01.
この街に来て半年、真っ白だった世界はやがて野郎どもの汗が蒸発して霧状と化したむさ苦しい世界へと変貌していた。といっても、それは昼間の話。早朝はまだ外出している人も少なく、太陽が完全に登っていない為、平均気温も低い。この気温がこの夏中続けば良いのにと憎しみを抱いてしまう。
午前五時十五分。エンジェル・ブルー市、六番街。
私は枕片手に二度寝の準備に入った。
「――おやすみなさい」
「じゃないでしょ、レイ!」
と言って私の腸に躊躇の欠片もない、容赦なき蹴り技が炸裂した。
最近は主人公を蹴り飛ばすキャラも減ったかと思っていたら、こんな所に隠れていたか。将来は良いジャパニーズニンジャになりそうだ。
などと、無駄なことを考えながら痛みを紛らわそうとするが、結局体は正直で、痛みに耐えることは無く悶絶し始めた。私のその醜い姿を見ても、私の腹に一撃を喰らわせた彼女の表情は一切替わらず鬼神の如くだった。
「何か言いたいことは?」
「欲を言えば「ん、あと五分ぅ」と言いたい所だけど、それを言ってしまうと甲冑なしで五万の歩兵に立ち向かうような自殺行為だからやめておきます。真面目に支度します」
「よろしい」
未成年の少女に、成す術無く従わざるを得ない二十代女性の図がここに完成した。世も末である。ベオが見たら多分「だらし無い」とか「男前じゃねぇ」とか言うんだろうな。というか、私、男じゃないんだから男前じゃなくて当然じゃない?
またもや、下らない事を考えながら私は腹を抱えて立ち上がる。枕をベッドに投げて床に広がっている服の山の中からシャツ一枚とジーンズを取り出して着る。ドアに掛けておいた革製のジャンパーを上から着て準備は完了。あ、靴下忘れた。
愛用のヘルメットと予備のヘルメットを二つ手にして、
「行くよぉ、シエル」
彼女に予備の方を渡して、空いた片手で彼女の手を握って玄関のドアを押し開ける。空いた隙間から冷たい風が流れてくる。それと同時に体が急な寒さに反応して震えるが気にすること無く次の一歩を踏んだ。冷たい風の次は、早朝の匂いが私を覆い被る。新鮮さが、鼻を通って全身に浸透していくような、そんな匂い。二つの感覚が刺激され、先程まであった眠気が遠い空の向こう側に消えていったようだ。
階段を降りる音。カンカンと、鼓膜にリズムが刻まれる。雑音に紛れる事無く、鮮明に。
太陽の黄色い光と夜の暗闇が徐々に混じり合い、境界線には朝焼けが齎すグラデーションが出来上がっていた。まるで昨日飲んだカクテルのようだ。
一階に辿り着いた私達は愛用のバイクが駐車してある場所へと向かう。
彼女とはまだ手をつないだまま。私の手と違って乾いておらずしっとりとしていて、温かい。赤子よりも大きく、だが私よりは小さく。今にでもポキって折れてしまいそうな、か弱い手。強くは握らず、そっと彼女の温もりを感じ取れる程が丁度いい。
バイクを目の前にして私は彼女の手を離してヘルメットを被る。被り終えて振り向くとシエルがヘルメットと乱戦を繰り広げていたので仕方なく手伝ってあげた。
「たまには可愛い所あるじゃん」
「う、うっさい」
「うッ」
シエルは私の脛を軽く蹴っては、バイクの後部座席に早々と乗って前部座席をポンポンと掌で叩く。早く座れとのご命令だ。我儘なお嬢様のご命令とあらば、従うしかない。
「でもさぁ」
「何、レイ?」
「急だなと思ってね」
「執事のテイラーとお姉ちゃんがね、ここだけではなくもっと色んな物を見てこいって」
「いや、だからって……」
今回、配達局所属の私が受け持った仕事。それは彼女、シエルをとある場所へと輸送する事。実際、今まで人を運んだ事は何回かある。昨日だって最初はそんな感じの仕事だったわけだし。死体も運んだことあるし、護衛みたいなこともしたことあるけど、まさか――
「アメリカ横断、なんて初めてだよ」
彼女の輸送先、それはカリフォルニア州ユーレカ市。アメリカ本土の最西端の一つ。そして私達が今いる場所がニューヨーク州。その距離なんと3025マイル。キロに変換すると4866キロになる。国道で移動して46時間という、聴くだけで精神に支障をきたすような距離だ。
だが、もう既に報酬金は前払いで貰っているし、ホテル代も食費も全てローレンス家、具体的には執事のテイラーさんが負担してくれるとの事。ちょっと不安になってマコトに相談もしてみたが「休暇だと思って楽しんでこれば?」と他人事のように言われてしまった。確かに他人事だけれども。
「準備出来たか?」
「うん。いつでも出発していいよ」
「それじゃ、出発するか。目指せ、合衆国最西端!」
シエルが私の腰に手を回して安全を確保したことを確認して、私はハンドルを握り、エンジンに火を付ける。エキゾーストパイプから灰色の煙が出るのと同時にエンジンの低音が辺りに鳴り響いた。地面を蹴ってゆっくりと加速させ、駐車場を出ると同時に一気にスピードを上げる。誰もいない空っぽの道路を、トップスピードで駆け抜けるこの快感、たまらない。法を絶対遵守するトマスなんかに見つかったら今度こそは見逃してはくれないだろう。
「あっ、大丈夫、シエル?」
完全にシエルの存在を忘れて、かっ飛ばしてしまった。少し前、シルヴァを後ろに初めて載せた時にもかっ飛ばしちゃって、気づいたら気絶していた事もあったのに、まるで反省していないなと自分でも思う。
「だ、大丈夫!」
と彼女は言いつつも、私の腰を巻く強さは一層増していて、彼女が意地っ張りだという事を再確認させてもらった。多分、両目も閉じて額を私の背中にくっつけて突き放されないようにしがみついているのだろう。本当、普段もこれくらい可愛ければもっといいのに。
少しずつ、シエルが安心出来る程のスピードに落としていく。それに比例して段々と私の腹を巻きつけていた腕の力が抜けて、エンジェル・ブルー市を抜けた頃には通り過ぎる景色に目を向ける程不安感が消えていた。高速ですり抜ける街並みを初めて見た彼女は、無意識に発した驚きの声をマイクに拾われていた。こういった反応を見るのも、バイク乗りの醍醐味だと私は思う。
だが、高速道路に出ると今までとは裏腹に同じ景色が何十分も続いた。左右には絶える事のない木々と延々に広がる畑。たまにある藁束を見るのが唯一の退屈しのぎになるくらい。
マイクからため息が聞こえる。
「――レイ、なんか面白いお話してよ」
「た、退屈なのはわかるけど、そんな無茶振りされても困る」
「でも、ずっとこんな詰まらない道を進むんでしょう? 次の街につくまで後何時間だっけ?」
「あと四時間」
「うん、やっぱり面白いお話して。というか何でもいいから話して。退屈を紛らわせるなら何でもいいから。あ、そうだ。昨日までしていた仕事の話をしてよ」
「えぇ……多分機密事項扱いなんだけどなぁ……あ、でも私は所詮配達局の人間だから大丈夫かな? 異端審問官でも何でもないし、部外者だし」
「やったぁ!」
「それじゃ、どこから話したもんか」
「無難に最初からでいいんじゃない?」
「了解しましたよ、我儘なお嬢さん」
そうして私は語り始めた。昔々、なのではなくほんの数日前に始まった、私とこの街を巻き込んだ大騒動を。この街、エンジェルブルー市だからこそ起こり得る出来事を。
何一つ平和ではない、物語を。