【日本建国の真実を筆者は解いた!?】
オオタタネコとヤマトと神武天皇の新事実
いやーどうも。皆さんもう私が口をすっぱくしてオオタタネコの話を何回もしてきたことは、身に染みて覚えてますよね。
ついでに覚えているかな。丹後の熊野郡にある神谷神社を。
祭神は丹波道主命。この人の子が垂仁天皇の妃で、ヤマトタケルなどを生んでいる。
次に神社で祭られてるのが八千矛神や天神玉、そして最後に天種子だ。
このアメノタネコは、孫がミケツオミである。
オオタタネコは息子がオオミケモチと伝わる。
奇妙な一致である。99%この人たちは同一人物ではないかと筆者は語った。
それで、丹波道主の別名を紹介したい。
「旦波比古多々須美智能宇斯王」
オオタタネコと同じタタが入っている!?
奇妙なことにこの人は息長水依比売から生まれている。
なお、息子のサホビコと垂仁に嫁いだサホビメは垂仁に反乱を起こして鎮圧されているという。
この丹波道主怪し過ぎる。
それを何故か中臣氏の祖先である天種子と一緒に祭る神谷神社が奇妙。
さてこの丹波で(古代の区分。今は丹後)有名な神社は?
ディープな由緒を持つ古い神社はどこなのか?
答えは籠神社。読み方は「このじんじゃ」だがここでは天火明を祖先神とし、その子供が天香山であり、ヒコホホデミが籠に乗ってここに漂着した等という伝説まであるので、カゴ神社で間違いないだろう。
ここの海部氏は天火明を祖先神とし、尾張氏とも住むところが違うだけでほぼ同一の血族とする。
さて、この神社にあるのが 『海部氏勘注系図』である。
『海部氏勘注系図』は『先代旧辞本紀』を参考にしているとも言われる。
あるいは 『海部氏勘注系図』は『先代旧辞本紀』と同一の祖または原本を持つのかも知れない。
それでだ。 海部氏系図によると、こんなことが書かれている。
初代は天忍穂耳命。またの名を勝勝速日である。
その息子が天火明命。ホアカリが天道日女または道主日女との間にもうけた息子が天香山である。
何故か丹波の道主の道主が同じだが果たして……?
その息子が天村雲である。
天村雲がアヒラヨリヒメをめとって生まれた子供が天忍人命。
ところが、この天忍人は別名倭宿禰=椎根津彦であると海部氏系図は語っている。
椎根津彦の子孫は「倭氏」を名乗っているというのだから、その由緒は半端じゃない。
その倭氏が海部から出ているとは一体どういう事だ?
それに海人をアマといい、大海人皇子は天武天皇である。
天照大御神に代表されるように、アマがつく人は、実は元は「海」ではないか?
高天原は、高海原ではなかったか? と筆者はこれを知って思うようになった。
あま、あめという言葉は天垂れる雨ということで意味は通じる。
何故「天」は「テン」とか「ソラ」とかいう名前じゃなく「アメ」「アマ」なのかっ!?
それは海部出身の倭氏・椎根津彦や神武天皇や天武天皇が海人だったからであるっ!
ということで「倭氏」という名前の割にはマイナーな人物を紹介した。
これは海部出身ということも話しており、ご理解頂けたと思う。
ところで天押雲根という人物と海部氏の遠い祖先の天村雲は同一人物ではないか、とする説がある。
どちらもアヒラヨリヒメをめとっているからだ。奇妙な事だ。
天村雲がアヒラヨリヒメとの間にもうけた子供は椎根津彦である、という。
逆に天押雲根がアヒラヨリヒメとの間にもうけた子は天種子である。
同一人物ではないと思うが、この人たち、兄弟かなにかでは?
何と恐るべき事か。中臣氏と海部氏、尾張氏の祖先が同じであるという奇妙な結論に至ってしまいました。
ここで播磨国風土記の文章を引用してみよう。
「託賀郡荒田が荒田と名づけられた由来は、ここに坐す神、名は道主日女命、父なくして御子をお生みになられた。
盟酒を造ろうと思って田を七町作ると、7日7夜のうちに稲が成熟した。酒を醸造し、諸々の神を招いて、御子に、父神に酒を捧げさせると、御子は天目一命に酒を捧げたので、この御子神の父神がアメノマヒトツであることが判明した。
後にその田は荒れてしまったので、荒田の名がついた」
荒田というのは兵庫、大阪、和歌山に存在する神社で大阪府と和歌山県のものは同じ氏族が祭祀を司っていた(今はどうか知らない)とのこと。
言うまでもなくオオタタネコと関係がある。
また陶荒田神社ではタカミムスビの神と剣根神を祭っており、紀伊の荒田神社も同様である。
剣根命は椎根津彦と同期であり、ヤタガラスの息子の息子である。
世代的に考えると剣根の従姉妹をめとった神武天皇より少し年下、だろうか?
当時神武の正妻イスズヒメが何歳だったか考えるだけ無駄かも知れないが、息子のヌナカワミミがイスズヒメの妹のイスズヨリヒメと結婚している事から、神武よりかなり若かったと思われる。
ということは、剣根は神武より下でその息子よりは年上くらいだろうか?
これと椎根津彦は二人とも同じく神武天皇から初の国造に任命される。
剣根は葛城国造、椎根津彦は倭国造に同時期に任命されている。
奈良を東西に二分する地域を大盤振る舞い。半端な待遇ではない。
で、大阪にある真偽不明の伝承によると、大阪にいた「 大々杼彦仁」なる人物が神武のために紀伊で奮戦したため「剣臣」の称号をもらったという。
大々杼彦仁は大々杼国造に任命されたという。
で、 大々杼の祖は武甕槌の神様であり、古事記で何故か縁もゆかりもないはずの紀伊の高倉下に武甕槌が力を貸し、高倉下が神剣フツノミタマで神武天皇を救った事と大阪の真偽不明の伝承が奇妙に一致する。
それで高倉下の異名は天香山で、 天香山は彦火明命と天道日女の子で海部氏の祖先である。
神話の奇妙な部分を大阪の謎の伝承は説明してくれているが、筆者自身はこれを絶対真実だと思っているとはいえ、これこそが歴史の真実だと強弁する気はないということは断っておく。
ただ、これを信じるならば彦火明の子またはその子孫 (?)が葛城国造と倭国造を同時に任命されているということになる。
記紀の神話によるとニギハヤヒの子孫の氏族が出てくるのは古墳時代に入ってから物部氏と尾張氏がようやく力をつける、という程度。
古事記を読むだけでも最大の敵であったナガスネヒコを排除し、神武を招き入れてくれた神武大和入り最大の功労者ニギハヤヒの子孫はもっと早くに歴史に登場していてしかるべきである。
そう。実は神武政権の最初でもう登場しているかもしれないのだ。
それが大阪の伝承や海部氏系図を調べた結果、葛城国造と倭国造かもしれないのだ。
奇妙である。偶然の一致とは怖いなあ。筆者はこの伝説は真実だと、信じて疑わない。
継体天皇もこの伝説によると大々杼郷=大阪東部の百々石城宮で生まれたとのこと。
ヤマトトトヒ「モモ」ソヒメは邪馬台国の卑弥呼ではないかと言われてる事で有名だ。
彼女は「シキ」つまり三輪山周辺の奈良盆地東部にいた。
一方、モモソヒメの弟の吉備津彦はモモタロウと同一人物ではないかと言われる。
古代史をよく知っている人以外はちょっと驚くかも知れないが、「モモソヒメ」の弟は「モモタロウ」で吉備にはクラ「シキ」がある。
キビとヤマトはモモとシキで繋がるのだが、何故大阪にモモシキノミヤがあるんだ!?
スマン。正直話がそれた。戻そうか。
要するに筆者が言いたいのは葛城国造に任命された剣根命は恐らく大阪から来た人であり、 椎根津彦は倭国造で、どちらも一番最初のヤマト政権内部で非常に重要な役割であるということ。
二者は明らかに同族であり、椎根津彦は丹波系であり、剣根命は大阪系であり、大阪は難波=なんばで、椎根津彦の海部氏は丹波=たんばなのである。
これが偶然の一致か? いやいや。ありえない。
【まとめ】
まず、オオタタネコの父は事代主神の6世孫・建飯賀田須命。
母は生玉兄日子命の4世孫・鴨部美良姫で、神門臣の娘・美気姫を妻とし、子の大御気持命から三輪氏、鴨氏、神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。
それでこのオオタタネコの妻の神門臣の美気姫というのは出雲国造家出身である。
その証拠に出雲国風土記では、出雲振根は「神門臣古禰」という名前で登場する。
そしてオオタタネコの息子がオオミケモチである。間違いない。
筆者の調べた限り最後にモチ・ムチがつく人は本当に少ない。
オオヒルメムチ=天照大御神
オオアナモチ=大国主
オオミケモチ=気比大神である。
いずれも神格が非常に高く、また、天照大御神を除く二人はどっちも出雲系であることがよくわかる。
奇妙な事である。そもそも、記紀によると神武から欠史八代までは、ヤマト政権に山陰地方、つまり出雲の本拠地たる地域は全然関わって来ない。
崇神天皇の時代にようやく出雲と関わりが出てくるわけだ。
この出雲の国造家の娘をオオタタネコがめとっており、息子が気比大神として各地で信仰され出すのは全く奇妙な話だ。
その後崇神天皇はこの出雲国造家に吉備津彦=モモタロウなどを送り込んで戦争を引き起こし、介入していることが記紀の記述から伺える。
ヤマト政権と出雲の繋がりはどの時点で始まったのか結論は出ないが、
もしかするとオオタタネコが河内から入ってきた事を契機とするかもしれない。
それで、何故かオオタタネコは天種子とほぼ確実に同一人物であり、
天種子の祖母はタマテルヒメ、母はアヒラヨリヒメかもしれなくて、
神武天皇の祖母はトヨタマヒメ、母はタマヨリヒメで、
オオタタネコの息子はオオミケモチ、神武の名は古事記によるとワカミケヌもしくはトヨミケヌだからワカやトヨのよくある尊称を抜けば「ミケヌ」だとしても、
敦賀の神はミケツオオカミ=気比大神だとしても、
これが新羅のツヌガアラシトと同一視されるとしても、
天皇家の皇室八神の中に天照大御神や天之御中主をさしおいてミケツオオカミがいるとしても、
神武に協力した倭氏=椎根津彦は丹波系で剣根命は大阪系でどちらも始祖は彦火明で、丹波系かもしれないとしても、
「なんば」は「たんば」から来ている可能性が高いとしても、
纏向遺跡の発掘調査の結果九州や大陸由来の品は微量で近畿以外だと東海系土器が一番多くて、
東海の尾張といえば海部と同一の祖先を持つ尾張氏であったとしても、
何故か大阪河内地方では海部・尾張氏系の丹比氏が多遅比野と呼ばれる広大な土地を治めてたとしても、
継体天皇がこの河内出身という伝説があり、継体を輩出した息長は河内から生まれたなどという話があり、継体を推挙した物部氏の勢力は河内で強く、物部はニギハヤヒ後裔であり、継体の子の宣化の流れがこの丹比郡を管理する多治比氏になったとしても、
大阪から何故かオオタタネコが出て来ているとしても、
ヤタガラスも大阪だけど、実は丹波のイカコヤ姫をめとっているという山城国風土記の記述があったとしても、
何故か崇神天皇の時河内から出雲王家と言っても過言ではない神門臣の娘をめとっているオオタタネコがやってきて、
大神神社や三輪山の祭祀を司るようになり、
大和神社も長尾氏が乗っとったという記紀の記述があり、
崇神はしばしば神武天皇と同一視され、
息子の垂仁以降は丹波系の外戚家が幅を利かせ始めるとしても、
何故か天をあまと呼び、あまは海部と通じるとしても、
隋書や中国の書物では頻繁に「倭国の王はアマ氏である」
と明記されているとしても、
「神武天皇とは丹波にルーツをもち、出雲と婚姻していた大阪系の豪族オオタタネコそのものもしくはその息子であり、
崇神時代に河内から来たオオタタネコは実は神武時代の天種子と同一であり、
実は神武に従ったとされる椎根津彦や剣根命も、
オオタタネコの兄弟や非常に近しい間柄の人物であり、
実際にはニギハヤヒは大和の支配者ではなくナガスネヒコが本来の大王で、
天皇家はオオタタネコ=鴨系統=大阪系と海部系と出雲王家の混合で、中臣氏はナガスネヒコの後裔である可能性が筆者の理論上は高く、
ニギハヤヒとは彦火明であり、
それを崇める氏族つまり海部と尾張が大和へ持ち込んだもので、
欠史八代はそんな海部系の人の子孫ということであり、
欠史八代に妃を出したのはニギハヤヒと血縁にある氏族か丹波やオオタタネコと繋がりのあるカモのみであり、
アマテラスなどアマがつく神は海部出身の天皇家が日本の中心だからこそこんなに多いのであり
北近畿は鉄器も大量に出土するような先進地域であり、
北近畿の強大な力を大和が得たことが纏向遺跡などに全く戦いや征服の跡が見られない理由であり、
中臣氏はもしかすると九州出身かもしれないが、
天皇家は明らかに丹波系の影響の強い氏族である」
なんてクレイジー過ぎて小説家になろうですら迂闊に披露できない理論なので、別に強弁はしない。
オオタタネコとかいう男はどこまで私を狂わせるのか