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古代日本史の謎を筆者は解いた!  作者: ニャンコ教三毛猫派信者
17/20

【大神神社へ行ってきたの続き】







大神神社へ行ってきたの続き



前回に引き続き、筆者が今まで語ってきた事のまとめをして、もうこれは完結させようと思う。



まず前回のおさらいから始めよう。


①:前回挙げた数々の根拠から、筆者は次の結論を得た。

神武天皇と崇神天皇の逸話は同じエピソードを二つの視点から語った物に過ぎない。

どちらも部外者が奈良へ入って来るエピソードである。

となるとその際に入って来た神武天皇とオオタタネコが怪しい。


②:また、神武天皇を招き入れたのはニギハヤヒであり、オオタタネコを迎えるよう指示したのは大物主である。

筆者は考えた。「何故、神武天皇を迎えたニギハヤヒはその後姿を消し、以後、大物主が大きな顔をするようになったのか?」

神武天皇が奈良へ入って来る際、大物主など影も形もない。

だが神武の妃は大物主の娘であり、この女の産んだ王子が二代目。

以後は全ての天皇に大物主の娘の血が入っている事になる。

これ以外に様々な根拠があり、「ニギハヤヒとは大物主である」と筆者は考えた。


③:では、ニギハヤヒと大物主が名前が違うだけで同一だとすると、天皇家の初代、神武天皇とオオタタネコも……?


ということで、次は二人について語ってみよう。



ではまずオオタタネコと、天種子(あめのたねこ)という怪しい神様の事について語らねばなるまい。


言うまでもなく、二人は名前がそっくりである。


それで、天種子という神様の母親はアヒラヨリヒメ。

アヒラは宮崎県の吾平(アヒラ)の事ではないかと思われる。

というのは、同地には神武天皇の父、ウガヤフキアエズが眠っている墓があるというのだ。

嘘だと思うならネットで検索してみればわかる。筆者は足を運んだ事は無いが本当のようである。


それで、天種子の父親は誰かというと天村雲だというのだ。


この天村雲という神様は非常に怪しい。どういうわけか、この神様は子孫や名前が諸説ありすぎるのである。


ところで、京都の丹後には籠神社というのがあり、ここに代々伝えられてきた海部氏勘注系図というのにも天村雲なる神様が載っている。

これによると椎根津彦という神様の父神がこの人だということになっており、奇妙な話である。

天種子と椎根津彦は同一人物か、もしくは兄弟だということだろうか。


というわけで、ここで忘れた人のために椎根津彦について説明しよう。


椎根津彦は正体不明の海人である。神武天皇が奈良を奪取する際の活躍が評価され、奈良盆地の東半分くらいにあたる(やまと)の国を授かるのである。


全くもって奇妙な話である。何故この男は、そんな大事なところを授かるのか?

ここは纏向遺跡をはじめとし、初期の巨大古墳が多数あることから『日本史上初の計画的に建設された王都』ではないかとする見方が支配的と言っていい。


ここを椎根津彦が頂いたというのだが、系譜上は椎根津彦が天種子と兄弟もしくは同一人物というのは一体?

ちなみに、天種子(あめのたねこ)と名前の似るオオタタネコは、椎根津彦が倭の国を授かった際に、同じく奈良の西半分にあたる葛城国を授かった剣根命(つるぎねのみこと)の子孫。

そして十代目崇神の治世にオオタタネコが入ってくるとき、ついでという感じで椎根津彦の子孫である市磯長尾市という(名前うろおぼえ)を連れて来ている。


となると、神武天皇が椎根津彦の倭の国を、剣根命に葛城を与えた後、十代目の崇神の時代までに、この二つの家は領地を追い出されたということであろうか?

政争があったのか、もしくは、最初から神武天皇時代にオオタタネコらの祖先が領地を与えられたなどという事実はなかったのだろうか。


神武天皇は倭の国と葛城国の間にある橿原で即位したとある。

これが天皇家の公式見解なのだが、一体どこまで本当だろうか。


このような可能性が考えられる。



初代天皇は一応、実在した。また、天種子と椎根津彦は同一人物である。

また神武天皇が葛城を与えた剣根命は、オオタタネコと同一人物であると考えられなくもない。

椎根津彦=天種子と名前のそっくりなオオタタネコ兄弟は、ニギハヤヒ=大物主の力を借りて奈良を占領した。

そして、兄弟が奈良の主要な部分を貰って、天皇家の祖先は小さな橿原の領地を得た。

それが徐々に大きくなり、やがてはヤマト王権にまで成長した。

つまり神武天皇は椎根津彦達に領土を与えたのではなく、逆に彼らから与えてもらったのである。



どうだろうか。天皇家の成立過程がだんだん浮き彫りになってきた。(妄想)


ここでは、若干オオタタネコがフワッとしている。

前の部分で既に書いてある事をおさらいしながら、改めてオオタタネコの実像に迫り、筆者は今度こそオオタタネコが日本の真の王であった事を証明したい。


まずオオタタネコは日本書記によれば大物主の息子である。

次に、古事記では事代主の子孫で、何代か子孫が続いた後にタケミカヅチという神の子孫として生まれている。


タケミカヅチは神話によれば大国主に出雲の国譲りを迫った神である。

大国主陣営の力自慢、タケミナカタと対決するもこれに圧勝。

タケミナカタは諏訪まで落ち延び、出雲も高天原に譲られたようである。


その神話におけるタケミカヅチが、オオタタネコの父親であるというのは実に奇妙な話である。


オオタタネコは出雲の神門臣(かむとのおみ)美気姫(みけひめ)を妻にしているようだ。

当然、出雲の国の姫である。出雲の国を武力制圧したと思われるタケミカヅチの息子のオオタタネコが、出雲の国の姫をめとっているとはある意味では、すごく納得のいく自然な流れではある。

ちなみに、タケミカヅチがめとっているのは鴨部美良姫とある。


ところで一つ聞いてほしいのだが、「しもべ」というと低い身分、下僕、というような意味である。

感じで書けばおそらく下部(しもべ)という風になるのではないだろうか。

先ほど話に出た海別(あまべ)氏は、やはり海の人間という事であろう。


では高い身分の人間を表す場合どうするか。筆者は考えた。


下が「しも」なら上は「かみ」である。しかし「神」氏などという古代豪族は存在しない。

とはいえ近い氏族ならいる。賀茂(かも)族である。


筆者の理論通り、「かもべ」が高い身分を現したとしよう。

タケミカヅチは鴨部美良姫(かもべのみらひめ)をめとっているではないか。

ちなみに他の系図ではオオタタネコの父神は名前こそ違うが母の名前は一致している。

そのことから、オオタタネコの母親が「かもべ」であったことは非常に重要であったと考えられるのだ。


考古学上、だいたいこのくらいの時代にヤマトは出雲に攻め入り、出雲の四隅突出型古墳は姿を消して前方後円墳が広まる。

この時代をヤマトの指導者層として生きたオオタタネコが出雲の姫をめとっていることは自然である。

言わずもがな、オオタタネコの母親は鴨部(かもべ)なのである。


鴨というと、やはり大物主の妻の家系である鴨氏関連ということになるが何故タケミカヅチが……?


そもそも問題として、筆者は何度もこう主張している。


「名前にタケがつく神様はどう考えても出雲系に偏っており、タケミカヅチも神話でこそ出雲を武力制圧しているようだが、本当は出雲系では?」


と思っている。実際調べてみればわかるが、圧倒的にタケがつく神様は出雲系である。


(数少ないタケがつくのに出雲系じゃない神様が、建日別(たけひわけ)とヒコナギサタケウガヤフキアエズである。

ウガヤフキアエズは、日向国生まれで神武天皇の実の父親とのこと。

建日別という神様は日向国を含む熊襲の国そのものを象徴する神様であるとのこと。

何故、宮崎県・日向国の神様にタケの名前がつくのかは不明である)


古事記ではタケミカヅチは大物主もしくは事代主の子孫だと明記している。

一体全体どういうことだ。あの神話は一体?


ところで、大神神社へ行ったところ、大物主というのは巨大な蛇神であるという。


『大物主が山にとぐろを巻き、それが三周するほどの巨体であったため、三輪山と名付けられた』


みたいな伝説があるらしい。ところでタケミカヅチも蛇神とする説があるのだが、筆者もそれを支持する。


「ツチ」という単語は古語では蛇を意味する。

「ツチノコ」という幻の蛇のような生物がいるのだが、こいつは「ノズチ」ともいう。


だからタケミカヅチは蛇神の可能性があるという話である。筆者もそれを支持する。

蛇神の大物主の子孫なのだから蛇神でもなんらおかしくはないのである。


さて大物主とタケミカヅチは蛇神という可能性があることがわかった。

ではオオタタネコだが、この男が出雲の姫をめとっているのも父祖が出雲を攻めているのなら何一つおかしいことはない。

大坂に住んでいたというが、そもそもこの当時の大坂に何かあるのではないだろうか。


そこで筆者は調査をし、怪しい痕跡を見つけた。


というのも大物主と結婚し、オオタタネコに連なる系譜やそのほか神武天皇と二代目天皇の妃まで産んでいる姫がいる。

それが、イクタマヨリヒメである。この人の両親がくせ者だ。


父親は大坂に拠点を置いていたという「ヤタガラス」「スエツミミ」「ミシマミゾクヒ」「カモタケツヌミ」いずれも同一人物とされる。

母親は、山城国風土記の資料によると「丹波のイカコヤ姫」とある。


大坂はむかし「なには」、時代が下って「なんば」と呼ばれていた。今も「なにわ」と言わない事もないが。


丹波もむかし「たには」、時代が下って「たんば」と呼ばれたのである。今はたにわと呼ばないが。


何か関係があると思うのは、筆者だけだろうか。

神武天皇以前に二者が相当深い関係であった可能性は、大坂のヤタガラスと丹波の姫が結婚している事からも十分考えられる。


地図を見てみると結構離れているように見える大坂と丹波だが、古代は大坂湾がかなり内陸にえぐれており、従って丹波と大坂は船でスイスイ行き来が出来ていたのかもしれない。

そう考えるとあながち有り得なくもないな、と思えて来る。


弥生時代屈指の大規模遺跡、池上曾根遺跡は大阪南部にあるのだが、ここは紀元前後くらいに栄えた大集落の遺跡である。

だが、大集落にもかかわらず周辺に耕作、稲作の痕跡が全然なく、謎の遺跡とされる。

有力視されているのが、既に当時からこの地は他から税を集め、農業をしない人々が住んだような大都市であったとする説であるが、筆者もこれを支持する。


別に筆者が大阪出身だからお国自慢をしているのではない。

問題は、ここはオオタタネコの出身地と近い事からも当時の大阪が想像より繁栄していた可能性が浮上して来るという事だ。

何となくイメージ的にはこの時代は大和を出たら即辺境というイメージであったが。

むろん奈良を凌ぐほどではないだろうが、実際後代に古墳時代が始まると奈良以上の繁栄を大阪が遂げている。


何故、大阪で政治すると上手く行かないのかは不明であるが、大阪に作った政権は短命で終わる。

河内時代と言ってもよい、応神天皇以降の時代も百年ほどで終わり、政権の中枢は奈良に戻っている。

その後また飛鳥時代に奈良から大坂側へ徐々にせり出して来て、大化の改新の際に大坂に政権が移ったが、すぐまた奈良に戻ったのである。

言うまでもなく豊臣政権も短命であった。明治維新後も大坂遷都の案もあったが、もし大坂に首都があったら八十年足らずで散った史実の大日本帝国以上に短命であったかもしれない。


大坂出身であるとみてほぼ間違いないカモタケツヌミについて、wikiからすこし引用してみよう。


『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身(カモタケツヌミ)命は神魂命(カミムスビノミコト)の孫である。

神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。


おいおいおい。カモタケツヌミが九州出身ということになっているではないか。

この時点で筆者は九州出身というのはねつ造であると思っている。

天皇家や中臣・藤原氏も祖先は九州出身であるのだが、これは有り得ない。


これほどの人々が九州出身であるにも関わらず、ヤマト政権は九州を攻めるに全く躊躇がなく、熊襲や隼人、土蜘蛛などとといって差別までしているではないか。

そもそもカミムスビの孫だそうだが、カミムスビは典型的な出雲系の神である。

大国主と関わり深く、スクナヒコナの親とされ、その他、出雲に関連する神話によく登場するからだ。


神魂命(カミムスビノミコト)といえば、スクナヒコナの親。

スクナヒコナといえば、当然の事ながら渡来人である。

大神神社にもスクナヒコナの神社が存在しており、大物主と全国各地で名前を遺している。


スクナヒコナとオオタタネコ。名前は正反対なのだが、この二人を繋ぐ一つの事実がある。


話を始めよう。これは恐るべき渡来人の痕跡について記すものである。


まず神功皇后という人がいるのだが、まさに古代史上最高クラスの要注意人物である。

その神功皇后が結婚したのは仲哀天皇なのだが、ほぼ間違いなく神功皇后が産んだ応神天皇は、仲哀の子ではないだろう。

応神天皇は胎児の身で神功皇后とともに朝鮮を征伐し、返す刀で大和へと進軍。

その際に難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)などと共に、大坂湾の艦隊などを撃破し、以後は生まれた応神の摂政として神功皇后が政治を握る。


それ以後、天皇家では大坂への政治中枢が移動し、河内時代と言ってもよい時代となっていく。

先ほど大坂の話を盛んにしたのも、決してお国自慢のためだけではない。


天皇家には初代神武、十代目崇神に続き応神という三人の「神」の字を持つ天皇がおり、いずれ劣らぬ歴史的重要さをもつというわけだ。


で、その神功皇后が戦争を一段落させ、九州で生まれた息子の応神天皇が当時でいう成人年齢くらいに達した頃の事である。

福井の気比神宮に向かい、応神達は神に感謝をした。そして宴を開催し、皇后はこんな歌を遺した。


「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世にいます 石立たす 少名御神の 神祷ぎ 寿ぎ狂ほし 豊寿ぎ 寿ぎ廻し 献まつり来し 御酒ぞ 乾あさずをせ ささ」という和歌である。


要するに「常世のスクナヒコナが作った酒を飲み、歌い、踊り狂いましょう」という感じの景気のよい歌だ。

これの何が問題なのか、と思うかもしれないが違うのだ。

神功皇后は、気比神宮に行って帰ってきた応神と、大和の地で宴を開いている。

そして「この酒はスクナヒコナの作った酒だ」と言っている。


ということは、「気比神宮の気比大神はスクナヒコナである」と言っているのと同じであると、筆者は考えている。

逆に何の関連もない、と考えられるだろうか。その方が不自然である。


さて、この気比大神のまたの名を「ミケツオオカミ」と言って天皇家も非常に大事にしている神である。


九州、大坂、福井と各地に縁のある、謎深き神功皇后。

中でもこの福井の気比大神というのが問題なのだ。


これはミケツオオカミという名前だ。ところが、オオタタネコの妻は「出雲神門臣(いずものかむとのおみ)美気姫(みけひめ)」なのである。

奇妙である。しかもオオタタネコの息子は「大御気持命(おおみけもちのみこと)」である。


また、オオタタネコの祖父は「大御気主(おおみけぬし)」、曾祖父は「豊御気主」だと一部の資料ではいう。


オオタタネコの周りに、ミケと名のつく人物が非常に多いのは一体どういうことなのだろうか?

そして、本来出雲の大国主と全国を旅したはずのスクナヒコナが、筆者が足を運んだ大神神社に奉られており、薬の神様であるスクナヒコナと関係あるのか知らないが、薬関係の摂社もいくつか大神神社内にある事をこの目で確かめてきた。

しかも、大物主は強いてオオタタネコを三輪山に呼び寄せた。

そしてオオタタネコには妻や息子、祖父など「ミケ」の名がついてまわり、神功皇后がスクナヒコナと同一視をしている節のある「ミケツオオカミ」と名前が共通する不思議。


そして「ミケツオオカミ」の奉られる気比神宮がある敦賀(ツルガ)は、朝鮮からの渡来人である「ツヌガアラシト」の名前が由来であるとされている。

不思議である。実に不思議である。


また、気比大神はもともと「イザサワケ」という名前であったが、応神天皇と名を交換したという。

どういうわけか応神天皇は以後、ホンダワケになるのだが、その後の世代もワケやワキが非常に多くなる。


応神の息子は「ウジノワキ」と「オオサザキ」である。


兄のウジノワキは弟のオオサザキにどうしても皇位を譲りたいと言って聞かなかった。

弟のオオサザキも、これを固辞したのだがそうこうしているうちにウジノワキは病死した。

そこで仕方なくオオサザキが皇位を継承した。これが仁徳天皇であるとされる。


何となく、ウジノワキとオオサザキの戦争の香りを感じてならないのは筆者だけだろうか?

仁徳天皇は仕方なく皇位を継承した、というのが非常に胡散臭い。

というのも日本書紀や古事記が編纂された時代というのは、唐の時代である。


唐帝国の基礎を形作ったのは李世民なのだが、この男は兄が皇太子であったため、兄や父に疎んじられていた。

どうも李世民の父、李淵は頭が切れすぎる息子李世民を危険視している節があったようだ。

実際優秀過ぎた李世民は、周りの人望も厚く、兄への反逆は簡単に成功してしまった。

李世民は以後、中華文明圏史上最高クラスの名君と讃えられる。


まるで、聖帝と呼ばれた仁徳天皇にうり二つである。

隣国がそのような歴史を持っている事を考えると、仁徳天皇を李世民になぞらえているのではないか、と筆者は思えてならない。


何故かというと、記紀にははっきり応神は九州、宇佐の生まれで彼が皇位に登ることに反対する近畿の勢力を神功皇后などが蹴散らして即位したことが、明記されているからである。


しかし以後、大坂生まれの(奈良生まれだったかもしれない。いずれにせよ近畿出身)仁徳天皇が即位する。

やはりこの大坂、奈良の地以外で生まれた王は正統ではない、という史観が記紀の編纂当時の朝廷に存在したと思われる。


のだが、仁徳天皇には更なる隠された秘密が存在している。

「オオサザキ」という名前自体が「大きなみささぎ」を意味する言葉が訛った可能性があるという事だ。


みささぎとは一発変換できると思うが、御陵。お墓の事だ。

偉い人の死に奴婢などが殉葬、つまり身を捧げるため、みささぎと呼ばれたのかもしれない。

つまりあの有名な日本最大の伝仁徳天皇陵古墳の事を意味するのかもしれない、ということである。


要するに生前、親が名付けてくれた名前ではないということになる。

あれほどの巨大墳墓を作った仁徳天皇の名前が知られていないということはないだろう。


もし万が一オオサザキというのが「大きな御陵(みささぎ)」という意味なら、記紀では仁徳天皇の本名を隠した、あるいは知らないということになる。

大変な事である。何かが起こったとしか思えない。

その後、息子の履中天皇が即位するが同じく王子のスミノエ王子が反乱を起こし、同じく王子の反正天皇がこれを討伐する。

そしてついに、この功績によって反正天皇は天皇家の歴史上初めて兄弟間での相続をする。


ご存知の通り、その後天皇家の後継ぎ問題が発生し、継体天皇も出てくる。

奈良から河内へ進出してからというもの、戦乱が激化していることがわかる。

このことについては筆者も以前に語っている。


まあともかく、ちょっと話が逸れてしまったので修正。

河内時代はかなり発掘による物的証拠や中国の歴史書にも載るなどしているため、色々情報があって妄想の余地もあるが、それは今は置いておこう。


今回問題にしているのはスクナヒコナとオオタタネコである。

そこへ絡んでくるのが渡来人のツヌガアラシトである。


この男のまたの名を天日槍(あめのひぼこ)と言う。


ところでオオタタネコの祖父は大御気主、曾祖父は豊御気主(とよみけぬし)である。


大御気主が紀伊の名草姫なる姫をめとって産んだ子が健甕尻(タケミカジリ)であるという。

それで、紀伊の名草というところはどういう所だろうか?


紀伊の名草郡には「日前・国懸神宮」なる神社があるのである。

なにしろ、名草宮という別名もあるほどだ。

検索すればわかるが本当である。

ここのご神体に「日矛(ひぼこ)の鏡」なる宝物が眠っているのだという。


これを神社に奉納したのはニギハヤヒの神の側近の神だというから驚きだ。


何故、ニギハヤヒの側近神が渡来人・天日槍(あめのひぼこ)と同じ名前の鏡を……?

そもそも鏡、それそのものが渡来物の象徴的な存在であるのだが……?

それではその側近神の説明に移ろう。彼は天道根命(あめのみちねのみこと)と言うらしい。


ウィキペディアから抜粋する。


“『先代旧事本紀』は神皇産霊尊(かみむすびのみこと)の子神である天御食持命の「次」で、川瀬造等の祖とする”


おわかり頂けただろうか? 天御食持命(あめのみけもちのみこと)なる人物の後継者が天道根命であるというのだ。


その天道根命が、「紀伊の名草」の神宮に「日矛の鏡」を奉納。

この鏡は三種の神器が一つ、天照大御神のヤタノカガミを作った「イシコリドメ」という神様がつくったのである。

なお、オオタタネコの祖母は「紀伊の名草姫」であり、名草姫が結婚した相手は大御気主(おおみけぬし)である。


何かが、そう、何かがある。紀伊の名草、三輪山、そして敦賀には共通する何かがあるはずである!


先代旧事本紀によると、カミムスビの子神が天御食持命であるとのこと。

他の資料ではスクナヒコナがカミムスビの子神とのこと。

スクナヒコナと天御食持(あめのみけもち)、二人は同一なのだろうか。


ついでに言えば調べたところによると、オオタタネコと名前の似る天種子は宇佐津姫をめとり、息子が宇佐臣命(うさのおみのみこと)であるという。

そして宇佐臣命の息子が、大御食津命(おおみけつのみこと)であるという。


ここまでミケが出てくると、彼らの関連性を認めざるを得なくなって来る。


紀伊の名草が怪しいと言ったが、初代の紀伊国造は(国造とは国の長官的な意味である)何を隠そう紀角(きのつの)である。

角というと、何やら朝鮮出身のツヌガアラシトの関連性を感じてならない。

ツヌガアラシトといえば、彼の子孫は息長氏であり、息長出身の神功皇后にとっては血の繋がる祖先である。


ちなみに、紀角は百済との外交交渉を担当したこともある。怪しいを通り越して恐ろしいものである。

そして紀角は、かつてお札にもなった武内宿禰という人物の息子と伝わる。

武内宿禰というと神功皇后に尽力していた人物の一人であるが、母親は紀伊の山下の影姫であると言う。

ということは武内宿禰は紀伊に非常にゆかりが深いということであるということである。


また、神武天皇を紀伊へと導いたのはヤタガラスなのだが、彼は「建角身(タケツヌミ)」と言う。


何故か敦賀ではなく、紀伊にツノ・ツヌが絡んで来るようである。

一体全体、紀伊の何がそんなに重要なのか知らぬが間違いなく紀伊は大変重要な地であったと確信できる。


紀伊の何が重要って、さきほど言った紀伊の日前・國懸神宮の宮司職の家系の女こそ武内宿禰の母その人である。

また、日本書紀には紀伊でのこのような記述があることも前の部分で述べているが、もう一度書いておこう。


『あるとき神功皇后が紀伊に滞在中、太陽の輝きが失われて何日もの間、夜が続いた。

神功皇后が訳を知っている人に話を聞いてみると、その人はこう答えた。

「この地の神官二人はとても仲がよく、遺体を一緒に埋葬した。

結果、このような恐ろしい事態となった。アズナイの罪なのです」

そこで神功皇后が部下に命じて二人の埋葬を別々にし直すと、太陽は輝きを取り戻した』


これは日本最古の男色の記述ではないか、とも言われる。

神官がほぼ同時期に死ぬのは偶然と言うより後追いか心中の線もある。

少なくとも、「アズナイの罪」なるものがあると知ってて二人の死後に紀伊の住民が埋葬を同じくしてあげたのなら、相当強くそれを希望する遺言を神官が遺したか、よっぽど二人の仲が知れていたということだろうと考えられる。


で、問題はこの記述なのだが、神功皇后を含め、登場人物は天岩戸神話を全く知らないかのように振る舞っている。

まるでこの時代に天岩戸神話などなかったように。


天岩戸神話とは、太陽神であるアマテラスが弟・スサノオの狼藉ぶりに怒り、引きこもって太陽神の仕事をやめてしまった。

太陽がなくなって慌てた他の神々は一計を案じる。

アメノウズメという神が岩戸の前で裸体を晒し、歌って踊る宴会が開かれて男達を楽しませた。

なんか気になって出てきたアマテラスを捕まえて見事引っ張り出し、無事太陽は戻ってきましたという話である。


女のストリップが気になって出てきたアマテラス。

筆者はアマテラスはもともと男神だったと思ってるが、ここら辺にその片鱗が残っているような気がする。


この神話は非常に古い神代が舞台のはずなのだが、どうも成立時期は神功皇后の紀伊での説話より新しいようである。

いや、断言してはならないのかもしれないが、それにしても日食という一大事に天岩戸神話を思い出すこともしない神功皇后達には首を傾げるばかりである。

さらに紀伊とアマテラスの怪しいところなのだが、初めてアマテラスを奉ることにした天皇は、実は崇神天皇。


十代目でやっと本格的に奉ることにしたのだが、それまではアマテラスのアの字も出てこない。

で、崇神がアマテラスに仕える巫女として出したのが娘、トヨスキイリビメである。

この女の母親は、つまり崇神の妻は紀伊出身である。不思議である。


このトヨスキイリビメは崇神即位五年ごろに巫女になったという。

言うまでもなく、処女であっただろう。

例えばヤマトトトヒモモソヒメなる人物が、やはり崇神時代に存在する。


この女性は神懸かり的な力を持つ巫女であり、箸墓古墳に埋葬されているとされていることから、邪馬台国の卑弥呼ではないかと言われている人物である。

ちなみに崇神の叔母らしいが、まあそれは今は置いとく。


モモソヒメはある日突然、ホトを(女性器)を箸で突いて死ぬという、めちゃくちゃ痛そうな上に恥ずかしい死を遂げている。

何故そんなことになったのか。女性器に棒状のものを突き入れるというのは、筆者が思うに処女を失ったということの比喩であると思う。

彼女は処女でなくなったことで、巫女として死んだという事だ。

そして存在価値をも失い、埋葬されたのではないかと筆者は考えている。


崇神の叔母。もはや老齢に達したるモモソヒメが生涯ただ一人と決めて契った男の存在を考えると、ロマンチックですらある。


新たに太陽神に仕える処女としてトヨスキイリビメが必要だった。

このことからも、アマテラス男説はあると思っている。

しかし、トヨスキイリビメが巫女になるのがオオタタネコの入ってくるわずか一年前の出来事らしいのである。

何か関連がある気がしてならないのだが。


少なくとも伊勢神宮の斎王が処女を保たねばならなかったらしいのは事実である。

決して根拠なく処女がどうとか言っていたワケではない。


しかしまあ、どうして突然伊勢でアマテラスを奉ることになったのかは不思議な話である。

都から結構遠いではないか。崇神時代に、伊勢と何かがあったのかも知れぬ。

その謎については、またおいおい説き明かしていこうと思う。


さて、次に問題にするのはやはりヤタガラスであろう。

ヤタガラスはオオタタネコ、天皇家の祖先である超重要人物で丹波とも紀伊とも繋がりが深い、大坂出身で奈良にも影響力を持ったのである。

その力、尋常ではない。神話によるとヤタガラスは紀伊から奈良を目指すルートを神武天皇に教えた。


有名な熊野那智大社にはヤタガラスが奉られていて、サッカー日本代表が訪れることもあるとかないとか。


ところが今まで着眼してこなかった神社の位置という視点に目を向けると、奇妙である。

ヤタガラスと同一とされるカモタケツヌミを祀る賀茂御祖神社は、大和の北側に位置している。

むしろ、丹波方面への入り口にある。丹波、である。


調べてみると崇神時代に、四道将軍が各地へ派遣されたのだという。

その中に丹波に派遣されたのは丹波道主命という人物である。


なお、この人の母親は歴史上最初に出てくる「息長」の名を持つ人間である。

また息長と丹波が繋がった。息長とはすでに言ってある通り、神功皇后の出身家系である。

政治的に実権を持っていた形跡はなさそうなのだが、名前が随所に出て来過ぎていて、とても怪しい一族がこの息長氏である。


丹波にある籠神社には海部氏伝世鏡として、息津鏡・辺津鏡が所蔵されている。

息津鏡・辺津鏡ともに漢時代の非常に古いもの。日本では弥生時代であった。

新羅の天日槍(あまのひぼこ)が持ち込んだものらしい。


そして、既に出てきた籠神社の海部氏系図によるとカモワケイカヅチ、丹波道主命、アメノホアカリ、ニギハヤヒなどという神は全て異名同神であるという。

なおこの系図には一つ異常な点がある。アマテラスの名前はどこにもないのである。


アマテラスの息子・オシホミミが全ての始まりであり、それより前は記載されていないのは実に奇妙である。

筆者は前回、こんな仮説を打ち立てていた。


「アマテラスの別名オオヒルメムチは、そもそも本当に同じ神の別名なのかも不明である。

また、九州では同じ神をニギハヤヒ、出雲系文化では大物主と呼んでいたのではないだろうか。

その後、時間が経過しアマテラスという近畿地方の呼称が出てきた。

従って、アマテラスという名前は非常に新しい名前である」


やはり、海部氏系図を見てもアマテラスは新しい神であると思われる。

少なくとも、神功皇后の活躍したと思われる西暦四世紀の後半には、前述した理由から存在していなかったと思われる。


そのアマテラスと籠神社の関係を見てみよう。

崇神天皇の御代、大和国笠縫邑に祭られていた天照大神を祭神とし、丹波の(丹後の)籠神社は與謝宮として祭られる。(よさのみや、と読むのだろうかこれは。京都には与謝野という地名ならあるようだが)


しばらくして天照大神は伊勢神宮に移される。その後、籠神社は彦火明命を祭り、元伊勢と呼ばれるようになったようだ。


籠神社の事はわかった。そこで今度は神武時代に戻ろう。


筆者は、最初からずっと神武天皇はオオタタネコか否か、というところに焦点を当ててきたが、それを説明するために文章が著しく長大になってしまった。

ここでようやくまとめにでも入ることが出来そうである。


ではここで、今回超特大号になったが、まとめをしよう。


奈良征服の際に神武天皇を助けた椎根津彦は、神武に倭の国を与えられる。

海部氏系図によれば、椎根津彦は別名、(やまと)宿禰(すくね)

宿禰というのはとにかく偉い人という意味であろうから、倭の国で一番偉い人、ということになる。

不遜極まりない名前である。なお、海部氏系図に神武やアマテラスなど出てこない。


さてこの男の父親が天村雲命であり、系図によると中臣氏の祖先である天種子と椎根津彦は兄弟または同一人物であることが判明している。

天種子は、九州宇佐の姫をめとっているのだが、何故か京都府京丹後市の神谷神社では八千矛神、天神魂命、丹波道主命らとともに天種子も奉られている。

どんな関係があるのかよくわからない、出身もバラバラな神様が一緒くたになっている。

ということは、関係があると見てよいだろう。籠神社と同じ丹後の神社の言うことなのだから。


話は戻って、神武天皇が葛城を剣根命に与え、倭の国を椎根津彦に与えた。


そして椎根津彦と天種子は上で言ってある通り同一人物疑惑がある。

また、オオタタネコは剣根命の子孫で、この人は倭の国の内部にある大神神社の初代神官を勤めることになる。


これは一体全体どういうことか考えたとき、神武天皇=椎根津彦=天種子=オオタタネコと考えればつじつまが合うと筆者は思ったのである。

つまり、神武天皇は自分自身に葛城と倭の国を与えたのである。

そのことを説明するために膨大な文章を書いたわけである。


神社の位置について注目してみると、神武天皇を支えたヤタガラスを奉る賀茂御祖神社は奈良の北側、丹波側に存在するのだが、奈良の南から回りこんで東の宇陀から入ってきたという神話とは矛盾する。

また葛城の古くて格が高い神社を洗ってみると、ニニギ、タカミムスビなどを奉っている。

逆に纏向遺跡や箸墓古墳、大神神社などがあり、奈良の中でも圧倒的存在感のある中心地が倭の国なのだが、こちらではニギハヤヒ関連の神社が非常に多い。

負けた側を奉る方が栄え、勝った側を奉る葛城がそうでもないのは、不思議なことである。


葛城にニニギノミコトのような九州丸出しの神が奉られているあたり、やはりここは九州の影響を感じる。

天種子の母親は日向出身である事が推測出来るのだが、こうなって来ると神武天皇が天種子だったとしか思えないのである。


そして神武天皇を招き入れたのがニギハヤヒであるように、外からオオタタネコを招き入れるようにと考えたのは他ならぬ崇神、大物主らであるという。

奈良はこの部外者と、そして部外者を招き入れた在地の有力者の手によって支配されるようになった、と筆者は考える。

政治的に考えて、それが一番蓋然性が高いと思ったからである。

というわけなので、大阪出身の筆者としては悔しいが、筆者の必死の調査と考察でも九州が奈良を侵略したことを否定できるものではなかった。


オオタタネコの妻が出雲の娘であり、オオタタネコは大阪出身である事もあるので、九州の侵略説は可能性がまだ残されている、という程度。

しかし完全否定は出来なかった。筆者の思惑では、丹念に神話や神社の祭神などを参考に考察すれば自ずと否定できるはずだったのだが。

筆者が思うに奈良を侵略したのは、丹波系の大坂勢力であると思われる。


上でも言ったが、「かもべ」とは筆者の理論によると高貴な身分を意味する。


オオタタネコの母親は「鴨部美良姫(かもべのみらひめ)」であると、古い資料に明記されている。

鴨部という人はごくたまに資料に出現するが、「かもべ」というのは「高貴なる」ということではなかったか?

筆者はそのことを閃いて以来、もうそうとしか考えられなくなった。


オオタタネコはどこをどう突いても、必ず出てくるのは「高貴」で「強大な権力」を持っていると考えられる状況証拠ばかりなのである。


オオタタネコは母親が高貴な「かもべ」であり、妻は出雲の姫である。

その彼は葛城の国を神武天皇から任せられた剣根命の子孫でありながら、葛城を飛び越えて倭の国の領域にある大神神社の神官となる。

なお、オオタタネコが入ってくる一年前に、崇神天皇は娘をアマテラスの巫女として差し出している。

これはオオタタネコと恐らく何か関係があるのであろう。


アマテラスの巫女となった姫は紀伊出身の母を持つ。


同時期、崇神は倭大国魂神なる謎の神を祭るため、尾張氏系の姫との間に生んだヌナキイリビメをその神の巫女としたという。


アマテラスには紀伊出身の母を持つ姫を、倭大国魂神という謎の神には尾張、東海系の姫を。

そして大物主には母親もヤマト育ちヤマト生まれのヤマトトトヒモモソヒメが仕えている。


三者の出自と神様が対応しているのだとすると、アマテラスは紀伊に、倭大国魂神は東海に、大物主は倭に縁が深いことになる。

そもそもヤマトトトヒモモソヒメという大物主に仕える巫女が既にいるのにも関わらず、何故大物主がオオタタネコを引き入れるという話になった……?


どうやら話が見えてきたようである。

このことから筆者が導き出した最終結論はこうである。


①オオタタネコの故郷だという難波(なにわ)丹波(たにわ)というのは名前も似ているし、当時は物理的に近かったので密接に繋がっていたのだ。

そしてオオタタネコは大和の北側から入ってくると、紀伊や伊勢でも見られたアマテラス信仰を追い出したのだ!

それが、崇神天皇時代にアマテラスを奉る場所を転々とさせたことの理由である。

言うまでもないことだが、アマテラスは女神ではない。この時代では、ニギハヤヒと同一である。

オオタタネコはヤマト外部の王なので抵抗もあったが、ヤマト内部の者が強く推したようである。

具体的にはニギハヤヒの後裔、大水口宿禰、大物主の巫女で卑弥呼ではないかとも言われるヤマトトトヒモモソヒメ、それから名前からして明らかに伊勢出身であろうと思われる、伊勢麻績君など。人選が怪しい。

また、考古学的には三世紀後半以後、出雲地方特有の四隅突出型の古墳が姿を消し、前方後円墳が見られるようになるという。

ということは、筆者の想定を修正する事になるだろう。

オオタタネコは出雲の姫を妻にしていた。故に力があったからヤマトを征服出来た、ではない。


②:むしろ逆で、高貴な「かもべ」の母親や有名なタケミカヅチ、大物主などといった大物を祖先に持つオオタタネコが、正当にヤマトの王になった、と考えるべきなのだろう。

そしてヤマトの力を振るい、出雲を征服して出雲の姫を得たのである。

オオタタネコの力の源泉は既に挙げた高貴な血筋だけではなく、大坂に拠点を持っていたという立地も関係しているはずである。

ヤマトは川で海と辛うじて繋がる内陸国家。そのヤマトへの入口である大坂を押さえる事が、もしかすると古代の大王が大王足りうる要素の一つであったのでは?

纏向遺跡からは各地の土器が出土しており、中でも吉備系の(ざっくり言うと瀬戸内海側の中国地方。山陽地方とも言うのかな?)数が非常に多く、東海地方側も多い。

となると、大坂を押さえたオオタタネコや、東海・関東からの物品を取り仕切る事の出来る美濃や伊勢が力を持っていたはず。

商品物流の中継地点にいることが、どれほどの利益を生んだことか想像に難くない。

それが、天皇家の娘を毎度差し出させるほどの力を伊勢にもたらし、オオタタネコにはヤマトの王になるほどの力を与えたのであろう。

伊勢麻績君が「オオタタネコをヤマトに」と推したことは、その辺に理由が求められるかもしれない。

先ほど美濃がどうとか言ってたが、美濃加茂市というのがあるので、やはり美濃にも賀茂(かも)の(賀茂はオオタタネコが祖であるとされる)魔の手が伸びていたのだろう。


③:オオタタネコはどのくらい生きたかは不明であるが、何をやったかはわかる。

四道将軍なる者を使わし、出雲を手中に収め、姫を得たのである。

オオタタネコは、どうも古代の尊称の集合体であって本名ではないのかな、と思う。

本名はミマキイリヒコだったりしないだろうか。纏向(マキムク)に入ってきた王として。

ちなみに崇神天皇はミマキイリヒコという。


ああ、だめだ。どれだけ考えても、ここにどうやって九州が絡んで来るのかわからない!

九州を絡める事が出来なければ、ヤマトが九州に征服などされていない、と否定が出来ない。


うーむこれは困った。となるともう神宮皇后時代という中国の歴史書にも日本の動向がなく、日本側の記述が死ぬほど胡散臭い時代に九州が影響したとしか考えられない。

そもそも国の大きさ強さは土木工事、建築の規模によっておおむね測れる。

法隆寺など飛鳥時代の初期仏教建築を見るあたり、当時から相当な力を朝廷が持っていたことを伺わせる。

また、巨大古墳時代も当時日本が出来た最大の土木工事であっただろうから、その財力、支配力が伺える。


しかるに九州という土地は巨大建築がない。

太宰府くらいのものである。邪馬台国の遺跡や卑弥呼の墓など望むべくもない。

纏向遺跡程度の都市跡すら見つかっていないのである。


たまに邪馬台国が奈良を征服したという説を唱える人がいるが、こういう人は大抵出雲や吉備が強大な国であった事を無視している。

ヤマトと九州の間にはそうした先進国が存在し、特に紀元前後の数世紀における出雲の勢いは凄まじかった。日本最先端地域であった。

その出雲ですらヤマトの前方後円墳が出現する事により、ヤマトに征服されていることはもはや歴史的事実と言ってよい状況。

その出雲を乗り越えてヤマトを倒すということは、かなり無理があるシナリオと言わざるを得ないのである。


ただ、ここまで筆者が書いてきたのはオオタタネコが大坂と丹波と紀伊にゆかりがあるっぽい、という事だけ。

決して天皇家には触れていない。天皇家というのはオオタタネコと三輪氏、賀茂氏の力が弱まってきた頃、九州からヤマトへ「上京」してきていた人材であったという可能性も十分考えられる。


ただ筆者は、海部氏系図を見る限りやっぱり天皇家は丹後の海部氏(あまべし)から来たのではないか、と思う。

中国の隋書には「日本王家は『アマ氏』である」と記述されているのだ。

するとやっぱり、初代天皇はオオタタネコで、大坂出身ということになる。

うーん。でも何か締まらないなぁ。初代王がオオタタネコなんて名前だと。

考古学的見地を持ち出した結果、出雲が大和を侵略というのはどう考えてもなさそう。

かといって、九州が大和を征服したというのも有り得ない。

一体何故大和がそんなに力を持ち得たのか。日本史最大の謎はそこかもしれない。

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