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欲情ハニィに溶かされて。

煽情ハニィに溶かされて。

作者: 梶原ちな





――ユメかウツツかマボロシか。






『煽情ハニィに溶かされて。』






「じゃあお願いね、あゆちゃん」

「はい」


白衣がひらひらとドアの向こうに消えていくのを、手を振って見送った。


放課後、保健医ことナカちゃんは会議があるらしく、少しの間保健室をまかされることになった。

今日は短縮授業のせいで生徒の姿はほどんど見当たらなく、実際、閑古鳥が鳴くありさまだ。

まかされたといっても、現状は留守番に近かった。


静かすぎるといっても過言じゃない保健室で作業の手を動かしながら耳をすませる。

聞こえるのは時計の針の音ばかりで、靴音すら聞こえなかった。


いつもより早い時間の帰宅に、みんな喜んで帰ってしまったのだろう。

もしかしたら、これから遊びにいく子が多いのかもしれない。


例に漏れず、最近、あたしが行動を共にしている二人の友人は他校の子と遊びに行くといっていた。

わざわざ誘ってくれたのを断ってしまったのは気が引けたのと、あと。


『ぜってーゆるさねー! だったらオレもいくかんな!』


という、彼のヒトコトのせいだった。


春からなにかと付きまとってくるようになった校内の有名人。

天下無敵のベビーフェイスにささやくようなハニーボイス。

その甘ったるい口調で落とせない女はいないとまでいわれる『あの村田』。


間違いなく、この男は来る。

でもって、なにをしでかすかわからない。

その的外れでは決してない嫌な予感が、あたしに鋼鉄の歯止めをかけたのだ。


そんな彼もさっき急な用事とかで飛ぶように帰っていった。

すがるような子犬の目が上目ヅカイであたしをとらえていたけれど、そこはあえてスルーした。


よって、本日はひとりきりの保健室。

ナカちゃんもいなければ、いつものさわがしいメンバーもいない。


こんな平和な時間は久々だ。

そう思って中央のテーブルに突っ伏していれば、妙な違和感が左側からおとずれる。


テーブルの左側。空席。

そこにいつも腰掛けて、器用な手つきで作業する人物。

そういえば、朝から姿を見ていない。


『あの村田』の対になるもうひとりの有名人。

正反対の外見に低音ボイス。ひとが良さそうで、優等生の代表みたいな顔をした性悪。

ある意味いちばんやっかいな相手でもある彼は、いったいどうしてしまったのだろう。


めずらしいこともあるものだと頭の片隅で思いながら、ゆっくりと迫ってきた眠気に逆らうことなく目を閉じる。


換気のためにわずかにあけた窓。

侵入する風に舞うカーテンのささやき。

こもれびがやわらかく差し込んで、足元で揺れる。


考えていたものに、白くにごったもやがかかっていく。

かすんで遠のいていく意識を、そのまま手放してしまおうとした、そのとき。



「失礼します――あれ。長田さんひとり?」



横に引かれたドアの軋みと同時に聞こえたそのかすれたような声が耳に入った。


顔を上げるのが面倒で、声のするほうに首をかたむける。

視線の先には鞄を持って学ランの首元をゆるめる岡崎くんの姿。

ぼんやりした視界の向こうから近づいてきた彼は、目の前に立つと手を左右に振ってみせた。


「先生もいないってことは、留守番かな?」

「正解」

「ああ、今日は定例会だからか。なら、しばらく戻ってこないな」


なんでいちいち先生の会議事情まで把握しているんだ。


そんな疑問がぼやけた思考のなかで浮かび上がったけれど、あえて口にしなかった。

それがこの岡崎大地だ。といわれれば納得せざるを得ないからだ。


「――ずいぶんと眠そうだね。お嬢さん」

「っ!」


そんな考え事をしている最中。


突然、至近距離で顔をのぞきこまれた。

かすみのかかったセカイが一瞬にしてクリアになる。


これだから顔がいいと自覚している男は嫌になる。

普通、こんな距離でこんなことをするはずがない。

誰しもが自分の容姿に自信があるわけじゃないのだから。


驚きと気恥ずかしさが一気に襲いかかってきて、反動でイスを後ろにずらした。

床をこする音がしたと思ったら、つっかえてしまったらしく唸るような衝撃が伝わってくる。


「相変わらずイイ反応するね。留守番中にそんなぼんやりしてていいの?」

「う、ううるさい! なら、岡崎くんが代わってよ! あたし寝るから!」

「それは職権乱用というものじゃないかなあ。いくら委員とはいえ」

「じゃ、体調不良にしておいて! 理由は驚かせられたためで!」


染まる頬をごまかしたくて、すぐさま立ち上がり近くのベッドにダイブした。

上履きを投げ捨てて、仕切りのカーテンを引く。

勢いあまって跳ねたカーテンのすそから、口元を押さえて笑う岡崎くんが見えた。


くやしい。

どうしてこうもまたしてやられるのか。


泡をふかせてやりたいのに、泡をふかせられてばかりいる。

動揺するのはいつもこっちで、それを楽しそうに見ている彼に腹が立つ。

あたしはキングオブ笑い上戸のお笑い提供担当じゃない。


火照る頬をくるまった布団に押し付けて、横になる。

さっきまでの眠気はどこへやら。落ち着きのない心臓と格闘しているうちに、影が差した。


「長田さん」


その声に顔を上げると、カーテンの向こうで長身の影がゆらめいた。

のぞき込まないのは礼儀だからなのか、そこは相方と違って褒めてやりたいけれど口が勝手にすねた音を出す。


「なに」

「俺も寝るから。実はさっきまで会議の資料作りの手伝いをしてて眠いんだよ。外出中の札、下げておいたから」


だから朝から姿がみえなかったのか。

というか、一介の生徒にそんなことを頼むだなんて先生もどうかしている。

そんなことに納得している内に反応が遅れてしまった。


「はあ!?」


勝手に外出中の札をさげて、しかも寝るとは。

いや、人のことはいえないけれど。


でも、さすが『あの村田』の公式友人だけはある。

やっぱりどこか似通った部分があるのだろう。

納得のあとに感心。そうこうしているうちに隣でガサゴソと音がしはじめた。


「ちょ、」

「これで同罪だね。あ、起き上がるのはナシだから。もうベッド使用用紙に記入しちゃったしね」


カーテンの向こう側から、共犯宣言とともに脅しがかかる。


先に寝たのはあたしで、札を下げたのは彼。

証拠として使用用紙への記入。もちろんボールペンだから隠滅もできない。

これでナカちゃんには同等にしかられるはずだ。



これは、――カンペキにやられた。



「じゃあ、おやすみ。長田さん」


笑いを隠し切れない声がカーテン越しに響く。

声にならない声が頭のてっぺんから上がりそうになるのを、こらえるだけで必死だった。






** *






よくあるアレに陥ってしまった。

アレといったらアレである。


時計の針の音が、やけに耳についてはなれない現象のことだ。


よって、さっきまでの眠気はどこへやら。

カンペキに覚醒した状態で視界の端に入るのは、隣のベッドに横たわる影。


耳をすましている自分がかなり嫌だ。

身動ぎをした音くらいで過剰に反応する自分がとてつもなく恨めしい。


張り裂けんばかりの鼓動が耳障りで、布団を頭からかぶって丸くなる。

こうなったらなにがなんでも寝てやる。

だってこんなの、あたしばかりが妙に意識していてくやしいじゃないか。


自己暗示とばかりに目をつむって、思い描くのはやわらかくて白い毛をした眠りの代表格であるあの動物。

丁寧に木の柵まで脳内構築して、彼らを数匹待機させる。


(ひつじが一匹。ひつじが二匹、ひつじが、)


エンドレスなひつじワールドが、きっとあたしを穏やかな眠りに導いてくれるはず。

そう思い続けて、ひたすらにひつじを柵から飛び越えさせた。


ところが。


「長田さん、眠れないの?」


はい、きた。


その男前な低音のおかげでひつじワールドは崩壊。

自己暗示もとけてしまった。


そうですとも。眠れませんとも。

隣で横になっている誰かさんと時計の音のせいで、目がさえまくっていますとも。


胸のなかを黒々と支配する声なき声をまさか吐き出すわけにもいかず。

ここはひとつ、寝ているふりをするしかあるまいと手に力をこめた。


「長田さん」


シカト。無視。

反応なんてしてやるものか。


呼びかけに応じることなく、目をかたく閉じる。

ここは夢のなかでいまあたしは眠っていてだからその声には反応しない。


たとえ、なにが起きたとしても。

ぜったいに、動いてはいけない。


再度、自分にかけた暗示は強固なもののはず、だった。

カーテンの開かれる音が、聞こえるまでは。



「ああ、やっぱり。長田さんはウソが下手だね」



あまりの予想外の出来事に、息の根も止められたに近い心境だった。

少なくても数秒、心肺停止状態に陥ったにちがいない。


カーテンの音と同時に見開いてしまった目には、白いシャツのボタンを三つくらい外し、袖をまくった、普段の優等生姿からはありえない彼の姿がうつった。


ちょっと待て。

これはいったいどういう事態なんだ。

というか、なんでこの男は勝手に入ってきたんだ。


パニック寸前の脳内から導き出される答えなんて何もなかった。

呼吸するのも忘れて、あんぐりと口をあけたまま、いわゆる放心状態で停止する。


「ははっ、なにもそんなに驚かなくても。つかウケる」


いまこの状態でウケてるのは、世界中どこを探してもあんたくらいだ。


混乱してぐちゃぐちゃした心理状態でも、あたしの思考はなんとかめぐっているらしい。

ただ、カラダだけは一向に動くことができなくて、ほうけた状態が続いていた。

そんな中、先に動き出したのは彼のほうだった。


「長田さん、眠れないんだろ? 実は俺もなんだ。だから――」


なにもかもが、夢みたいだった。

おだやかで、静かで、現実味がなくて、ふわふわしていて。


目の前で岡崎くんが髪をかきあげる。

ベッドが沈んで、大きな手と制服の黒が視界を埋めていく。


持ち上げられた布団から、入り込むつめたい外気。

そして、次の瞬間おとずれたつつまれる感触と熱。



「いっしょに、寝ない?」



低い声が耳元で宣告するのと同時に、頭を少し持ち上げられて腕が差し込まれる。

後ろのほうから髪の毛がゆっくりとすかれて、めまいがおこる。


間違いない。これは夢なんだ。

ひつじワールドに岡崎くんがあらわれただけなんだ。


夢に決まっている。この事態が現実であるわけがない。

だってこんなのありえない。あたしの人生マップに予定がない。

平凡で平穏で普通な生活に、こんなハプニングは組み込まれていない。


「長田さん、生きてる?」


その確認と同時に、カラダを引き寄せられてぶつかった。

一気に押し寄せてきたのは、自分のものじゃないにおいとリアルな感触。


しんでしまうんじゃないかと思った。目の前の男の手によって。

時間をおいて蘇生しはじめたあたしのカラダは、火炎放射とばかりに熱を噴き、焼けただれ、どろどろと溶けていく。


頭がおかしくなったんだと思った。

じゃなかったら、ひつじワールドにとらわれてしまったんだ。

そうじゃなきゃ、この状況に理由がつかない。


「長田さんの鼓動、俺にまで響いてきた。そんなに緊張しなくてもいいのに」


どうやらこの夢、もとい、ひつじワールドの岡崎くんは現実の岡崎くんと変わりないらしい。

発言がストレートすぎて、こっぱずかしい。

緊張するに決まっているだろうが。


抱きしめられたカラダから響く音は、ありえないほどの早鐘を打っている。

リアルすぎるその音は、眠っているはずの感覚をとぎすませていく。


岡崎くんの喉元あたりに押し付けられた自分の顔が、加熱しすぎていたい。

頭のてっぺんに岡崎くんの顔がくっついていて、声が出るたびに脳震盪が起こってしまいそうだ。


「孝也とも一度こうして寝てただろ。だったら、俺ともいいと思わない?」


ああ、なにを言っているんだろう。

あたしはついに日本語を理解する力まで失ってしまったのだろうか。


耳がくすぐったい。そこから入ってくる甘ったるいものが、どんどん溶かしていってしまう。

このささやきはわざと? かすれてるのは疲れているから?


「これ以上、何もしないよ。だから安心して眠って」


いやいやいや。もうすでに寝ているから。これは間違いなく夢だから。

というか、これ以上ってナンデスカ。


「じゃあ、長田さんのいう通りこれは夢ということで」


なんだかひっかかりを覚えるものの言い方なんですが。

だって、これは夢なんでしょう。


「そうそう。ほんと、面白いね。長田さんは」


かすれた笑い声に含まれた吐息がまた耳をくすぐる。

逃げ出したくても身動きが取れなくて、とっさに目の前のカラダに顔を押し当てた。


「……あーこれは、かなりヤバいなあ。あいつ、あのときよく耐えたな」


言っていることが理解できない。なにがやばくてだれがなにに耐えたんだろうか。

混乱する頭の中。火炎放射も脳震盪もどこかへいってしまって、髪を撫でられる感触がただ気持ちよかった。


行き来する手が、やさしい。

包み込まれる温度がここちいい。


「眠い?」


かなり。いや、ものすごくかも。

だって、気持ちいいから。


「そう? ならこのまましてあげるよ」


じゃあ、すみませんけど、よろしくお願いします。


「っ、ちょっと待った。ツボった。はは、かわいいな」


わずかな振動がてのひらから伝わる。

ぼんやりとかすむ視界。重くなっていくまぶた。

夢の中でも眠ることはできるのだと、妙に感心しながら目を閉じる。



「おやすみ。いい夢を」



髪を撫でていたはずの手が動きを止めて頭を引き寄せる。

わずかなやわらかい感触と、濡れたような音が頭上で響く。


それが最後に聞こえた音で、あたしが唯一生々しく覚えているものだった。






「――ゆ、ちゃ、あゆちゃん!」


目が覚めたとき、目の前にいるのはナカちゃんでその手にはカーテンの端が握られていた。

安心したかのような声とあきれたようなため息が聞こえて、ゆっくりと頭を振る。


「まったく、そんなにぐっすり寝ちゃって。びっくりしたわ」


ナカちゃんのお小言を聞きながら、つめたい風の吹く方向を見遣る。

ひかりのこぼれる窓はなぜか全開で、はたはたと軽い音を立ててカーテンが揺れているのが目に入った。


「外出の札まで下げちゃって用意周到ねえ。ベッド使用許可書を書いたのはえらかったけれど、岡崎くんも共犯なの?」

「え?」

「だってこの字、岡崎くんのでしょう? そういえば姿が見えないけれどどこにいったのかしら」


その名前が耳に入った瞬間、一気に目がさえた。

正常に動き出した思考がいちばんにとらえたのは、隣のベッド。


きちんと整えられたそこに使用したあとなんて露ほども見えなかった。

だけど。


「それにしてもあゆちゃんの寝相が悪いなんて意外だったわ。シーツは乱れてるし、枕は落ちてるし、上履きはバラバラ。ベッドなんてまるでふたりで寝ていたみたいな跡がついてるもの」


ナカちゃんのいうように、ベッドの端ぎりぎりまで妙にへこんだあとがあった。

まるで、誰かが眠っていた証拠だといわんばかりに。


『いっしょに、寝ない?』


あれ。


あれは、全部夢でだったはず。

ひつじワールドが生み出したこっぱずかしいマボロシだった、はず。


『そう? ならこのまましてあげるよ』


外出中の札、ベッド使用用紙、落ちていた枕、散ばった上履き。


どこからが夢で、どこからが現実?

あたしはまだ寝ぼけているのだろうか。


髪の毛に触れる。いつもより指どおりがいいのは、気のせい?

どうしてさっきから、頭のてっぺんがどことなくくすぐったいのだろう。


『おやすみ。いい夢を』


カーテンが窓から吹きつける風にあおられて、大きく舞った。

そこから見えた空はあまりにも青すぎて、あたしをも同じ色へと染め上げていくのだった。






** *






「あゆー? 今日なんか変じゃね?」



いつものように放課後保健室。

ナカちゃんに頼まれた仕事を黙々とこなしていると、右側から手をすくいとられた。


勝手に所有物扱いをしている右手をつかんだ犯人は、特有の甘ったるい声を出して顔をのぞきこんでくる。

相方といい、この男といい、どうしてこうも至近距離好きなんだろうか。

思いふけっていた事柄が一瞬にしてはじけ飛んでしまい、作業の手を止めざるを得なかった。


「変じゃない。手はなして。仕事できない」

「なにそのカタコト。センセー! あゆがオレにつめたいー!」

「あら。今日のあゆちゃんは私にも冷たいのよ?」

「マジで? やっぱりなんかあったんだな! そーだろ!」

「ナカちゃん!」


感情の変化に機敏なひとはこれだから困る。

いや、あたしが分かりやすいだけかもしれないけれど。


ナカちゃんに冷たくした記憶はこれっぽっちもない。

それでも態度がおかしいのは、自分のなかで昨日の出来事の整理が出来ていないからだ。


あれは夢? それとも現実?

もしもあれが本当にあった出来事なら、自分がどうなってしまうかわからない。


肩口で下がる髪の毛に手を伸ばしかけて、ひっこめる。

生々しく残る撫でられた感触が、どうにもこうにも消えてくれない。


「髪、なんかついてんの?」

「え」

「ずーっと、気になってるみたいだったから」

「そんなこと、」


言いかけたものは、村田くんのてのひらに押し込められた。

右横から伸びた手が、遠慮なくあたしの頭部に触れる。


上から下に、繰り返し何度も。

頬杖をついて満足そうに髪を撫でるその姿に、動きが止まる。


「あゆの髪はきれーだぜ? このまま触っていてーくらいだし」



その瞬間。

触発、という言葉の意味を身をもって理解した。



『なら、このまましてあげるよ』


耳元でよみがえるあのかすれ声。

くすぐったい、低音ボイス。


どこからともなく、溶けていく。

うるけて、ふくらんで、流れていく。


「あゆ?」

「な、なんでも、な!」


耳まで染まっているのが、自分でもわかる。

いたいくらい熱いのは、記憶からよびさまされたもののせいだ。


あれは夢だった。そのはずだった。

なのに、なんでこんなに反応してしまうのだろう。



「失礼します、ああ、もう来てたのか孝也」



ドアを開け放つ音。響く声、鼓動。

振り向くことなんて、不可能に思えた。


「おー、大地! 最近忙しいんじゃねえ? 昨日も見なかったしよー」

「ああ、昨日は一日担任のところに詰めてたんだよ。プリント作りとかな」

「頼りにされてんだな、って、あゆー?」


うつむいていたところを話しかけられて、顔も上げられない。

髪を行き来する村田くんの手の感触だけが、いますがることのできるただひとつのものだった。


近づく足音に、増していく動悸。

溶けて流れたものはつま先からあふれだして止まらない。


「なあなあ大地。今日のあゆは様子がおかしいんだよ」

「あのな……お前がそんなにべたべた触ったら、誰だっておかしくなるだろ」

「そうかー?」

「そうなんだよ。ほら、だから手どけてやれ」


離れていく重みに、肩が揺れる。

離れていかないでほしいなんて、あたしはどこの寂しがりやの子どもなんだ。


こんなに不安なのは、どうしてなのだろう。

ゆらぎつづける感情はとろけ落ちて、ぐずぐずとくすぶっている。


「やっぱり保健委員の仕事のほうがいいな。ね、長田さん」


てっぺんに触れる、大きなてのひら。

二回跳ねて、髪をすいていく指先。


「あー! 大地だって触ってんじゃねーか! ずりぃ!」

「お前と俺を一緒にするなよ。やましさの度合いが違うだろ。それに長田さんは髪撫でられるのが気持ちいいっていってたしな」


とっさに顔を上げてしまったのは、思い当たるふしがあったからで。

それは、夢と現の境目で確信が持てないあたしに決定打を与えるものだった。


「そうだったよね?」


見上げた顔。目に入った意味深な笑顔。

遠くぼやけたセカイの端に、まっしろくてやわらかな羊毛が見えた気がした。





****** **


最後まで読んでくださってありがとうございました。

この作品は『欲情ハニィに溶かされて。』の番外編になります。


自身が管理しているHPの2周年記念企画にリクエストいただいた岡崎くんの話を書かせていただきました。

ご投票、リクエストくださった方、ありがとうございました。


****** **



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― 新着の感想 ―
[良い点] あぁ、いいですねぇ。 文章に無駄がないのに、情景が浮かんじゃうですよ〜。素晴らしい。 私の目指す文章です。
2010/04/20 17:08 退会済み
管理
[一言] 面白くて、本編から一気に読んじゃいました^^
[一言] 若いっていいなっ(笑)こんな時代に戻りたいです♪
2009/07/09 21:19 ゆうちゃん
感想一覧
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