十月は誰そ彼の国(2)
「あら、かわいらしい子ね」
うぐっ。玄関先で出迎えた依頼人の第一声にぼくはのっけから気を削がれた。なんだか一人前と認められていないみたいで、かわいいと言われるのには結構な抵抗がある。これでも先生の身の回りのお世話くらい朝飯前なんだからね。
彼女――金泉冬絵と名乗った――は中年以上初老未満、ご近所のマダムは大体友だち、という印象の、ややフェイクファー的な上品さを全身にまとった婦人だった。あんまり得意なタイプに思えないけど、その名前のごとく我らが先生の必至を救う頭金の泉となっていただけるなら(それは詰みだというツッコミは受け付けません)多少のサービスはやぶさかでない。えいっ。現金なぼくはにっこり微笑んで会釈した。
「どうぞこちらへ」
こちらへ、と言ったところで廊下を抜ければそこが探偵の事務所兼居室兼寝室なのだが。
「山井です。どうも」
おお、先生、ちゃんと上着もネクタイもピシッと、うん、贔屓目を目一杯ぼやかして見ると、してる。おまけに正座だとさすがに板につくのだ。
挨拶が済んだところでぼくは金泉さんに押し入れから引っ張り出してきた座布団を勧め、番茶を淹れ、お茶菓子……はなかったのでもう一度にっこり微笑み、キッチンへ戻ったついでに溜まった洗い物をやっつけながら、失礼のない程度に耳をそばだてた。
「実は……お恥ずかしい話ですが、あたくし恋人がおりまして」
しばらくどう言ったものか迷っていたみたいだったけど、いざ言葉にしてしまうと金泉さんは背筋をピンと伸ばしてまっすぐ前を向いた。
「はあ」
恋人ぉ?ぼくはチラリと和室へ目をやる。さすがの先生もちょっと呆気にとられたような顔だ。
金泉さん自身はちょっと鷲鼻で頬骨が高いのを好みの問題とすればまずまず美人だと思うし、若かりしころはかなりモテたんじゃないかな。ただ、推定年齢五十代半ばを過ぎた女性の口から『恋人』というワードが発せられるとは想像していなかった。そして先生とぼくはそこからたっぷり五分ほど、彼――『あっくん』こと納戸下篤史――がいかに素晴らしい男性であるか傾聴するはめになったのだった。
呼び名の破壊力に旅に出そうな腹筋を必死に引き留めながらまとめるとこう。
あっくん……は抽象画を描く人で、とあるグループ展でたまたま彼の作品を目にした金泉さんはその世界に、感性にぞっこん惚れ込んでしまった。そこからあらゆる筋を伝って(!)なんとか連絡先をゲットし、ついにご対面に成功。何度か食事に行くうち、自然と交際する運びとあいなった。それが三ヶ月ほど前のこと。それからのアツアツな日々(ただし彼女曰くプラトニックな関係。そりゃそうだろうなあ)。なお、彼の見た目は賢いムク犬、だとか。ぼくはステレオタイプな老画伯像を思い浮かべるとともに、その一言で表現できるパーツ感、先生にもちょっと分けてあげてほしい、と切実に願ったのである。類型的と平均的は違うのだよ。
「ははあ。振り飛車に美濃囲い、ですなあ」
あっくん礼賛が一瞬途切れたところで先生は金泉さんに断りを入れて煙草をうまそうにくゆらせる。ようやく頭がしゃっきりしてきた模様。なお、先ほどの発言はつまり、割れ鍋に綴じ蓋、じゃないか、比翼の鳥、連理の枝、みたいなこと?たぶん、お似合いですねと言いたかったのだろう。
「老いらくの恋……というんでしょうか。でも、あたくし幸せなんです」
先生の将棋的修辞がわかったのかわかっていないのか、金泉さんはぬるくなりかけた番茶を一口啜って息をついた。
「しかしそれならどうして」
「今年の名人戦、すごうございましたでしょ?」
質問を遮ってまたとんでもない方向に話が飛んでいった。なんだ、金泉さん、将棋わかる人なのか。心配して損をした。先生もどこかホッとしたようだ。
「たしかに。名人も挑戦者も双方二十代というのは、約二十年ぶりでしたか」
「結果は防衛でしたけど、あたくしもお友だちも皆ドキドキしながら七番勝負を見守りましてよ」
あれ、茶飲み話……。
ふたりが名人戦についてかたや熱く、かたやぬるく語り合っている間に補足すると、約百六十名からいる将棋棋士はピラミッド型に五つのクラスに分けられていて、成績により一年ごとに昇降級を繰り返す、その頂点が名人という仕組みである。そして、名人に挑戦するためにはいちばん上のA級(定員十名)まで到達して、かつそこで優勝しないといけないのだ。ワオ……過酷。ちなみに山井先生は全棋士のスタートラインであるC級2組――要するに最下層――の自称・門番と化していらっしゃいます。二十二歳のときからずっとです。
「それで、あたくし、記念扇子を購いたいと思いましたの。ただ、今年のものは早々に完売してしまって……」
「ははあ。名人も挑戦者も人気が半端じゃないですからね。うちの会社も大喜びでした」
なぜか先生は連盟のことを『うちの会社』と呼ぶ。
「実は、わたし、名人に二枚落ちで勝ったことがあるんです」
「えっ」
「彼が小学生のときですけどね」
「……それで、お話が戻るんですけど」
金泉さんのメンタルは先生なんかよりよっぽど棋士向きかもしれない。
「先頃、ようやくネットオークションで記念扇子を手に入れることができたんです。あっくん……彼にプレゼントしようと思って、それはもう大変な思いをいたしまして」
かかった金額は聞かないでおこう。けれど、記念扇子が発売されたのは春。たしか数百本から千本くらいは販売されているはずだから、いくらなんでも半年も見つけられないほどレアなものじゃないと思う。どうして今頃になって?
「といいますのも、彼がここのところ、スランプ……といいますか、製作に行き詰まっているみたいですの。でも、あたくし、絵のことは何もわかりませんでしょう?ですから、せめて応援の気持ちと……最近あまり会えない分、あたくしの身代わりにと思って」
記念扇子を贈った、と。
「それに、今年の記念扇子の言葉が彼にとてもピッタリでしたのよ」
「ああ、『感性』でしたね。たしかにアーティストにはピッタリだ。さぞかし彼も喜んだでしょう」
そういえば金泉さんもあっく……彼の感性に惚れたって言ってたもんなあ。蘇れ感性!みたいなことかな。
名人戦や竜王戦など一部の大きなタイトル戦では、タイトル保持者と挑戦者が一文字ずつ揮毫した扇子をつくるという伝統があって、今回のように、たまたま、あるいは事前の申し合わせがあって熟語や単語になることもあれば、各自が好きな漢字を書いて並べただけという場合もある。
「いいえ。それが、どうしたことか、彼は突然烈火のように怒り狂い出して。お食事していたレストランから帰ってしまいましたの」
なんですと?
「そのとき、一週間前なんですけど、以来、連絡も通じないんです。今まで彼が怒ることなんて一度もありませんでしたし、びっくりしました。それに、彼を怒らせてしまった原因がはっきりわかるのでしたら、あたくし謝るなり自分を糺すなりできますでしょう?でも、こういったことで、もう、不安で心配でどうしたらいいかわからなくなってしまって……」
金泉さんはいつの間にか膝の上に広げていた小ぶりな刺繍柄のハンカチを両手でぎゅっと握りしめた。
「なるほど。その、彼が激怒した理由を調べればいいんですね?」
「はい……。なにぶん出会って日が浅いものですから、彼のお友だちやご家族も存じ上げないんです。それに」
すがるような目つき。心の中で茶化しちゃったけど、この人、本気なんだなあ。
「こういうことをお願いできる方はあたくしの周りにおりませんので困ってましたら、山井先生が探偵業もなさっているということを風の噂で知りましたの。もしかしたら将棋が関係しているのかもしれませんから、先生以上に頼りになる方は他にいらっしゃらないと思います。どうか、お力を貸してくださいませんか」
それから多少の細かい情報についてやりとりがあった。最後に金泉さんは深々とお辞儀をして、少ないですが、と前金らしきものの入った封筒を置いて去って行った。先生、今夜はハンバーグだね!
「うーん」
すっかり夕方から夜に支配権が移りかけ、薄暗くなってきた部屋で先生は正座を胡座に崩しひとり唸る。煙草をくわえてはいるけど、さっきから火はつけないままだ。
「ねえ先生、この段階で何を悩んでるんですか?」
「そうですね……」
「……ねえ先生ってば」
「そうですね……」
あ、ダメだこれあんまり考えてないやつだ。『そうですね』は棋士の職業病的間投詞である。
「たとえば――」
ぼくは自分の推理を披瀝してみる。トンチンカンでもかまわない。それが明後日の方向を向いていればいるほど、先生の考察の助けになる……はずだ。きっと。
「ムク犬画伯が、大の将棋嫌いだったとか」
「それは薄いだろうね。お友だちと一緒に名人戦に手に汗握るほどの金泉さんなら、これまでに話の流れで将棋にふれたことはあったと思う。ヒステリックな将棋嫌いなら、そもそもそのときに怒るなり別れ話を切り出すなりするんじゃないかな」
むっ。たしかに。
「じゃあ……あっ、わかった!名人か挑戦者かあるいはその両方が画伯の親の敵なんですよ実は」
「初手端歩くらいにはありえるけど、初手端歩くらいにはありえない」
「ううう」
「いや、まあね、親の敵は言い過ぎにしても、仮に画伯がアンチ名人だったとしよう。将棋ファンでも、この棋士は顔も見たくないくらい嫌い、なんてことはあるからね」
「そうなんですか」
「わたしはテレビ棋戦で女流棋士を負かしたとき、彼女のファンのおっさんに言われた」
「きついなあそれ」
「ただし、だ。別に目の前に名人を連れてこられたわけじゃないんだから、扇子なんてその場はありがたくもらっておいて、あとで押し入れにでも放り込んでおけばいいだろう?画伯だって子どもじゃないんだし、金泉さんによれば普段はムク犬みたいに賢くて温厚でかわいらしいって話じゃないか」
多少の主観は入っているにせよ、たしかに人物像との違和感がある。
そうそう、先ほどの追加情報として、ちょっとばかり引っかかっていることが。ぼくは画伯はてっきりプロの画家なのだと思っていたのだけど、正確には専業ではなく、収入的には食えていないんだそうだ。グループ展っていうのはプロでもアマチュアでも規模は違えどやるものらしいから、勘違いしていた。 で、賢明なる読者諸兄にはうっすらおわかりかと思うけれど、金泉さんはそんな彼に金銭的援助も――程度はさすがに訊けなかったけど――行っているとのこと。うーん、この点はきなくさいなあ。
「でも先生、画伯が金泉さんをどれだけ愛しているかはともかく、貴重な金づ……もとい、生命線であることには違いないわけですよね。いろんな意味で大事にしたいと思うはずなのに、そんなことで怒るかなあ」
「そうなんだよ。いくら当日虫の居どころが悪かったとしても、ちょっと信じがたい」
とりあえず今は手持ちの情報があまりにも少ない。金泉さん自身についてももうちょっと知りたいけど、なによりもあっく……画伯の人となりや環境を調べなくては。
「これは聞き込みですね」
「まずはね。……しかし、あのマダム、わたしが今月対局少ないのを見越してやって来たな」
先生は苦笑いしながら吸い口がふやけてしまった煙草を箱に戻す。
「大丈夫ですって先生!多分この前金だけで先生の対局料より」
「おっとそこまでだ」
立ち上がってネクタイを締め直し、先生が振り返って頬を緩めた。
「まあ、これでハンバーグでも食べにいこうか」
……よく考えたら今の先生、画伯と同じような立場になってないか?とチラッとよぎったけど、ぼくは一人前のオトナなのでそっと胸にしまっておいた。