【新シリーズ 古代史上最大の豪族・中臣氏の謎を筆者は解いた! その2】
また、オオタタネコのいた陶荒田のすぐ近く、同じ八尾市には天児屋根命の後裔の神を祭る中臣系の恩智神社、他に枚岡神社などがある。
八尾市高安にはどうやら春日戸社坐御子神社なるものがあり、春日部というところがあったようだ。
言うまでもなく中臣氏の影響が強い土地であったと思われる。
そして、明らかに中臣氏はタケミカヅチを自分たちの祖神の中でも筆頭としているのに、タケミカヅチの子供の記述がないという事実。
古事記にはオオタタネコの父が武甕槌だと記載されており、専門家は建御名方と戦った建御雷男とは違うとしているようだが、筆者は信じない。
中臣とオオタタネコが武甕槌で結ばれ、多氏、または太氏、または意富氏は古事記編纂の責任者の一人であった。
稗田阿礼という謎過ぎる人物とともに太安麻呂が古事記を編纂したのは、小学校か中学ぐらいの時に学校で習ったよね?
一般に知られていない事実である。太安麻呂はオオ氏の出身であることは、見ればすぐわかるのだが、実は稗田阿礼が中臣氏であるとされていることは、あまり知られていない。
こんなところで、中臣とオオ氏が繋がっているのである。
オオ氏は建借馬なる人物を祖先とする。
建借馬は常陸の鹿島の語源になった、または鹿島の地名が先にあってそこから名付けられたと一説にある。
この人は那河国造祖である。
おおっ。思いつきで始めた事なのに、やろうと思えば結構繋がってくるな!
言っておくが筆者は嘘はついてないし、恐らく全部wikipediaに載っているので、その気になれば読者のみんなも今からでも確かめられるだろう。
オオ氏の祖先、建借馬は、もちろん常陸の神、タケミカヅチと関係がある。
そしてもちろん、オオタタネコは明らかに、絶対に、オオ氏である。
常陸とオオタタネコとタケミカヅチと中臣が繋がるわけだ。
いやー、我ながら鋭い洞察力に惚れ惚れする。
隠された真実を説き明かしてしまったなぁ、と言ったところで、紀伊の話に戻ろうか。
高倉下なる紀伊の神がニギハヤヒの子孫であるという話だった。
そして、ニギハヤヒが大物主であると筆者は確信しているため、自動的に大物主の子孫である建甕槌もニギハヤヒの子孫じゃないか、という意見だ。
筆者はそう確信している。
更に今までの部分を読んでくれた人なら知ってると思うが、紀伊の日前・國懸神宮には日矛鏡が奉られており、これをご神体とする神が日前大神であり、ニギハヤヒと同一視されている。
ある一書にこう言う感じのことが記されている。
「天香山からとれた金属を用いて日矛鏡を「イシコリドメ」が作った。
これを國懸神宮に捧げた。日前大神のご神体である」
日矛というのは、日本にやってきたとされる新羅王子、天日矛と同じだ。
彼は古事記によると、朝鮮で美しいアカルヒメという女を得たが、DV夫だったのでアカルヒメが逃げた。
そして大阪にあるヒメコソ神社なる神社に奉られるようになったという。
天日矛は独占欲の強いDV夫という、何故か神話なのに妙に生々しい現代的なヤバいやつである。
そして、日本まではるばるやってきてアカルヒメを探しに来て、垂仁や崇神天皇にも会ったという。
ハッキリ言うが、絶対にこの天日矛は大和へ来るまでに大阪にも来たと確信する。
だって大和への通り道となる大阪にアカルヒメが居るんだから、当然これは行くだろう?
何故かニギハヤヒを祭る神社に渡来人である日矛の名前を関する非常に由緒正しい鏡が奉られている。
また、天香山というのは何を隠そうニギハヤヒの息子である。
彼はタカクラジと同一視、または父親とされる人物である。
どうやらこの伝説を見るに、天香山は金属を産出するので製鉄を行う部族が山そのものを信仰していたのではないかと筆者は考えている。
紀伊の山だったのだろうか。初代の紀伊国造は何を隠そう紀角である。
天日矛の別名は「ツヌ」ガアラシト。紀角は百済に外交に行ったという。
怪しいを通り越して恐ろしいだろう?
そして紀伊に「ヤタガラス」が神武を連れてきた時紀伊の高倉下がこれに加勢しており、高倉下はニギハヤヒの息子または孫である。
そして、「日矛鏡」を製作して紀伊の神宮にお供えしたとされる「イシコリドメ」は、「アマテラス」のために鏡を作っており、その名は三種の神器、「ヤタノカガミ」である。
このことから筆者は神武東征をこう解釈している。
「事代主や大物主というのはつまるところニギハヤヒである。
事代主=ニギハヤヒは鴨建角身命の娘であるタマヨリヒメをめとっており、要するに鴨氏と親戚で、タマヨリヒメの母は丹波の姫だからニギハヤヒは丹波とも繋がりがあること明々白々である。
大阪は難波。難波は丹波と繋がるはず。ニギハヤヒは大阪側から大和へ船で入ってきた、とされる。
ニギハヤヒの子孫である紀伊のタカクラジはタケミカヅチに目をかけてもらっており、恐らく彼の子孫であると思われる。
そして、中臣氏の信奉する神のうちにこのタケミカヅチもしっかり入っている。
タカクラジは、不思議なことにニギハヤヒの子孫という立場ながら、神武という外来勢力に協力している。
つまり、要するに、ニギハヤヒは神話に書かれているような超古代大和の支配者ではない事明らかである。
徹底抗戦派のナガスネヒコを裏切った、または暗殺して、神武大和入りに多大な功績を上げたのがニギハヤヒと、それに娘を与えていたヤタガラスであり、二者は共謀者で、蜜月であった。
その後神武天皇はヤタガラスの娘と事代主が結婚して生まれたイスズヒメをめとる。
イスズヒメの産んだ二代目は九州出身の母を持つ兄を殺し、天皇即位。
これ以降の天皇家は全てこの奈良生まれ奈良育ちで奈良出身の母を持つ二代目を祖先とする」
神話を普通に読み解いた場合、これが一番自然な解釈だと思う。
【フェイズ3.無理矢理にでも中臣とナガスネヒコを繋げてみせる!】
茨城県の鹿島にはタケミカヅチが祭られていることはすでに話したと思う。
話によると天津甕星という強力な蛇神(?)らしき者を武甕槌と名前の似ている武葉槌なる人物が倒している。
近くに大甕山や大甕駅、大みか町なる地名が存在。間違いなくタケミカヅチはこことゆかりが深い。
琉球神道なんたらという書物によると「タケミカヅチはもともとここ鹿島の蛇神であった」とされている。
ところで、話は変わるが大阪には茨木市というところがある。
タケミカヅチとゆかりの深い、あの茨城と似ているのは言うまでもない。
ここに隣接する場所に「三嶋」がある。今までに何度か出てきた、あの「三嶋」である。
その「三嶋」に、「中臣鎌足」が別荘をもっていて、そこに引きこもるということがあったと、日本書記にしっかり書いてある。
ここには彼の墓所もあるという。何やらゆかりの深い場所だったようである。
ここでまた言霊に関する事を話そうとおもう。
「ナカ」がつくのは大化の改新によって勝利者側に回った「中大兄皇子」と「中臣鎌足」と「息長」などである。
トミのナガスネヒコと何故か名前が通じるのが不思議だと筆者は語った。
「ナカ」が重要なのは明らかだ。日本語が母国語の我々日本人ならば「ナカ」はナガつまり長生きにもつながるから、何となくいい意味で偉い人に使う言葉だと直感的に理解できる事だろうと思う。
では「タケ」はどうだろうか。「ナカ」のつく中臣氏の祖先は「タケ」ミカヅチと「アメ」ノコヤネである。
タケというのは、実は「出雲系と天皇家しかつかない」という奇妙な特徴がある。
もっともそれでも十分多いと言える。見落としはあるかもしれないが、一応有名な神様を列挙してみよう。
念のため言っておくが「タカ」や「タキ」などは考慮しない。
【出雲系と思われる神様】
《武甕槌》
『古事記によると大物主の子孫。父親が甕速日と言う。
更にニギハヤヒの子孫である高倉下に目をかける。
筆者の大物主=ニギハヤヒと信じて疑わない姿勢を強力にサポートしてくれるありがたい神様。
アメノトリフネという鳥の神様と一緒に出雲を武力制圧したとの描写あり。
筆者の理論ではヤタガラスの娘婿はニギハヤヒであり、これが大和を制圧したはずなのである。
アメノトリフネと一緒に国譲りを強要したタケミカヅチと、ヤタガラスとともに大和を手に入れたニギハヤヒがそっくり。
そしてニギハヤヒは明らかに蛇神の大物主である。タケミカヅチは古事記によると大物主の子孫で、蛇神。
そして建甕槌の父親を甕速日とする資料もある。
ニギハヤヒと同一とまでは言わないが、子孫神では?』
《賀茂建角身》
『神武を大和に導いた偉い神様。先述の高倉下と関係があるようだ。
娘を事代主に嫁がせている。明らかに事代主はニギハヤヒである。
三輪氏、鴨氏の祖。出雲系。丹波の姫と結婚している模様。
大阪に元々住んでいたのか、あるいは丹波から移住してきたのだろうか。
ちなみに、この賀茂建角身命の娘のタマヨリヒメが火雷神との間に賀茂別雷なる神を産んでいる。
つまり賀茂建角身命の孫である。丹後の(昔は丹波と丹後は同じだった)籠神社の国宝指定された「海部氏系図」では賀茂別雷は彦火明命と同じだ、とある。
彦火明命はニギハヤヒと同一視されている。
武甕槌と賀茂別雷。同じイカヅチのつく雷神だが、はたして……?
ぶっちゃけこの雷神二人は同一ではないのか?』
武葉槌
『アマツミカボシを倒した以外は特に事績のない神様。
父は天日鷲命。後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献したヤタガラスと同一だと言及している。
カミムスビの神は出雲系で武葉槌はカミムスビの子孫である以上、明らかに出雲系である。』
《建御名方 (彼の子供もタケがつく人が数人)》
『言うまでもなく大国主の息子であり、武甕槌に手も足も出ず負けて諏訪に引っ込んだ、という可哀相な神。』
《建比良鳥》
『またの名を武日照。鳥の神様のようである。息子に出雲建子なる人物がいる。
これは、なんと別名が伊勢津彦であり、ニギハヤヒと同一視されている。
筆者の事代主、大物主=ニギハヤヒ理論はまさにこれに立脚している。
伊勢津彦が建比良鳥なら、建比良鳥は賀茂建角身と同一ではないか?
賀茂建角身の娘を事代主がめとっているので事代主と賀茂建角身は義父子である。
ニギハヤヒ=事代主=伊勢津彦なら、伊勢津彦と建比良鳥は義親子であったのでは?』
《建速須佐之男命》
『言うまでもなく出雲系神様の元締みたいな男である。
まあ説明は不要だろう。出雲の大国主もスサノオの子孫とされる。』
あといくらか天皇家にタケルだったりタケウチなどの名前がつく。
武甕槌だけが、明らかに出雲系なのに隠されているが、それ以外は概ねこんなかんじで別に隠されてはいない。
さて上で言ってあるように天皇家はもはや神武以降は完全に大和の血に取り込まれており、大物主や事代主の血が濃厚である。
ここで、たった一つ例外がいる。
出雲系と合体した以降の天皇家の人間でもなく、また、出雲系でもない。
なのに名前にタケが付いている人物が一人だけいる。恐らく唯一の例外であると思われる。
それは誰か。
正解発表。当たってた人には一億ポイントあげます。
正解は、「アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ」である。
しかも建日別は九州南部、熊襲の国の別名である。
ウガヤフキアエズと関連していると見て間違いない。
この人はウガヤ王朝などという、怪し過ぎる言葉とともに語られる。
ウエツフミほか、偽書とされほとんど研究されない古史古伝でウガヤ王朝の事が語られる。
複数の書物でだいたい同じ事を語っているため、あながちデタラメじゃないんじゃないか、という意見もある。
ウエツフミがどういう書物かwikiから引用してみよう。
《~(中略)~神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代であり、中国に農業や文字を伝えたのは日本であり、日本では精密な独自の太陽暦があったことなどが記されている。》
要するにゴミである。
日本書紀における「神武天皇の時代、天孫降臨から179万2470余年が経過した」という一文が筆者は真実だと思う。
何だろう、この突き放しっぷりは。「今までの話は所詮神話なので忘れてください」とでも言いたげである。
筆者は神武の実在に懐疑的なので、ましてやフキアエズの事なんて断片的にでもわかれば御の字だと思ってる。
ただしそれはウエツフミのような怪しい書物に頼ってではなく、自分の頭で考えて、例え強引な理論だとしても見つけだしたいと思う。
まずウガヤフキアエズというのは非常に珍しい名前の構成をしている。
ヒコ・ナギサ・タケ・ウガヤフキアエズ。
まず、ヒコの名前が頭につくのは非常に珍しい。
彦火明、彦火火出見くらいである。
そして、どういうわけか日向系の神の中で唯一タケが入っている。
これまで示したように、タケの入る神は非常に神格の高い出雲系の神であることがわかったと思う。
そして、なぜかナギサという文字が入ってる。
確かにワタツミの娘のトヨタマ姫の子供とは言え、変だ。
というのは、彼の父親は山幸彦で名前をヒコホホデミというからだ。
ヒコホホデミはフキアエズの息子、神武天皇の名前でもある。
つまり神武天皇=ヒコホホデミ=山幸彦=山の人=山人=ヤマトという図式が成り立つのである。
ニニギは高千穂峰に降臨したというから恐らく古代日向は山岳信仰だったのではないかな?
実際山幸彦が海幸彦に勝利してるのでやっぱり山岳信仰じゃないか?
不思議な事に、海神ワタツミとよしみを通じるのは山幸彦の方なのだ。
妙な話である。神話を知らない人は今すぐパパッとwikiでも見てきて。
海神ワタツミと通じ、力を手に入れるのは、海幸彦の方であるのが筋が通ってはいないか?
ところが神話はそうはなっていない。ちなみにだが、山幸彦が姉のトヨタマを、その息子が妹のタマヨリヒメをという神話は後世に創作されたものだと筆者は確信している。
何故ならこれは「神武天皇が姉のイスズヒメを、息子が妹のイスズヨリヒメをめとった」という神話と酷似しているためだ。
神武と2代目がそうしたのはわかる。政治的な理由だ。
要するに初期天皇家はそれほど大和で力を持っていなかったということだ。
3代目は要するに事代主の遺伝子が近親婚で濃縮された4分の3事代主系の血筋を引く天皇である。
要するに当時の大和の人的には高貴な血筋である、ということだ。
ちなみに、彼の父親である2代目天皇は、神武天皇の九州で生まれていた息子、つまり異母兄を殺害して天皇になっている。
大和と外戚家の事代主に対する、要するに忠誠の証を見せているという事だ。
どう考えてもこれ、天皇家が本当に九州出身で奈良を征服したならこんなストーリーになるはずがないと思うのだが。
まるで隼人・熊襲の血は下賤だから十分薄まった10代目から本格的に大王として認められましたよ、とでも記紀は言いたそうである。
3代目の皇后も事代主系とされる。
どこまでも事代主に頼り切りなのが初期天皇家である。
ここで思い出してほしい。天皇家の祖先にアメノオシホミミがいる。
この神はスサノオとアマテラスの間の子である。
子孫に「タケ」がついて当たり前なのである。
筆者は、出雲というのは北陸東海から九州南部まで非常に広大な範囲を持つ巨大帝国であったと考える。
それが超古代に存在し、恐らくその宗教的な中心地は奈良県であったが、その他全ての中心地は島根県や鳥取であったと考える。
何故かというと、奈良の纏向遺跡は大規模都市なのに鉄器がほとんどなく、この時代の武力抗争の痕跡が存在しない。
前方後円墳など文化的にも独立していたことから、征服された跡というのもない。
もちろん鉄器がないので渡来人の勢力はほとんどない。
だから、武力以外の力を持っていたと考えるのが妥当というわけである。
そういうわけだから「タケ」の名前が南九州に存在するのであれば、出雲の勢力がそこまで伸びていた、としか考えられないのである。
その逆はありえない。はっきり言って南九州は後進地域で、弥生時代の大規模集落遺跡は近畿でさえいくつもあるが、南九州には皆無と言っていい。
南九州勢力が東を征服したというのは有り得ない。
いや、南九州でも天下とれるぞと思う人は信長の野望のやり過ぎなのでちょっと休んだ方がいい。
天皇家は始祖もスサノオの子なら大和へ入ってからも事代主の血を濃縮されて受け継いでいる。
というわけで、天皇家はどう見ても「スサノオ文化圏」とでも言おうか、「銅鐸文化圏」「出雲文化圏」出身だと筆者は確信する。
もちろん中臣氏もそれと同じである。
さあ。そろそろ五合目くらいまで来たんじゃないかな。
いよいよ「ナガ」の真相に迫る。
次回、ついに中臣氏の驚愕の真実が明らかに。オオタタネコも関わって来るニャン。p