【新シリーズ 古代史上最大の豪族・中臣氏の謎を筆者は解いた! その3】
注意!このシリーズには暴力・妄想・渡来人などショッキングな内容が含まれます。
それではおさらい。
1.当然中臣と言えば古代最大の豪族だけど、どういうわけか天児屋根を祖先として奉っている中臣氏は武甕槌も奉っていて、祖先を武甕槌とする書物もあるよ!
2.武甕槌は、何故か古事記によると大物主の子孫でオオタタネコの父親らしいよ!
3.なら中臣氏はオオタタネコの親類じゃねーのと筆者は睨んだよ。
4.書物ではオタタネコは大阪八尾出身だったよ。案の定中臣系の神社が大量にあるよ。
なお、もうひとつ同じく大阪の三嶋っていうところもオオタタネコと中臣氏ともに関わりが深いみたいだよ。
5.いろいろこじつけて、筆者はどうにかして中臣氏は渡来人だと決定付けたくて朝鮮系の神を調べた結果、オオタタネコの周囲は渡来人だらけだったという結論になったよ。
6.つまり中臣は渡来人。オオタタネコの祖先の大物主は渡来人。オオタタネコとも関わりの深い息長も渡来人で間違いないよ!
という話だった。
とりあえずまとめに入ろうか。
えー、すでに話した通り、大阪には太陽神の力を受けて妊娠した女が産んだ赤い玉の化身アカルヒメを奉るヒメコソ神社がある。
ところで、八尾市の話だ。八尾市には玉祖神社なるものがある。
この地域には玉造の人々が住んでいたので、これを祭ったのだという。
祭神は天明玉であり、八尾市を流れる玉串川という川があり、事代主に嫁いだ姫は玉櫛姫。
ニギハヤヒには櫛玉姫なる女性が嫁いでおり、筆者は玉櫛姫=櫛玉姫であると確信している。
ここにアカルヒメもイコールで結べるかはわからないが、99%ニギハヤヒが朝鮮系である以上、朝鮮系のアカルヒメが彼に嫁ぐ事は何の不自然もない。(そんなの筆者だけか?)
そして重要なことだが、この八尾市には中臣系の神社が複数あり、オオタタネコの出身もここではないかとされる事もある。
そこから少し離れたところは大阪の茨木市であり、ここは三嶋という特別な地域がある。
継体天皇のものとされる古墳があったり、ヤタガラスの本拠がここだったりする。
もちろんタケミカヅチ神話があり、オオ氏と中臣氏もゆかりがある茨城とも何か関係があるだろう。
そして三嶋には東奈良遺跡という弥生時代の大規模環壕集落遺跡がある。
この集落が奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くのクニの中でも、銅鐸を各地に配布できるような政治的に重要な位置を占めていたことが伺える。
また藤原鎌足のものという説のある阿武山古墳もここにある。
天児屋根命を奉る神社が大量にあることから、ここは中臣氏の勢力下であると見て間違いない。
wikiによると、1948年(昭和23年)1月1日、茨木町・三島村・春日村・玉櫛村の1町3村が合併して市制を施行した。
春日村があるくらいだから中臣氏の影響を感じる。
その他玉串村などという怪し過ぎる村まで。
今度茨木市の図書館で市史でも読めばもっと何かわかるかも。
ということで、三嶋や茨木市という地域が怪しい。
ここまでがまとめだ。
ここから筆者はどうにかして中臣とナガスネヒコと息長を結び付けたい!
そこで筆者の常套手段を使おう。オオタタネコだニャ。
まーたオオタタネコかと、いい加減にしろと言いたくなるかもしれないが、本当に古代史上最大級の要注意人物なのでいろんな所にこの人が絡んで来るのだ!
古事記では武甕槌の子であるオオタタネコだが、大阪に伝わる真偽不明の伝承にこういうのがあるニャン。
楯原神社は大阪府にあり、武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、赤留姫命を奉る。
大阪の楯原神社の伝説をちょっとwikiから引用しよう。
《建甕槌命が国譲りに際して大国主命のもとに遣わされたとき、大国主命が「天の弘鉾」を「国平の鉾」と称し、「この鉾を持って天下を巡行すれば、自ずから平定されるだろう」と予言して授けたものである。
建甕槌命は大国主命の霊をこの鉾に依り憑かせて天孫降臨に供奉し、天下を平定した末にこの地に留まり、亡くなる間際に孫の大々杼命に「私の十握剣を私の霊代とし、国平の鉾を大国主命の霊代として鎮斎せよ」と命じた。
その子孫大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣により十握剣を携えて熊野に赴き、これを奉ったために大鵄の導きを得て大和平定に貢献した。
その功により大々杼彦仁は大々杼国造とされ、「剣臣」の号を賜ったとするが、上記の所伝は、記紀により造作したものと思われる。
神功皇后の時代、三韓征伐にあたって軍事に関する託宣が降り、還幸後の神功皇后11年、品陀和気命を伴って当社を親拝した。
このとき、大々杼氏の息長田別王と杙俣長日子が奉仕し、皇后の詔により楯之御前神社は「楯原神宮」、大々杼氏は「息長氏」に改名した。》
筆者は絶対にこれは真実であると確信している。
見ての通り武甕槌の孫のオオドノミコトがオオドの国を治めていた、という風な感じだ。
武甕槌の孫の話はあるが子供の話はない。
ところで古事記によるとオオタタネコの父は武甕槌らしいニャン。
つまり大々杼命の親はオオタタネコということになるニャン。
ちょうど名前も似ているということになるニャン。
しかもこの神社にアカルヒメが何故か祭られていることは絶対に意味があると筆者は確信するニャン。
息長氏の祖先がオオドとオオタタネコ。これを前提にすれば、筆者は思いつきで始めた理論を補強することができる。
あくまで立証ではない。補強にすぎない。では話を進めるとしよう。
古事記編纂の際にオオ氏と中臣は協力した。どうやら二者は近い関係のようである。
そのオオ氏と関連のありそうなオオタタネコの子孫は、三輪氏以外にはほとんどいないようだ。
しかしどう考えても武甕槌でオオ氏と中臣を繋げているのはオオタタネコである。
そして大阪の伝説を信じるなら「ナカトミ」と「オキナガ」が繋がっている。
中臣には天種子なる祖先がいる。
ナカトミとオキナガを繋ぐのがオオタタネコなのである。
言い逃れ出来ないだろう。
今回どうしてもナカトミをナガスネヒコに繋げたかった。
その際この天種子という中臣の祖神を徹底的に洗った結果、衝撃的な事実を発見した。
京都丹後国、熊野郡に神谷神社が存在するのである。
筆者は今まで、散々丹後は怪しいと言ってきた。
丹後神谷神社では丹波道主命を奉っている。
息長氏の祖先でもある。
昔ここは丹波だったので、丹波道主が奉られてても別におかしくはない。
次を見てほしい。
配祀 八千矛神 天神玉命 天種子命
八千矛の神は、大国主の別名と一般的に言われるが、本当にそうかはわからない。
次に天神玉だがニギハヤヒに付き従った神の一柱で何とあの日前・國懸神宮摂末社にもまつられ、三嶋氏の祖であるという。
こんな神社が京都丹後の「熊野」郡にあるとなると、いくらなんでもこれは無視できない。
で、天種子はほとんど系譜以外は何もわからない神である。
次に、東大阪市出雲井町にある全国的に有名な枚岡神社を紹介しよう。
天種子はどうやら神武天皇と同時代人物で、天皇の命で河内に神社を建てた。
最初は彼の祖先神である天児屋根命と比売命のみであったが、後にフツヌシとタケミカヅチといういつものセットが追加されたという。
比売命は、社伝では、天美豆玉照比売命とのこと。
玉が入ってるだけで怪しいが、テルヒメが入っている以上、これは朝鮮から来たアカルヒメだ!
とは言い切らないが、他にいるか? こんな怪しい名前の姫が。
「あめの」はよくある尊称。「みず」は珍しい、みずみずしい、満ちる、などの尊称である。
とすると残るのは「タマテルヒメ」ということになるが果たして……?
「タマテルヒメ」は天児屋根との間に天押雲根を授かる。
ところが、系譜によってはタクハタチヂヒメ=天忍穂耳の妻が天押雲根の母、という聞き捨てならない伝承もある。
更には、ニギハヤヒの娘である穂屋姫が、紀伊の天香山と結婚して出来た子だという異説もある。
非常に何というか系図の混乱がみられ、改ざんなのか混乱なのかよくわからない。
そんな母親の名前さえあやふやな神だが「豊甕玉」という非常に怪しい神の娘「タマテルヒメ」から生まれたのが天押雲根だということでひとまずは話を進めようか。
豊甕玉は、どれだけ調べても何も出てこなかった。
正直、これがニギハヤヒ(大物主には櫛甕魂という別名あり)じゃないかと考えているが断言はしない。
で、タマテルヒメの子の天押雲根の妻は阿俾良依姫命である。おやおや?
父親が「タマテルヒメ」をめとり産んだ子が「ヨリヒメ」と結婚。
まるで、山幸彦とウガヤフキアエズの伝説にそっくりじゃない?
そもそも阿俾良依姫命の「あひら」とは吾平、つまり日向の地の事ではなかったか?
ウガヤフキアエズは宮崎県の吾平に葬られているというが……。
となると問題になって来るのは次である。
山幸彦が「トヨタマヒメ」をめとり、彼女から生まれたフキアエズはその妹の「タマヨリヒメ」をめとった。
そうして生まれたのが誰あろう、初代天皇の神武天皇であるとされている。
では、天児屋根が天美豆玉照比売命との間に授かったのが天押雲根で、彼が「アヒラヨリヒメ」との間に授かった子供は?
もちろん天種子である。
そして、彼はどうやら神武と同時代の人間である模様。
そして種子が河内に自らの祖先を奉ったという揺るぎない事実。
オオタタネコは河内に代々住んでいた。
これを勘案すれば中臣氏の祖先がオオタタネコになるのは自明である。
それなら筆者の理論は完璧に符合するのである。
豊甕玉なる謎の人物は大物主と同一人物。
大物主の娘タマテルヒメと結婚したのが天児屋根である。
天児屋根はタマテルヒメとの間に天押雲根を生む。
天押雲根は、オオタタネコを生むはずなのだ。
だからオオタタネコは大物主の子孫と名乗った。
ぶっちゃけ丹波・丹後からきた朝鮮系渡来人が大阪に拠点を持ち、次に大和へ入ったんじゃない?
そして日向から来たのは本当は中臣氏の祖先であり、天皇家は丹後から来たのじゃないのか?
そうとしか思えない。が、結論は急がない。
とにかくこの丹後の熊野にある神社は息長氏の祖先と丹後とオオタタネコと中臣を繋いでしまう神社ということに。
いよいよ七合目まできたんじゃなかろうか。
次に、紀伊の那賀郡というクッソ怪しい場所にある荒田神社なるやっぱり怪しい名前の神社を紹介。
《祭神は次の24柱[1]。
高魂命、剣根命、天疎向津姫命、神功皇后、応神天皇、菅原道真、丹生都比売命、大山咋命、大山祇命、天忍穂耳命、市杵島姫命、素盞鳴命、香具都智命、大社命、白髭大明神、祓戸九柱神》
ここはオオタタネコ伝説のある陶荒田神社を司る荒田直という人々が祭祀を行うようだ。
ちなみにオオタタネコとはもちろん血が繋がっており、荒田直はヤタガラスの子孫らしい。
ヤタガラスは陶津耳という別名もあるので陶荒田と関係していても何の違和感もない。
ところで、葛城氏には葛城荒田彦なる人物がいるのをご存知か?
これの娘が武内宿禰に嫁ぎ、葛城襲津彦を生んでいる。
この人は大陸との外交に活躍しており、娘はあの仁徳天皇の皇后である!
からといって、ああだこうだ言う気はない。
だが葛城国造は荒田氏にとっても祖先である剣根命が初代だという。
既に紹介してあるが、大阪の真偽不明の伝承によるとこうだ。
《武甕槌の孫である建大々杼命がオオドの初代。
時代は降って大々杼彦仁が37歳のときに神武天皇が倭国に入ろうとしたが、長髄彦に行く手を阻まれて浪速に戻り、木の国を南に進んだところ、大熊が現れて一行を悩ませた。このとき彦仁は建御雷男命の託宣を受け、大鵄の導きによって天皇の元に駆けつけて十握の剣を献上した。天皇は十握剣で大熊を切り、皇軍は倭国に入ることができたので、天皇はその功績を賞して彦仁に「大々杼」の姓と「剣臣」の号を賜り、「大々杼国造」に任命した。
後にはオオド氏を改めて息長とした。》
この大々杼彦仁が剣根命と同一人物ではないのか?
二人は全く同じ時代である。事績も全く同じなのである。
つまり、筆者の理論では、葛城と息長という古代史だけでなく天皇家にとっても非常に重要な巨大豪族が、同一の祖先を持っており、その系譜上にオオタタネコ等がいる、ということになるニャ。
そして、葛城国造と同期で倭国造になったのは椎根津彦の長尾氏であるのも事実である。
みんなはどう思うかな?
日本は中つ国と呼ばれ、「ナガ」スネヒコは天八現津彦と同一視され、日本は「秋津島」であり、神武によって最初期に褒美を受け、取り立てられた倭国造は長尾で、それと同期の葛城国造は筆者の理論が正しければ「息長」に繋がっており、実際神功皇后=息長帯比売は葛城高額姫の娘であり、大化の改新では中大兄皇子と中臣鎌足が立役者で、後に天武天皇は息長を全ての氏族の中で天皇家を除いて第一の高貴なる姓とした事実がある。
この中で明らかに異質なのがナガスネヒコである。絶対に裏がある。
筆者は、ナガスネヒコがニギハヤヒの下にいたとは到底考えられないと思う。
筆者の理論によればナガスネヒコは奈良土着の大王のはずだ。
葛城を調べていたら、倭地方つまり長尾の勢力下にあった地域にこんな神社存在する。添御県坐神社を見てみよう。
《(この神社の祭神である)武乳速之命は天児屋命の別名とされ、また津速産霊命(中臣氏の祖)の子で市千魂命の弟であり、添県主の祖とされるが、系図史料には建御雷神の子とされ、建御雷神と津速産霊命が同神とされる。一説によると祭神のうち武乳速之命の実名は、富雄川中域を治めていた首長である長髄彦であるという。》wikipediaより
ついに、中臣とナガスネヒコが繋がったのではないかっ!?
筆者が血眼になって追いかけた努力が報われたというものである。
これに従うならナガスネヒコが謎のタマテルヒメをめとり、生んだ子が天押雲根で彼がアヒラヨリヒメをめとってもうけた子孫こそがオオタタネコと中臣氏になってしまう!
何という事だろう。中臣氏が伊勢神宮などの祭祀を任され、結構中臣鎌足以前から力があったことも説明がついてしまう。
オオタタネコが大和の外にいたこともナガスネヒコが倒されて河内に逃げた、という説明ができる?
どうやら神武天皇は奈良盆地の東側である宇陀から入ってきているので、逃げるなら西側へ押し出されて河内にいく、ということになるが。
天皇家の誕生神話は、ナガスネヒコのそれをパクったものであったのかっ!?
非常に怪しい。
ところでこの紀伊の神社はオオタタネコゆかりの地であるが
この前言ってあるとおり、何故か日矛鏡を奉っている紀伊の日前・國懸神社は名草郡毛見郷にある。
気比大神は別名ミケモチ。何か関係があるのだろうか。
奇妙なことにオオタタネコの母親というのがこの紀伊の名草姫だという系図が複数ある。
これを信じるなら、日矛鏡を作らせたのはオオタタネコという可能性が出てくる。
その可能性について、信憑性が高まる情報を次にお見せしたい。
とともかく話を次へ移そう。
神武時代の話にフォーカスしていこう。
鴨王なる人物は大物主とタマヨリヒメの子である。
妹に神武の皇后、イスズヒメと二代目天皇の妃イスズヨリヒメがいるとのこと。
さらに鴨王の娘は3代目天皇の妃というから記紀を文字通りに読むなら、その権勢たるや凄まじいものである。
筆者の理論ではヤタガラスはニギハヤヒに娘のタマヨリヒメを送って婚姻し、同盟。
二者はともに神武大和入りに貢献した最大の功労者で、その二者の子供こそ鴨王であるとしている。
この天皇家との結婚ラッシュはそれだけ権勢を誇っていたからだと見て間違いない。
鴨王とその妹たちがヤタガラスとニギハヤヒの子なら当然である。
鴨王という男はオオタタネコの先祖であるとされてるのだが、
日向賀牟度美良姫という聞き捨てならない名前の女性をめとっている。
これは、実は島根県の神門の事だとも言われる。
宮崎県臼杵には「神門」という地名があり、古代日本語は朝鮮っぽくカムドゥみたいな感じで発音したと思われる。
記紀にも朝鮮から来たコムハチムカムキムなどという名前があり、現在の朝鮮語でも金さんはキムさんである。
したがって鴨王は宮崎県のヒメをめとったと見て、ほぼ間違いない。
このヒメは、一体誰の子であろうか? 誰の姉もしくは妹なのか?
間違いない。日向から来た天種子であるっ!
と思っていたのだが、更なる衝撃の事実が判明した。
なんと、天種子が北九州の宇佐のヒメをめとって授かった子供、または孫が御食津臣。
奇妙なことにオオタタネコの子供もオオミケモチと伝わる。
それで、古事記によると御食津大神というのは、敦賀気比神宮で応神天皇と名前を交換したとと言われる気比大神なのである。
そして気比大神と名前の通じる天種子の子・御食津臣の子孫は中臣だともはっきり書いてある。
新撰姓氏録抄である。どうにか日本は渡来人の作った国だと証明してやりたくて躍起になっている筆者ですら愕然とした。
息長氏と中臣は何かの繋がりがあるのじゃないかと思ってはいたが、間違いない。
中臣は、ナガトミである。葛城と関係のある中臣は、葛城と関係のある息長とも関係あるだろう。
気比大神とは今まで散々話してきた伽羅の国から来たツヌガアラシト=新羅王子天日矛のことなのだ。
要するにオオタタネコ及び天種子の息子は渡来人である気比大神と名前が通じる。それだけでなく諸説あるうちの一説にはオオタタネコの母親は紀伊の名草姫で、まさにその場所に日矛鏡を大事に祭る日前・國懸神宮があるっ!
ショッキングな情報過ぎてちょっと文体にも元気がなくなってきたよ。
息長系の神功皇后は気比大神をスクナヒコナとも同一視し、明らかに朝鮮のにおいを感じてならない。
オオタタネコは、父は事代主神の6世孫・建飯賀田須命で、母は生玉兄日子命の4世孫・鴨部美良姫で、オオタタネコ自身は神門臣の娘・美気姫を妻とし、子の大御気持命から三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏(賀茂朝臣氏)、神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。
で、このミケモチの神というのが気比大神の別名。
そして今まで散々出てきた河内、八尾市の恩智神社は元春日と呼ばれ、大御食津彦大神と大御食津姫大神という謎の神々を奉るが恐らく夫婦だろうか。
天児屋命の後裔には御食津臣命。御食津比売命と結婚している。
御食津臣命は気比大神で気比大神はツヌガアラシトと同一視。
気比大神のいる気比神宮がある敦賀はツヌガアラシトが渡来したとされ、そもそも福井県は3世紀の時点で大量の鉄器が見つかる超先進地域。
当然鉄器が見つかると言うことはツヌガアラシト以外にもどっさり渡来人がいたであろう。
嗚呼もうダメだこれは。絶対に御食津比売命はアカルヒメだとしかもう考えられない。
この気比大神=御食津神は一番最初の神・アメノミナカヌシやアマテラスを差し置いて宮中の八神殿にいるが、果たしてその心は?
やべーよやべーよ。いつもはネタ混じりで話してるけど中臣氏がツヌガアラシトと関係しちゃってるのはマジだよこれ。