最終回 オホタタネコよ永遠に。
【オホタタネコについてもう一度説明したいニャン】
念のため言っておくけど古代、ネコとは高貴なる称号だったニャ。
具体的に言うといわゆる欠史八代にもネコの名前がつく人が一人か二人くらい居たニャ。
それが、なぜか河内に住んでいたオホタタネコにもネコがつくニャ。
おかしいのニャ。オホは英語で言うGreatに近い尊称だろうから河内にはオホタタという名前の大王級の人物がいて、それがネコということかニャ?
そもそもオホタタネコは三輪氏と鴨氏という由緒正しい高貴な二つのお家の始祖だと記紀にあるニャ。
しかも、筆者の理論だともっと沢山の巨大豪族と関わりがあるニャ。
オホタタネコは崇神時代の人だけど、崇神天皇並かそれ以上の力を当時持ってたとしか思えないのニャン。
【オホタタネコの出自】
古事記によるとオホタタネコは大物主の子孫の武甕槌の息子という事になっている。
日本書紀では、直接大物主の子供。ちなみに日本書紀では女の子をイメージさせる。
先代旧事本紀によるとスサノオの9世孫だとか。
崇神天皇初期、国は疫病で苦しみ、人口が半分に減る勢いであったという。
古代なので天皇も自分の徳が足りないせいだと思い、責任を感じていた様子。
というより、何も悪くないのに天皇のせいだと言われてたのであろうと感じさせる。
そんなときのことだった。大物主が夢に現れ、「実はワシのせいなんだ。テヘッ」とか言い出す。
大物主の社は古く、正直な話、建て直した上で綺麗なお姉ちゃんが巫女に欲しいとのこと。
日本書紀ではこうなっている。
大物主「もしわが子大田田根子に、私を祀らせたら、たちどころに天下は平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」
意味不明である。だが崇神天皇はこれに従うのだった。
オホタタネコは果たして、河内で見つかり、彼の住んでいた大田はちかくに陶荒田神社なる神社がある怪しい場所だ。
彼は三輪山で祭祀を司るようになり、大物主には崇神の叔母のヤマトトトヒモモソヒメ(早口言葉か)が巫女となる。
(ちなみにモモソヒメが邪馬台国の卑弥呼だという人もいる。
筆者は邪馬台国九州派なのでそれには反対である)
大物主はモモソヒメのような年増でも大丈夫だった。
彼女に予言を与え、崇神への謀反を予言し守ってくれた。
神武東征では九州が大和を征服したとされるが、その大和土着の神、大物主は天皇家を守ってくれる懐の広い神だった。
しかしあるとき、大物主はモモソヒメに夜ばいを仕掛けようとして驚かせてしまい、恥をかいて逃げるという意味わからない事件が起きた。
モモソヒメはその際、しりもちをつき、陰部に箸が刺さって死んでしまったという。
アホかこの話は。登場人物全員アホか。
筆者としては、モモソヒメに刺さった箸は男性器を表現しており、神聖な処女でなくなったモモソヒメは巫女としては死んだ、という話だと思っている。
その後、最終的にオオタタネコちゃんに落ち着いたのだと思われる。
オホタタネコが怪しいのはここからだ。
【オホタタネコ怪し過ぎ!】
旧事本紀によるとオホタタネコの曾祖父は紀伊名草姫なる人物をめとっている。
紀伊名草とは、クッソ怪しい日前・國懸神宮がまさにあるところだ。
つまり、オホタタネコは紀伊と関連する血筋という事。
古代史上トップクラスの要注意人物、武内宿禰とも親戚という事で間違いないかと思う。
この紀伊の神宮には「日矛鏡」なる鏡が大切に保管されている。
天日矛という神は崇神時代に敦賀へ渡来した朝鮮・伽羅国王子ツヌガアラシトと同一である。
息長氏もこれの血を継ぐとのこと。
ちなみに紀伊の紀氏には、紀角という人が居て百済と外交したという。
この紀氏は先述した日前・國懸神宮の宮司職であり、この流れから紀伊生まれ紀伊育ちの武内宿禰という非常に有名な古代史上の要注意人物が現れ、紀角は系譜上は武内の息子にあたる。
武内がここ紀伊の人であることから見て紀角こそが嫡子だったことだろう。
他にも武内の子孫は渡来人と非常に強い結び付きがある。
武内に関してはどの程度史実か、全く創作なのかは判然としないが、ともかく明らかに朝鮮から来たツヌガアラシトが紀伊と何らかの繋がりを持っている。
また、日本書紀には
「石凝姥をもって冶工として天香山の金を採りて日矛を作らしむ。
(中略)これを用いて造り奉る神は、これすなわち紀伊国に坐す日前神なり」
とある。天香山はニギハヤヒの子供のことである。
そして天香山は紀伊のタカクラジと同一視され、タカクラジはタケミカヅチに目をかけてもらってるので、子孫の確率が高く、実際に中臣氏(言うまでもなく後の藤原氏)は天香山を祖先とし、タケミカヅチをも奉っている。
つまりどういうことか。日前神=天日矛=ニギハヤヒ=新羅王子で間違いないのである。
これが筆者が確信しているストーリーだ。みんなはどう思う? ただの偶然?
また、オホタタネコは古事記によると武甕槌の息子であるという謎の伝承がある。
大阪に残された真偽不明の伝承によると、建甕槌は孫の建大々杼命に後事を託すと亡くなり、これが息長氏になったという。
古事記と伝承を両方信用するなら、建大々杼命の親は自動的にオホタタネコということになる。
紀伊に存在する謎の日矛鏡。北陸にきたツヌガアラシト=天日矛。
そして天日矛と血の繋がりのある北近畿の超有力豪族息長氏。
これら全てをオホタタネコが一つに繋げる事ができるのだ。
これだけでも、この男または女がいかに怪しいのか丸わかりだよニャ?
しかもオホタタネコは鴨氏の祖先とされ、鴨氏は初代神武天皇が日向から大和を攻める際に「紀伊」へと案内したカモタケツヌミを祖先としている。
で、カモタケツヌミの娘のタマヨリヒメと大物主との間の子孫がオホタタネコだという。
紀伊! 怪し過ぎる紀伊! 筆者は紀伊の正体をつまびらかにせんと血眼になった。
【オオタタネコ神社】
大神神社は三輪山にある神社で、この三輪山の神事はオホタタネコ一族がもち、三輪氏となったという。
で、その三輪山にオオタタネコ神社があり、ここになぜかスクナヒコナの神が奉られている。
筆者は、この前はかなり惜しいところまで進んでいた。
スクナヒコナは敦賀の気比大神と同一ではないかと言っていた。
それは正解だがそれ以上は言えなかった。詰めが甘かったと反省している。
まあ要するに結論から言うと「紀伊」とは「気比」が訛ったものだと筆者は確信したということだ!
敦賀の気比大神は、神話を見ると明らかにツヌガアラシトと同一であると確信する。
息長氏の本拠があった滋賀県米原市に日撫神社がある。
これは息長氏出身の息長帯比売=神功皇后がこの土地を慕って創建させたという。
奉られているのは皇后の父、息長宿禰王。そしてスクナヒコナ。
後世には皇后の子である応神天皇も奉られるようになったとのこと。
何故、藪から棒にスクナヒコナが奉られていると思う?
スクナヒコナについてちょっと説明を。
《スクナヒコナはアメノ「カガミ」ノフネに乗って日本へやってきた小人の神であった。
大国主に従い、スクナヒコナは相棒として国作りをした。
全国各地にスクナヒコナ由来の山や谷があり、小さな見た目に反して山造りなどを得意とする神だという。
そのほか医薬の神、お酒の神など多岐に渡る信仰がある。
スクナヒコナは国作りの途中で常世の国へ行って二度と戻って来ない。
理由は不明。相棒を失った大国主に近づくのが奈良県の御諸山。
ここに大国主の分身のような存在、大物主や大国主の息子の事代主などが奉られるようになる。
そしてそこは三輪山と名前を変え、三輪山のオオタタネコ神社に何故かスクナヒコナが奉られている》
はい。ぶっちゃけスクナヒコナは渡来人以外の何者でもない。
常世の国へ突然行っちゃう描写は、明らかに渡来人である天日矛が突然帰る事にしたという記紀のお話と一致する。
また、天日矛の末裔である神功皇后が、その天日矛や神武天皇やアマテラスなどを差し置いて、スクナヒコナを奉っている点も見逃せない。
神功皇后はその他、息子のホンダワケを敦賀気比神宮に連れていき、ここで神様と名前を交換したと伝わる。
その後、大和へ帰ってくると、「スクナヒコナが作った酒」を応神に飲ませ、宴会を行っている。
「気比」から帰った直後「スクナヒコナの酒」を飲むってどういうこと?
まるで気比大神は、スクナヒコナと同一だと言ってるようにしか見えないが。
それに敦賀気比の敦賀は、ツヌガアラシト由来であるとされ、福井県は弥生時代から大量の鉄器が出土する超先進地域であったことが証明されている。
つまり渡来人がそれだけ頻繁に訪れていた事を示している。
ならもう答は一つだ。ツヌガアラシト=気比大神=スクナヒコナ。これしかあるまい。
そして、息長と繋がりがあると筆者が睨んでおり、大物主の子孫でもあるオオタタネコを奉るオオタタネコ神社で何故かスクナヒコナが奉られていることも偶然にしては妙だ。
また、大阪にはツヌガアラシトの妻または娘であったとされるアカルヒメがDV夫であるアラシトから逃げてきたという伝承が記紀にも存在する。
アカルヒメを奉る、または奉っていた神社が大阪に複数あるのだ。
その大阪からオホタタネコが来たことは記紀にある。
大阪に逃げたアカルヒメを追ってツヌガアラシトが大阪に来ているんじゃないかと筆者は推理した。
何故なら神武天皇を大和へ導いたカモタケツヌミの別名は三嶋溝杭耳。
三嶋という地名が大阪にある。非常に珍しい事なのだが、スクナヒコナを祖先とする三嶋県主という人達がこの地に代々住んでいたと伝わるのは本当に偶然か。
やはりカモタケツヌミとツヌガアラシトは何か関係が?
更に恐ろしい事に、天日矛に近江の国鏡村の陶人なる人物達が従った、と記録にある。
ところでオホタタネコのいた大阪には日本最古級にして最大級の陶器生産跡の遺跡がある。
陶器とはすなわち外来の技術である。オホ「タタ」ネコの居た地域では、「タタラ」を使い、窯の陶器に火を入れていた姿が目に浮かぶようだ。
ゴメン適当言った。古代の陶芸でそんなことしてたかどうか知らん。
むしろオホタタネコは製鉄に関連してたと言う方がよっぽどわかりやすい。
大阪の陶器遺跡は製鉄もしており、間違いなく近江からやってきた。いやそれは正確ではない。
正確には天日矛についてきた渡来系技術者が近江を経由して大阪に持ち込んだものとみて間違いない。
これでもまだあなたは、「スクナヒコナは出雲の神で、渡来人なんて珍説もいいとこだ」と思いますか?
こんな有名人なのに出雲大社で大国主と一緒に奉られていないのは、どう思う?
日本中に、北海道にすらスクナヒコナを奉る神社はあるのに、よりによって出雲大社にいないとは驚きである。
そもそもスクナヒコナって、宿禰彦根である。
宿禰は強いとか凄いとかいう意味。彦根は日子根。とにかく太陽に関係のある偉い人を表す言葉だ。
逆にいえば、この人は「大国主」などと一緒で個人名のない名前ということだ。
恐らく個人の事ではなく、渡来人系の技術者集団を神としてまとめたのだろう。
間違っても小人の神などではない。スクネが間違ってスクナと伝わってしまったはずだ。
そして、スクナヒコナに恐らく関係するとおぼしき渡来人を更に発見した。
少子部スガルである。ちょっとwikiを引用してみよう。
《「少子部」は「子部(児部)」と同様に、天皇(大王)の側近に仕える童子・女孺らの養育費を担当する品部であろうと思われ、『釈日本紀』も同様の説をとっている。
小子部連氏は、『古事記』の神武天皇の項目や『新撰姓氏録』では、神八井耳命の子孫となっており、天武天皇13年(西暦685年)に「宿禰」の姓を賜っている。》
《経歴
『日本書紀』雄略天皇六年三月の条(推定462年)に、后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。
雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。
同時に少子部連の姓を賜った。とある[3]。
さらに同七年七月の条には、雄略天皇はスガルに「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が優れているから、行って捕らえてこい。」と命令した。
スガルは「ためしにやってみましょう。」と答え、三輪山に登って大蛇を捕らえ天皇に献じた。
大蛇は雷のような音をたて目をきらきらと輝かせた。
恐れた雄略天皇は目を覆い、殿中へ逃げ込んだ。
大蛇は山に放たれ、その山を雷と名付けた。とある[4]。
また『日本霊異記』によると、天皇が磐余の宮の大極殿(大安殿)で后と寝ているとき、あやまって栖軽がそこへ入ってしまった。
天皇は恥じた。そこへ雷鳴がとどろいたので、天皇は栖軽に「あの雷をお招きしてこい」と命じた。
そこで栖軽は赤色のかづらを額につけ、赤旗を付けた鉾を捧げ持って馬に乗り、阿部の山田村の前から豊浦寺の前の道を走り、軽の諸越の分かれ道のところに来て、大声で「天の雷の神よ、天皇がお呼びですぞ」と叫んだ。
そこから馬を引き返しながら「雷神といえども、天皇のお召しに応じないことができようか」と言った。その途中、豊浦寺と飯岡との間で雷が落ちていた。
栖軽は雷を輿に入れて天皇の元へお運びした。
雷は光を放って明るく輝いたので、天皇は畏れて幣帛を供えて雷をもとのところに返させた。
その場所は飛鳥の小治田の宮にあり、いま雷の丘と呼んでいる。
そののち栖軽は死に、忠臣ぶりを偲んだ天皇は雷が落ちた場所に墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と碑文の柱をお立てになった。
雷はこれを怒って鳴り落ちて碑文の柱を踏みつぶした。
ところが柱の裂け目に足が挟まって捕らえられた。
天皇は雷を逃がしてやり、碑文の柱を立て「生きても死んでも雷を捕まえた栖軽の墓」となさった、とある[5]。
『新撰姓氏録』「山城諸蕃」の泰忌寸の項には、大隅・阿多の隼人らを率い、諸国に分散した秦氏の92部1万8670人を集めたという伝承が付記としてあり、『和州五郡神社神名帳大略注解』の引用する、久安5年(1149年)3月、多神宮注進状の子部神社の条にも、スガルにまつわる記録が掲載されている。》
スガルが渡来人秦氏や養蚕に関連している事実をどう見過ごせようか。
しかも三輪山で蛇と雷をとらえたとかもう怪し過ぎる。
一説によると「イカヅチ」は厳めしい蛇から来ているという。
一見関係なさそうな二者がこの神話で一緒くたになっているのも何か示唆を感じる。
具体的に言うと雷を司るカモワケイカヅチは蛇神のアヂスキタカヒコネとも同一視される。
タケミカヅチは、本来北関東の鹿島の蛇神であったが、後に雷の神という属性が追加された、など。
そして蛇神といえば、当然三輪山の大物主。
三輪山で、蛇を捕まえろとか、普通だったら絶対に有り得ないだろう?
神聖な山の神聖な蛇を捕まえるなんていくら天皇でも絶対に許されないはずだ。
ところがスガルは躊躇なく行っている。これは何を意味するのか?
三輪山の祭祀を司るオホタタネコの子孫かなんかだったからじゃないだろうか?
少なくともカムヤイミミの子孫ということなら血は繋がっている。
カムヤイミミ系の氏族で有名なのが意富氏である。
意富氏は古事記を編纂した太安麻呂が有名。(昔は意富の表記だったが太や多に変えたのだ)
ほぼ確実にオホ氏とオホタタネコは何らかの繋がりが存在すると思われる。
【まとめ】
スクナヒコナがアメノカガミノフネに乗って海からやってきて、やがて常世の国に帰り、彼に代わる新しい相棒として大国主が、またまた海の向こうから来た御諸山の神を仲間に得たからといって、スクナヒコナが渡来人だという証拠はないですし、
それと同じようにして敦賀にやってきた新羅王子・天日矛の子孫である神功皇后が「日撫神社」に「スクナヒコナ」を祭り、敦賀気比神宮の気比大神とスクナヒコナを神功皇后が当然のように同一視してるからといって、スクナヒコナが新羅王子と深い繋がりがある証拠にはならないし、
天日矛が鏡村の陶人を従えた事とカガミノフネに乗ってきたスクナヒコナに関係があるとするのはこじつけだし、
大阪の陶器遺跡がのこる陶荒田付近から来たオオタタネコを奉るオオタタネコ神社にスクナヒコナが奉られていることと、天日矛の近江の鏡村・陶人伝説が一致するのが偶然の範疇だし、
天日矛から逃げてきたアカルヒメを奉るヒメコソ神社が大阪にあるからといって、ここに、わざわざ日本まで彼女を追いかけてきたと伝わる天日矛が来て、ついでに陶人もついてきて大阪に定着したなんて根拠がないし、
アカルヒメを奉るはずのヒメコソ神社で何故か今はシタテルヒメが奉られていて、同様にシタテルヒメとアカルヒメを同一視する神社や伝説が多数あるからといって、シタテルヒメの夫・天若日子とアカルヒメの夫・天日矛が同一という証拠はないし、
天若日子が天羽々矢と天之麻迦古弓などの宝具を持っていてニギハヤヒも天羽々矢を神武に見せていて、二人とも全く同じように天磐船に乗って大阪から大和へ川を上ってきた伝承があるからといって二人を同一視するべきではないし、
天日矛の子孫であり、神功皇后を輩出した息長氏が大阪の真偽不明な伝説によれば武甕槌や大物主の子孫であり、古事記によれば河内から来たオホタタネコもその系譜に入ってるといっても、
本当は三輪山の大物主信仰は比較的歴史が新しく、大阪方面から渡来人によってもたらされたとは言えないし、
大物主や事代主が大和の神であった割に神武東征の際に大和側の名のある神様はニギハヤヒとナガスネヒコしか出てこず、神武と二代目が恐らく政治的な理由によって大物主や事代主の娘を正妻にしているからといって、(彼らが恋愛結婚なわけがない)
実は大物主や事代主がニギハヤヒと同一または近しい存在という証拠はないし、
何故かツヌガアラシトと名前の似ているカモタケ「ツヌ」ミが神武を紀伊に導き、
体勢を立て直したあと一気に大和を攻略できた功績によりカモ一族は繁栄をし、
彼の娘の玉櫛姫が事代主または大物主との間に産んだ姫が神武や二代目天皇の正妻になってるのに、
どういうわけかニギハヤヒが櫛玉姫をめとっていて、
櫛玉姫の子供が紀伊の天香山であり、大物主の子孫の武甕槌に目をかけてもらってるニギハヤヒの息子の天香山は神武を助けていて、
「天香山で採れた金属でイシコリドメが日矛鏡を造り、紀伊の國懸神宮の日前神のご神体となった」からって、
日前神=天日矛=ニギハヤヒ=大物主なんて妄想やこじつけが過ぎるし、
古事記では大物主の子孫と伝わる武甕槌の父または祖父が甕速日でも、武甕槌と大物主と饒速日が近しいなんて考えすぎかもしれないし、
まして敦賀で天日矛と同一であると見て間違いない「気比」大神が奉られていて、それが和歌山県の方に伝わって「紀伊」になったなんてただのダジャレだし、
カモタケツヌミの娘の産んだ鴨王と呼ばれる人の子孫がオホタタネコであり、播磨国風土記に、昔、呉の勝が韓国より渡り来て、はじめ紀伊の名草の郡の大田に留まり、その後、分かれて摂津の三嶋の賀美の郡大田に移り住み、それがまた分かれて揖保の郡の大田に移り住んだ。
と書かれており、カモタケツヌミの別名は三嶋溝杭耳であり、大阪三嶋にはスクナヒコナを祖先とする三嶋県主なる人がおり、
オホタタネコの曾祖父が紀伊名草姫をめとっていて、紀伊の名草にはあの日前・國懸神宮があり、日矛鏡があるからといって、
崇神天皇と古代日本を救ったオホタタネコが渡来人、とくに天日矛と関係があるかは断言出来ない。
「゛奈良県の、3世紀の同時代では日本全国で断トツ最大の規模である大都市・纏向遺跡で渡来系の品や鉄器が全然発掘されず、他者に征服された様子も全然見られない以上、筆者の言ってる事は全て妄想ですっ!゛」
そうです。超重要な纏向遺跡では今のところ鉄器や舶来品はほぼゼロ。
どこかに征服された様子もなく独自の文化を持ちつつも、北九州以外の日本全国の土器や品々がここに集まっている。
当時最大級の都市であり、敵からの防御を考えているような感じもしない。
つまり3世紀時点ですでに大和王権は奈良盆地の東端、纏向の土地を首都とし、強大な支配力を有していて、非常に広範囲な地域を支配していたと見て間違いないということ。
残念ながら奈良は思ったより凄い。
どうにかして渡来人が奈良を支配したと考えたいのだが、今のところ奈良は独力で勢力を伸ばし、鉄器がないというハンデを全くものともせず日本の覇者になっていったというのが妥当なシナリオである。
一体どうやったのだろうか。
筆者のペンネームの由来はオオタタネコ好きだからである。
非常に可能性は低いが、女の子だったら、卑弥呼かも?