れるような記述である。

しかも出雲国譲りの最初の舞台は美濃。おかしくないか?

また、タカヒコネの用いた大量(オオハカリ)の剣というのは葉刈(はか)り、つまり草薙剣の一種?

別名として『古事記』では神度剣(かむどのつるぎ)とも表記されている。


タカヒコネを「カモノオオミカミ」と崇める鴨一族の中でも取り分け重要な鴨王は「日向賀牟度美良姫(ひむかのかむどみらひめ)」なる人物をめとっている。

また、同じく鴨氏と縁の深いオオタタネコは「鴨部美良姫(かもべのみらひめ)」なる人物が母親で、ミラヒメという名前が通じる。

しかも、オオタタネコは「出雲神門臣美気姫」なる女性をめとっている。


「いずものかんどのおみのみけひめ」、 もしくは「かむとのおみのみけひめ」と読むのであろう。

日向と出雲、どちらにも神門の地名は今も残っているのは事実なので、よかったら検索してみてほしい。

オオタタネコの母と妻、鴨王の妻は名前が似通っており、そして「カモノオオミカミ」は「カムドのツルギ」を振るう……何か関連があるのであろうか。


また、この妹のシタテルヒメというのが、そもそもからして怪しい。

この女性は大阪の比売許曽(ヒメコソ)神社なる神社に奉られている。


ところが、記紀によれば朝鮮から日本へ来た、日本人とのハーフである「アカルヒメ」がここにやってきて、奉られたのだが、今はシタテルヒメを祭っている。

何だろう。神社が間違えたのだろうか。そんなわけはあるまい。


アメノワカヒコとそっくりなタカヒコネがもしワカヒコと同一人物であれば、タカヒコネの妻はシタテルヒメ=アカルヒメになる。

ではアカルヒメの夫は誰かというと、「ツヌガアラシト」である。

「アカルヒメ」は夫ツヌガアラシトの暴力に耐えかねて父の国日本へ来たのだそうだ。

そして浪速の国のヒメコソ神社に奉られるようになり、その後ツヌガアラシトはヤマトへ来たと記録にある。


なにか、シタテルヒメを脅かす粗暴なタカヒコネに通じるものをツヌガアラシトとアカルヒメには感じてならない。


崇神・垂仁記にこの渡来人夫婦は記されており、ツヌガアラシトは福井県の敦賀へ来たため、ツヌガアラシトの名前から敦賀と名付けられたという。

鴨一族、オオタタネコの祖先は渡来人であったのか……?


紀伊の名草宮という神宮では日矛鏡(ひほこのかがみ)を祭っており、ツヌガアラシトは日本名が天日槍(あめのひぼこ)であるというから、鏡に同じ名前がついているではないか。

なぜだろう。これはニギハヤヒの側近神・天道根命(あめのみちねのみこと)が持ち込んだもので、天照大御神の象徴、三種の神器ヤタノカガミを作ったのと同じイシコリドメという人物に作られた。

ニギハヤヒの側近神が持ち込んだなら、普通に考えてニギハヤヒもしくは天照大御神に捧げる鏡。

その鏡に渡来人と同じ名がつく意味は、考えたくもない。

ちなみにオオタタネコの祖母は、その名も紀伊の名草姫である。この鏡がある神宮は、紀伊の名草宮である。


筆者が盛んにこいつは怪しいと言いつづけている大阪出身のオオタタネコが入ってくる時にヤマトで政権交代があったのだろう。

その証拠というわけではないが、葛城国を神武天皇から頂いた剣根命の子孫であるオオタタネコ、同じく倭国を頂いた椎根津彦の子孫の市磯長尾市は、崇神時代にはヤマトの外にいたとみられる記述がある。


何故であろうか。鴨氏は葛城が発祥の地であり、神武天皇が出て来た際には鴨氏の鴨建角身(かもたけつぬみ)がヤタガラスとして神武を助けた。

なお、この人もツヌという名前がついている。ツヌガアラシトと関係あるかは不明。


一説によるとカモタケツヌミは「スクナヒコナ」と同一という説がある。

カモタケツヌミの子孫であるオオタタネコが初代神官を勤めた大神神社にはしっかりスクナヒコナ神社がある。

スクナヒコナはさきほどから盛んに話題にしている大国主とマブのダチである。


海の向こうから「アメノカガミノフネ」で渡来してきた神とハッキリと記紀にも明記されている。


ちなみに既に何回か言っていると思うが「ツヌガアラシト」の敦賀(ツルガ)には気比神宮があって、気比神宮で祭る神は「ミケツオオカミ」であり、神功皇后はこれをスクナヒコナと同一視している節がある事は話した。

息長氏出身の神功皇后にとって「ツヌガアラシト」の日本名である「天日矛」は血統上の祖先である。

したがって、気比神宮の「ミケツオオカミ」を息長出身の神功皇后が敬っているわけだし、この敦賀の由来にもなった「ツヌガアラシト」と「ミケツオオカミ」は同一という説もある。


そして既に言ってある通り「オオタタネコ」の周りには「ミケ」のつく人が非常に多い。

その「オオタタネコ」が初代神官を勤めた大神神社にはスクナヒコナ神社がある。

そして「オオタタネコ」の父祖「カモタケツヌミ」は「ツヌ」の名前が「ツヌガアラシト」と一致。スクナヒコナと同一視される。


また、紀伊の名草宮には「ツヌガアラシト」の日本名である「天日矛(あめのひぼこ)」と同じ名前の「日矛鏡」があり、これをご神体として崇めている神宮は紀伊の名草宮。

「オオタタネコ」の祖母は「紀伊の名草姫」であるという。


そして大事なことがもう一つ。カモタケツヌミはミシマミゾクイ、スエツミミと言って大阪に拠点があった模様。

オオタタネコも大阪出身である。そして、ツヌガアラシトから逃げてきたアカルヒメの祭られるヒメコソ神社は大阪にある。


カモタケツヌミは妻が「丹波のイカコヤ姫」であり娘は大物主に嫁ぎ、孫娘は神武天皇の正妻とする資料があるが、天村雲も「丹波のイカリ姫」との間の子が初代倭国の統治者・倭宿禰、椎根津彦である。


うーん。「ツヌガアラシト」「渡来人」「スクナヒコナ」「息長」「オオタタネコ」「紀伊」「難波・丹波」が一本の線に繋がるような繋がらないような。


ふむふむ。中部東海の話をしてたらいつのまにか敦賀、紀伊、丹波、難波の話になっていたが、まあいいだろう。

改めてまとめてみて、今まで筆者が語ってきた理論と大きな矛盾はない。


さて怪しい怪しい鴨建角身命は、大物主に娘を嫁がせており、生まれた女の子こそ、神武天皇の妃イスズヒメである。


神武天皇を迎え入れたのはニギハヤヒ。ニギハヤヒの息子、または孫がタカクラジであり、この人も神武に協力した。

そのニギハヤヒと、同じく神武に協力した鴨建角身命が姻戚関係なら話は簡単だ。

しかし姻戚なのは鴨建角身命と、神武東征の際に欠片も姿を見せない大物主なのである。筆者が大物主とニギハヤヒを同一と考える理由である。


ここまではわかった。では鴨建角身命の娘が大物主との間に産んだ姫は初代、二代目天皇の妃になり、彼女らの兄である鴨王の娘は三代目天皇の妃になったと記されているのに、何故崇神の時代には、輝かしい祖先を持つオオタタネコがヤマトの外にいた?

また、オオタタネコと同じで祖先はヤマトの領地を与えられていた市磯長尾市も、崇神時代には何故かヤマトの外にいた。


筆者は系図をなるべく疑いたくはない。


いや、「神武天皇はオオタタネコだった!」などと妄想こいている奴が言うのは矛盾だと思うかもしれないが、本当にそう思っている。

系図の改ざんを疑った場合、系図を頼りに推理を行う筆者は足場を失うのである。


とすると、オオタタネコの祖先が神武に領地を頂いた、ということが嘘という可能性に絞り込まれる。

つまり、オオタタネコは武力を背景にヤマトを脅し、崇神や重臣達が積極的にオオタタネコを迎えようとしたのは内部の造反をオブラートに包んで表現したものだろうから、造反を引き起こし、簡単にヤマトを占領したということになる。


これは、明らかにヤマトより難波の方が強かったということを意味するのではないか?


三世紀以降、本国イタリア出身でない皇帝がどんどん出現し始めたのがローマ帝国だが、オオタタネコの時代に同じ事が起こったことも考えられる。

だが、武力衝突はほとんどなかったことはわかる。

三世紀後半に作られたとされる纏向遺跡に城壁はない。

ご存知の通り弥生時代といえば環壕集落と言って、城壁を作って敵に備えていた。

纏向遺跡が、当時としては列島最大規模で豊かな都市だったにも関わらず城壁がなかったのである。

もしこの遺跡の支配者が武力によって大きく入れ替わったなら、城壁は必要である。

また、オオタタネコのきた大阪にしても神武がきた宮崎県にしても、全てヤマトの西側。

生駒山系などを挟んで西側にある。大阪と奈良を分ける境界が山である。

山は当然防壁である。もしその山の西側から侵略者が来たのなら、西側が本拠なのだから、西側に防壁としての山を望む奈良県桜井などという場所に都を作るはずがない。


むしろヤマトより東の東国の方が怖いし、もし筆者がヤマトを征服したなら大阪側へ遷都するとおもう。


事実、大阪に政権を構え始めた古墳時代にはヤマトは無敵の帝国となっており、恐れる敵は西にいなくなったということだ。

大阪に政権を構えてから無敵になったのではなく、無敵になってから遷都したのであろう。

神功皇后によるヤマト政権との戦争の結果、皇后が勝ったから政権交代が起こったのだが、筆者は九州勢力によってヤマトが倒されたのだ、とは考えていない。

その時代に九州にはろくな遺跡がなく、従って大きなまとまった国はなく、とうていヤマトを倒すほどとは思われないからである。

倭の五王の記録が示すように中華王朝との外交すらヤマトが握っていた。


筆者は邪馬台国は九州にあったと思っているが、古墳時代中期までにヤマト支配下におかれたと思われる。


しかも大阪から来たオオタタネコがヤマトに入ってきたのと同期して崇神時代には出雲がヤマトに攻められた事が明記されている。

考古学的に見ても三世紀後半以降、出雲では出雲特有の四隅突出型墳墓が姿を消し、前方後円墳がみられるようになる。

もちろん纏向遺跡の造営も始まる。この時代からヤマトの本格的な覇権国家化が進むためか、この遺跡に城壁はない。オオタタネコの関連がありそうである。

そもそも海のないヤマトと、瀬戸内海や太平洋と繋がる難波。どちらが経済的に優勢となるか火を見るより明らかである。

古墳時代以外にも飛鳥時代には都がかなり大阪側へせり出して来たし、孝徳天皇はついに難波宮へ遷都をしたそうである。


つまるところ、「纏向遺跡とはオオタタネコという丹波、出雲、紀伊、難波などの力を無数に結集した王がヤマトへ入ってきた際に作られたものだ」と考える。

オオタタネコは大阪出身にも関わらず、「出雲神門臣の美気姫(みけひめ)」をめとっているが、理由はもう明らかである。

彼の時代にヤマトが出雲を攻め、戦利品のようにして姫がオオタタネコの妻となったのである。


また、筆者は大神神社へ行ってオオタタネコ神社を見に行った事がある。最近の話である。


ここでの立て看板の記述を見ると「オオタタネコ神社は若宮様を祭る云々」と書かれており、大神神社では初代神官「オオタタネコ」を「若宮様」と呼んでいる節があるようだ。

若宮様という表記が気になった。何となくだが、「オオタタネコの父」がいると言っているように聞こえないだろうか?

古事記によるとオオタタネコの父はタケミカヅチ。出雲に侵攻したのはタケミカヅチと古事記で記述されている。


うーん。「タケミカヅチが出雲を制圧し、出雲の姫を息子、オオタタネコと結婚させた」のだろうか……?


オオタタネコやカモタケツヌミと関係深い「カモノオオミカミ」である「アジスキタカヒコネ」に顔がそっくりな「アメノワカヒコ」と結婚していて「アカルヒメ」と同一視される「シタテルヒメ」がいる。

このシタテルヒメと「オオタタネコの出雲の妻」は関係あるのだろうか……?


シタテルヒメ=アカルヒメは朝鮮の渡来人ツヌガアラシトと結婚していたようだが……。


纏向遺跡の造営と出雲の滅亡が考古学的にも、文献的にも同期しているので、筆者はオオタタネコが切っ掛けだと結論した。

そうして邪魔者がいなくなってから大阪へ政権が移行したのである。

政権が京都へ移ってから、ヤマトは二度と見向きされないことからも、その経済力の低さが伺える。

多分鎌倉と同じだと思う。鎌倉も鎌倉時代が終わってから二度と見向きもされなかった。

奈良も鎌倉も防御力は高いのだが、経済力の伸びしろに限界のある土地だったのだ。


政権交代は、ともかくオオタタネコの時代に起こった。難波とヤマトの間の変革である。

その後アマテラス信仰がヤマトから追い出され、何故か丹波の籠神社へ。だから籠神社は元伊勢と呼ばれる。

その後、伊勢神宮に神は移されたそうである。だから伊勢神宮。


しかしある資料では伊勢という名前について別な話を語っている。


ある資料によれば(伊勢国風土記)現在の三重県は「伊勢津彦」なる人物の天下だった。

伊勢津彦は神武が来ると信濃へ逃げ、神武天皇がその地を伊勢津彦の名前を取って伊勢と名付けたという。


そのため伊勢津彦はタケミナカタ、もしくはニギハヤヒと同一ではないかと言われる。

ちなみに「シナ」とは古語で「風」を意味する。「しなる」とは棒状のものが折れない程度に曲がる事だが、これも風に吹かれて草木が曲がる様子を「しなる」と言ったと思われる。

信濃(シナノ)というのもそれが語源であろう。風の国という事らしい。


しかし筆者は知っての通り、海部氏を非常に重視している。

そんなわけで、籠神社が元伊勢だというが、この元伊勢という言葉を深く考えてみよう。

籠神社のほか各地にいくつか元伊勢はあるが、今アマテラスがいるのは伊勢神宮とされる。

アマテラスの神がいるところが「イセ」と呼ばれるのではないか、と論理的に考えればそうなるよね?


では伊勢津彦とは如何なる男だったか、というと確実に「ナガスネヒコ」であり、イコール「タケミナカタ」と言っていいだろう。

伊勢国風土記の記載は誤りであると筆者は考える。古代、ヤマトこそが伊勢だったのだ。

しかしヤマトにはオオタタネコが入ってきて、アマテラス信仰が追い出されたので各地に元伊勢が出来たと思われる。


記紀では神武を迎え入れたニギハヤヒは神武に従ったと明記されている。

また、記載こそされていないが、「オオタタネコを迎えよう」と崇神天皇をはじめ、ヤマトの主要な人間が主張したが、当然反対派もいたはずである。

オオタタネコが入ってきた際に、その反対派が排除されたであろう。ナガスネヒコのように。


だが、筆者は神武時代と崇神時代は同じと考えている。

従って、自動的にかつて伊勢だったヤマトの王とは「ナガスネヒコ=伊勢津彦」となり、伊勢津彦は信濃へ。

当然信濃に負けて逃げた人といえば、「タケミカヅチ」に敗れた「タケミナカタ」である。


妄想逞し過ぎであろうか。妄想に妄想を重ねすぎだろうか?


いや。ここまで数百行も読んでくれたあなたは、筆者の逞しい妄想を楽しんでくれている変わった人だろうから、別に気にはしない。


というわけで、ナガスネヒコのことも解明したところで次に移ろう。


筆者は要するに、丹波と難波は深い繋がりがあり、主従関係があった、と言ってもいいと思っている。

その丹波の植民地であった難波勢力の長がオオタタネコであり、ヤマトはこれに乗っ取られた。

しかし必ずしも力ずくというわけではなく、反対派と親難波派とでも言える派閥の対立が起こって勝負が決した後入ってきたのだろう。

つまりその親オオタタネコ派が神武天皇を招き入れたニギハヤヒであり、オオタタネコを招き入れるよう崇神天皇や当時の重臣達に夢を見せた大物主に象徴され、神話に残ったものと考えている。


そして海部氏(あまべし)鴨部(かもべ)という人がたまに記紀に出てきて、「鴨氏(かもし)」もいることから丹波の海部氏は(アマ)の、と呼ばれた事だろうと思う。


天児屋根(あめのこやね)天火明(あめのほあかり)天照大御神(アマテラスオオミカミ)などという神様は頭にアマ、アメがつく。


「ぶっちゃけ、これらの神様は全て海部氏(あまべし)に関連する実在の人物ではないか?

アメノ、とよく神様についているが、これは苗字ではないのか?

そして、この日本で唯一苗字のない一族、天皇家の本来の苗字は海部氏(あまべし)、つまりアマではなかったか。

だから、海部氏と同族の尾張氏には三種の神器の一つを預けるなど破格の待遇を与えていたのでは……?」


うん。お察しの通り、筆者は海部氏出身で(ヤマト)の国の初代の国造である椎根津彦こそが初代天皇・神武であると思っている。

つまり神武は自分自身に(ヤマト)の国を与えたのである。


いや、冷静に考えて初代倭国の王であるのが椎根津彦なら、これを初代日本国王と考えて何もおかしくはないはずなのである。

そして、筆者は既に椎根津彦とオオタタネコ、神武天皇を繋げる理論は上で述べている。


オオタタネコと名前のそっくりな天種子は何故か神武天皇と同じ姫をめとった記録がある。

また天種子の父が天押雲根で、この神は別名としてアメノムラクモと呼ばれている。

アメノムラクモは海部氏にとって非常に重要な神であり、天皇家にとっても神器を意味する名前であり、しかも天村雲の息子は椎根津彦だから、乱暴ではあるが、天種子と椎根津彦は同じと考えられなくもないわけである。


では海部氏の祖先、天火明命(あめのほあかりのみこと)はニギハヤヒだから、筆者の理論通りならその後、ヤマトの重要人物としてヤマトに君臨したはずである。

そのニギハヤヒとは、つまり誰なのか。筆者は答えが出た。


日向賀牟度美良姫(ひむかのかむどのみらひめ)などという怪しい名前の姫を妻にしている、鴨王(かものおおきみ)である。


日向の姫をもらっているからには、神武天皇の関連者を妻にしていると思われる。

この人物は、九州の姫をもらっているにもかかわらず、立身出世を極めた唯一の例外と言っていい。


実は出雲にも日向にも「神門(かむど)」という土地がある。

あと忘れてはならないのが、オオタタネコは「出雲神門臣美気姫(いずものかむとのおみのみけひめ)」をめとっており、母親は「鴨部の美良姫(かもべのみらひめ)」であるとされる。

なんだかわからんが、名前が似ていることだけは確かである。


神門という土地が出雲と日向に存在し、それが混同されただけで、実は鴨王は出雲の姫をめとった……?

あるいは筆者の理論通り「鴨部(かもべ)」というのは固有名詞ではなく、「しもべ」という言葉の反対、つまり高貴な人全般を表す言葉としての「かもべ」だったのだとしたら、オオタタネコの母親は日向出身とも言える。


それは確信が持てないが、一応言っておくが「日向賀牟度美良姫」をめとっている鴨王は娘のヌナソコヒメを三代目天皇に嫁がせているという。

しかも鴨王の姉妹は神武天皇と、二代目天皇に嫁いでいる。


この二人の名前は初代が「カムヤマトイワレビコ」で、息子が「カムヌナカワミミ」である。

この「カム」は「カモ」と同一だと考えるのは危険であるが……。


まあ、カムはともかく、世代的に考えても神武より若干年下の、ヤマトの実力者が鴨王である。

そして鴨王は妹や娘を相次いで天皇家に嫁がせている。

筆者の理論通りなら「次なる支配者を迎え入れた者が、その妻を与えて外戚になる」はずである。


やはり、この鴨王こそは神話に象徴されるニギハヤヒであり、大物主であると思われる。

また、初期天皇家を見ると何故か欠史八代時代には宮をほとんど全て、ヤマトの西側の葛城の範囲に置いている。


だから二代目から九代目までの欠史八代を、葛城王朝時代と呼ぶ研究者もある。

ではこの時代に東側のヤマトの国、三輪の方は誰が治めていたのか?


古墳時代以前の歴史は不明であるが、恐らく三世紀の崇神より前は鴨・三輪一族が治めていたはずである。


前述した通り葛城には「ニニギ」や「タカミムスビ」など高天原の、神話では勝利した側の神が奉られている。

一方東側の倭国(ヤマトのクニ)では「ニギハヤヒ」信仰が盛んなのか、ニギハヤヒ関連の神社が多く見られる。

土地の豪族は自分に関係のない神を祭ったりはしない。ある程度神社の祭神の分布と古代の歴史は関連があると見ていいはずだ。


うーん、妙な結論になってきてしまった。筆者は神武と崇神が同じと思っていたのに、記紀はそれなりに真実を書いている、と言っていいような結論になってしまった。

筆者は絶対に、九州がヤマトを侵略したなどとは認めたくないので否定したいわけだし、出来れば渡来人が関与していた方が面白いので次からは、とにかくヤマトは九州に侵略されたことを否定する方へ行きたいと思う。

妙な結論になってしまった。マジで日向出身の何者かが三世紀ごろにヤマトに影響を与えたのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ