【大神神社へいってきた】
ところで、実は先日私は大神神社に初めて足を運んだのである。
写真とか撮るほどの事もなかったが、なかなか古代史好きとしては面白かったのでここで得た情報をもとに仮説を論じていく。
まず、私が最初に訪れたのは磐座神社という摂社、つまり大神神社のある三輪山に内包されたこぢんまりとした神社である。
ちょっとした古い岩と祠、それに立てられた看板のある本当にこぢんまりとした神社だった。
皆さんの町にあるそのへんの神社でもこれよりは遥かに大きいであろうと思われるが、ここで気になる記述を発見した。
その神社の木製の古びた看板には神社の由緒が書いてあり、少彦名の神さまが岩に宿っており、この三輪山の大物主の神とともに彼が日本中を回ったのであると記述されている。
ここでは明らかに大国主と大物主が完全に同一視されている。
古事記などによればスクナヒコナと一緒に旅をしたのは大国主である。
しかし一体どこの誰が大神神社の神に関する見解にケチをつけられようか?
むしろ私はこちらの方こそ真実であると考える。
古事記などの記述は間違いで、大物主イコール大国主と見ている。
しかし問題はここから。果たして大物主が大国主とイコールだとして、大物主とはニギハヤヒなのであろうか?
いやなにを急に唐突な事をと思うだろうが、まあ一つ聞いてほしい。
すでに書いてあるのだが、その点に対する私の見解をもう一度。
この大神神社へ向かう際の道路標識で不審に思ったのだが、奈良県桜井市の三輪山のすぐ近くでよりによって出雲という地名が出てくる。
意味不明である。しかも三輪山の神様は大物主で、大国主とイコールであるというのが大神神社公式の見解なのである。
奈良の大和、特に三輪山のある地方は出雲、つまり島根県の方の影響が何故か強いのである。
この点を踏まえてもらって、一度神話をおさらいしておこう。
公式記録によると紀元前七世紀の頃。九州、日向。
南九州には天照大御神の直系子孫であるイワレビコ、のちの初代・神武天皇がいた。
神話によると既に当時から奈良盆地というところは遠く九州にすら音に聞こえる繁栄ぶりで豊かな国であったという。
中つ国。日本の中心と呼ばれた奈良を奪取しようとイワレビコは九州や中国地方などを巡回して勢力を集め、大阪湾から奈良盆地へ一直線。
しかし、天照大御神の直系子孫には二つの系統があり、イワレビコの遠縁にニギハヤヒなる神様がいた。
ニギハヤヒは既に奈良盆地を支配しており、イワレビコと天の神同士で争う事となったのだが、その場合、太陽をバックに東側で戦う奈良盆地側のニギハヤヒ勢力と太陽に立ち向かって戦うイワレビコでは、最初から不利であったらしい。
ナガスネヒコというニギハヤヒの部下は妹をニギハヤヒに嫁がせるほど関係を密にしており、この奈良のナンバーツーとでも呼べる武将によってイワレビコは敗戦する。
しかし天のタカミムスビの神は一計を案じ、ヤタガラスという正体不明の存在をイワレビコに差し向け、一旦紀伊に向かわせる。
紀伊ではタカクラジなどといった神様がイワレビコの味方につき、イワレビコは勢力を回復してもう一度奈良を攻めた。
今度も出てきたのはナンバーツー、ナガスネヒコであるが、イワレビコはニギハヤヒと自分達が天の神の加護を受けている事を確認する。
イワレビコを信じないナガスネヒコはあくまで奈良を守ろうとするが、何故かニギハヤヒはあっさりと負けを認めただけでなく、ナガスネヒコを殺して完全に恭順したようだ。
これにて奈良盆地は神武天皇の物となる。神武天皇は奈良の西側にある葛城の国をツルギネノ命に、東側の倭の国を長尾氏の椎根津彦に与え、自分はその真ん中の橿原に宮を立てて天皇になった。
なお、ツルギネの命と椎根津彦がこれほどの報償を得るほどの活躍をした記録はないのだが、とにかく国を貰ったようだ。
その後、二代目から九代目の事績は全くと言っていいほど語られず古事記や日本書紀など、日本の古代史を記す文献では突然十代目の崇神天皇の話へ飛ぶ。
十代目の崇神天皇は大物主の祟りのせいだという疫病や災害に悩まされ、日々苦悶していた。
そこへ夢枕に大物主の神様があらわれ、「三輪山の祭祀を陶村に住んでいる『オオタタネコ』に託し、大物主を祭る社などを新調してくれれば、私が祟ることはない」と語った。
陶村といえば大阪の方にある。崇神天皇以外にも重臣が数名、この夢を見たと主張する。
崇神天皇は確かにこの疫病や天災は大物主の神の祟りであると考え、オオタタネコを呼び寄せた。
あとついでに椎根津彦の子孫だという市磯長尾市なる長尾氏の者も外から呼び寄せた。
彼ら助っ人の活躍により、この世に平和が戻ってめでたしめでたし! おしまい!
ここまで読んでわかったと思うが、この神話は不審過ぎる。
政治的意図を感じずにはいられない上に、初代と十代目のエピソードはほぼ連続しているにも関わらず、二つのエピソードに類似する点が多い。
①:オオタタネコは葛城を神武天皇に与えられたツルギネノ命の親類であるという家系図が残っている。
同じタイミングで入ってきた市磯長尾市は同じく天皇に倭の国を与えられた椎根津彦の子孫だという市磯長尾市である。
何故か同じ事が繰り返されている。
②:外部から入ってくる人間を、奈良内部の人間が「私よりあなた方の方が適任です」と言わんばかりに迎え入れる。
これは初代神武天皇の神話と崇神天皇の神話で、立場は逆になるが共通している。
これらの事から考えて、私は一つの結論に至ったのだが、どう思うだろうか?
『古事記や日本書記では初代・神武天皇による奈良盆地侵略を描いた。
崇神天皇のエピソードは、奈良盆地に外部の者を受け入れる話を描いた。
これらは描く視点が違うのと巧妙なカモフラージュをしてはいるが、実は全く同じエピソードではないだろうか?』
まさか、と思うだろうか。まあ今は信じなくてもいいので、もう少し付き合ってほしい。
続いてオオタタネコだが、この男がなかなかくせ者である。
この男の妻は、神門の臣の美良姫であるという。
同じ崇神時代に、出雲の神門の臣が登場しており、まるで出雲の支配者のように振る舞っている。
いや、事実支配者なのだ。この家こそが出雲の王家だとすら言える。
ではなぜオオタタネコがこの家の姫らしき女性をめとり、奈良の三輪山に突然入ってくるというのか?
そして崇神時代に出雲王家が大きく揉めているらしい描写があるのは?
そもそも、何故急に大物主が崇神時代に出てきた?
神武時代にはこの地方の神はニギハヤヒだったではないか?
しかも大物主は大神神社の見解では出雲の大国主と同一である。
つまりオオタタネコは大国主の子孫であり、出雲の王家の姫をめとり、突然奈良盆地の三輪山の祭祀を司るようになっても歓迎されても、拒絶されはしない存在ということになる。
私がオオタタネコを『真の王』ではないかと思うのはこのゆえである。
次にそのオオタタネコの祖先という大物主が、果たしてニギハヤヒなのかという非常に大事な点だ。
大物主は三輪山の神であるはずだ。その大物主が、神武天皇の時代には沈黙を貫いている。
そしてこのときにしかニギハヤヒの出番が無い。ニギハヤヒと大物主は同時に登場しないのである。
また、注目したいのがニギハヤヒは天照という名前のつくほとんど唯一の神様。
他にはあの有名な天照大御神以外に存在しないのだが、オオタタネコが入ってくる直前くらいから崇神天皇は天照大御神への信仰を開始している。
というより、それ以前の天皇家が直系祖先である天照大御神に対してあまりに淡泊過ぎたのが不自然と言った方がよい。
ちなみに大神神社に行ってみたところ、若干うろ覚えなのだが「三輪山こそが天照大御神が初めて降臨なされた地である」という看板を私は発見している。
確かにその見解は古事記と一致しており、崇神天皇の前に天照大御神が姿を現したのが彼女の初降臨であると思われる。
なお天照大御神初降臨の場は他にもあるが、ややこしいので無視する。
三輪山は天照大御神初降臨の場。そして三輪山は大物主の山。
そして、何故か天照大御神と非常に関わりの深いニギハヤヒが神武東征開始時点で既にここを守っていたという事実。
天照大御神=ニギハヤヒ=大物主=大国主では?
私はとんでもない結論に至ってしまったのではないだろうか?
我ながらとても信じがたい。でもそう考えれば不審な点にもつじつまが合う。
①:天照大御神を祭る巫女は崇神の実の娘。しかしそれでも疫病は収まらず、オオタタネコを外部から呼んだ。
オオタタネコこそが大国主=大物主の子孫であるため疫病などはおさまった。
逆にいえば崇神の血筋にその力はない。という文脈である。
なぜだろうか。大物主はこの話ではまるで崇神が自分の子孫ではないかのように振る舞っている。
神武天皇は、大物主の娘を妻にもらっているはずなので崇神も大物主の子孫なのだが……?
神武のエピソードで出てきたニギハヤヒと、この崇神は同一であると考える。
どちらも在地の奈良の豪族で、力のあるオオタタネコに敵わなかったのである。
そのことを神武・崇神の二代のエピソードで描写しているのだと私は考えた次第だ。
②:天照大御神、ニギハヤヒ、大物主はそれぞれ共演する事がない。それは三者が同一だからであると簡単に説明できる。
③:古代ヤマト王権にとって大事だったはずの奈良県桜井市に、敵のはずの出雲という地名が存在する意味も、要するに天皇家というのは九州出身などではなく出雲系の出身を持ち大阪に拠点もあり、出雲の姫を妻にしたオオタタネコが初代ではと睨んでいる。
ではこの突拍子もない説が導くさらなる信じられない結論を先にお見せしよう。
『オオタタネコとは、初代天皇・神武天皇である』
信じられないかもしれないが、まずはこちらを見てほしい。
神武天皇 母親:ワダツミの娘、タマヨリヒメ 妻:大物主とタマヨリヒメの娘、イスズヒメ 子供:複数
まず不審なのが彼の祖先である。祖父はワダツミの娘トヨタマヒメとの間にフキアエズを産んだ。
フキアエズは実の叔母にあたる、トヨタマヒメの妹、タマヨリヒメを妻にした。
それで神武が出来たのである。フキアエズはまるでタマヨリヒメと結婚するためだけに出てきたような不審な神様。
何を表現しているのであろうか。神武は四分の三、ワダツミの血を引く事になる。
また、中国の歴史書・隋書には「日本の王家は『アマ氏』である。祖先は『アメノミナカヌシ』だと主張しており、アマタラシヒコが隋の時代に皇帝に会いに来た」とある。
これがどの程度真実かは不明だが、「アマ氏」というのは海ということであるとみて間違いない。
初代天皇が海神ワダツミの血を色濃く引いているというのは、これは信じて良さそうだ。
それにしてもこれは余談になるが、祖先がアメノミナカヌシというのはちょっと不可解な気もする。
アマテラスはどこに行ったんだろうか。
そもそも「アメ」や「アマ」のつく神様は「天」の字をそう読ませているのはご存知の通りだと思うが、神武天皇の出自を見るに「アマ」とは「海」の事ではないかと思う。
また、この「アマ」「アメ」系の名前は出雲系でない神につく。
出雲系の人物にのみ、「タケ」「タカ」がつく。
次に妻のことだが、そもそもニギハヤヒがどこに行ったのかがカギだ。
神武東征のときに沈黙を貫いていた大物主がちゃっかり新支配者の妻に娘をやっているのが実に不審ではないだろうか。
このことから見て『最大の強敵ナガスネヒコを内部から排除し、新支配者を迎え入れた功労者』として神武に遇されたはずのニギハヤヒがその後一切消息を絶つ事もニギハヤヒ=大物主であるとすれば簡単に説明がつくのである。
つまり、そういった政治上当然起こるであろうと私が予想したことをニギハヤヒ=大物主はちゃっかりこなしている。
納得してくれただろう。私は、ニギハヤヒが大物主でないほうが逆に不自然だとすら思う。
では次にこちらを見ていただきたい。
オオタタネコ 母親:大物主の妻、タマヨリヒメ 妻:出雲の神門の臣の娘、美良姫 子供:オオミケモチ
ちなみに資料によってはオオタタネコは大物主の直接の息子ではなくもう少し世代を経ているともされている。
いずれにしろ大物主の子孫で(筆者は大物主は大国主およびニギハヤヒと同一と思っている)あることは間違いなく、出雲王家の姫を妻にしている。
さて、次に子供なのだが、オオミケモチという大層な名前がついてる。
モチ・ムチという名前は大国主の別名・オオナムチおよび天照大御神の別名とされるオオヒルメムチ以外に、筆者が知る限りいない。
どちらも神格としては最高峰である。しかも筆者の睨んだところによると両者は同じものである。
天照大御神に女性のイメージがついたのはかなり後世の事であり、奈良時代くらいからではないかと筆者はにらんでいる。
日本史上最大級の要注意人物・天武天皇の妃であった持統天皇に関係があると思うのは、こじつけだろうか?
そんなご大層な名前の息子がいるオオタタネコとは一体?
さてオオタタネコの紹介も終わったところで、彼と名前のそっくりな天種子という神様を紹介する。
天種子 母親:アヒラヨリヒメ 妻:アメノミズタマテルヒメ
母親と妻の名前が神武天皇に酷似していることが容易にわかるだろう。
アヒラヨリヒメの『アヒラ』は宮崎県に実際に存在する吾平ではないかと思われる。
ここには何と神武の父、ウガヤフキアエズが葬られた山があるというが……。
筆者はわからない。天皇家とは九州から来たのか。
それとも出雲の姫を妻にしたオオタタネコが周辺勢力を圧倒した巨大な力で奈良を制圧し、その後天皇家となったのか?
ちなみに、この天種子は中臣氏つまり藤原氏の祖先の神であるとされる。
果たしてこの一族とは……謎は深まるばかりである。
では今回のまとめ。
①:筆者が大神神社へ行ったところ、神社の見解では大物主は大国主と同一であった。
②:大物主は神聖なる三輪山の神なのに、神武東征の際にはニギハヤヒばかりが奈良の神様という風な感じで大物主は影も形もない。
では当時大物主がいなかったかというとそんなことはない。
神武の妻が大物主の娘なのだ。新たな支配者の妻。
当時の奈良の人間なら誰だって姉妹や娘をその席へ推したいはず。
それが何故、神話に影も形も出てこなかった大物主の娘なのか。奇怪であると言わざるを得ない。
そこで筆者はこう考えた。
『ニギハヤヒとは大物主の別名である。
神武天皇が奈良へ入る際に最も邪魔なナガスネヒコを内部から排除し神武を招き入れた功労者としてニギハヤヒは遇されたはず。
その際に彼が娘を神武と結婚させることに成功した。
神武の妻は大物主の娘。大物主とはニギハヤヒの事である!』
ちなみに神武の妻の母親は神武天皇を手引した『ヤタガラス』こと『カモタケツヌミ』の娘である。
そのヤタガラスの娘が大物主の娘を産んだ。
従って大物主とヤタガラスは姻戚関係であり、ヤタガラスと神武もこれは当然姻戚関係ということである。
「神武を導いたヤタガラス」が、「神武を招き入れたニギハヤヒ」と姻戚ならわかる。
だが「大物主と姻戚」なのである。「大物主=ニギハヤヒ」としか思えない。
③:その大物主は十代目の崇神天皇のとき国中に祟りを振りまいたという。
崇神及びその他重臣の多くが『大物主が立派な社を立てて自分を祭り、祭祀をオオタタネコに任せろ』との夢を見たと記紀には書かれている。
そこで崇神達はオオタタネコを招き入れたという話だ。
ちなみに、政治とは中国からの言葉で、本来の日本語では『まつりごと』と言う。
それが示すように古代では政治と祭祀は一体であり、祭祀を任せたら政治も任せたという事である。
「神のお告げである」と宗教権威のある人物が言えば全てまかり通った時代なのだ。
それをオオタタネコに任せるというのは奇妙な話である。
極めつけとしてオオタタネコの妻だ。
妻は出雲の神門臣の美良姫。
言うまでもなく出雲のお姫様である。弥生時代から古墳時代初期、出雲は非常に強大な国であったと考古学的発見から実際に判明している。
そんな女性を妻とするオオタタネコが突然三輪山の祭祀を一手に引き受けるとは、これはもう『侵略』のにおいがして来ないだろうか?
筆者はこの説話をこう分析した。
『この伝説は実際には崇神天皇のものではないと筆者は考える。
この伝説は神武東征を奈良側の視点で(当然、天皇家に都合よく)書かれたものだ。
普通に考えて一斉に皆が予知夢など見るわけがない。
オオタタネコを招き入れざるをえなかった、何か途方もない事情があったのである。
とすると侵略としか考えられない。侵略を穏当に表現した結果、予知夢という表現になっただけだ。
ということはつまり、オオタタネコは神武天皇とイコールになる。
実は奈良は九州・宮崎出身の男にではなく、出雲の姫を妻にもつ大坂の人間に侵略されたのである。
もっとも、オオタタネコが大坂出身かどうかはハッキリしないが』
また、ついでに付け加えておくと「大物主」とは「アマテラス」が出雲風に変えられた名前ではないかと思う。
筆者の考えでは「アマテラス」は奈良・近畿の文化圏のものであると思う。
そして次に出雲の(オオタタネコの)征服で「大物主」となった。
九州の文化圏ではその神様の名前は『ニギハヤヒ』や『ホアカリ』という名称なのではないか。
というのは神武東征に際して積極的に指揮をとっているのはタカミムスビである事が関係している。
言うまでもない事だがタカミムスビは日本神話の事実上最高神で、誰も、アマテラスでさえタカミムスビには逆らわない。
そのタカミムスビと対になるカミムスビは出雲系と非常に関わりが深い。
大国主の相棒と言えばスクナヒコナだが、彼の親はカミムスビなのである。
しかし大神神社の見解では大物主がスクナヒコナと相棒になったとなっている。
このことからみて奈良の特に三輪山周辺は出雲の影響が非常に強い。
三輪山のすぐそば、桜井市に出雲という地名があり、三輪山へ行くときに筆者も通ったものである。
また、アマテラスといえば伊勢神宮。
また大国主と大物主は名前が似ており出雲系の感じがする。
一方、ニギハヤヒという名前は確実に九州だ。
消去法になるが、やはりアマテラスというのは近畿の名前のはず。
一方『ニギハヤヒ』だが、南九州・高千穂と縁の深い『ニニギノミコト』に名前が似ている。
実際近い親類だから当たり前だが、やはりこれは九州の言葉のように思う。
「ニギ」は恐らく神社の禰宜と同じ意味の言葉であろう。
そして出雲、及び出雲が侵略したのだと筆者が考えている奈良の文化圏では「ネコ」がそれに対応する言葉であると筆者は考える。
オオタタネコのネコの事だ。ネコとニギ、どちらも『権威ある偉い人』という風な意味合いであると思われる。
難波の根子・武振熊なる人物が神功皇后の時代に大坂にいたようであるが、やはり「ネコ」とは何か偉い人というニュアンスがありそうである。
だから、九州からの視点で描かれた神武東征神話では奈良側で神武を迎え入れた人物が「ニギハヤヒ」と呼称され、奈良視点では「大物主」と呼ばれるのだと考えると、すっきり筋が通る。
皆さんはどう思うだろうか。神武と崇神、二つのエピソードは独立していると思うだろうか。
それとも同じエピソードを別の視点から描いたものだと思うだろうか。