十月は誰そ彼の国
ブラッドベリ曰く。
じゃないや、正確には翻訳者曰くだけど、まさしく京都中が『黄昏の国』に突入したと言われて頷けるような爽やかな午後。
びゅびゅんと行き交う自転車たちが置き土産に残した風に、街路樹はくすぐられサワサワ揺れる。季節同士で綱引きしているのなら、夏がその片端から完全に両手を離したかっこう。バンザイ!
ぼくは河原町通を今出川から南下している。目印を復誦しながら。
チキンカツのおいしいお弁当屋さん、シャッターが半分閉まった時計屋さん、御利益のありそうな木彫り人形が店頭に鎮座まします喫茶店……そして見るからに怪しげな悪の組織マークを掲げた宗教団体事務所の角を右へ折れたら細い通をそのまま、しばし直進。何度も通った道だから別に目をつむってたって歩けるけど、なんとなく頭のなかで町が動いているみたいで楽しいのだ。
さて、お寺の塀に突き当たる手前、左側の古ぼけた木造二階建てマンションが目的地。トントントンッと階段を上がって『二〇一』号室、きっと幾星霜の風雪に耐えてきたであろうかわいそうなドアをノックする。チャイム?彼は何半世紀か前にその役割を終えました。
……返事がない。
もしや、と思って握ったドアノブをまわすと、ボナンザ!やっぱり鍵はかかっていなかった。
勝手知ったる部屋なので、ぼくは遠慮会釈なしにずんずん足を踏み入れる。
玄関を入って左手に手前からトイレ、お風呂。そして逆コの字型にへこんだ部分に比較的広々としたキッチン。そのかわり洗濯機の設置可能スペースがないという謎物件である。
無駄に長い廊下の先の襖を開けると、八畳の和室に、散逸という言葉で埋め尽くされたようなゴ……もとい、用途不明なアレコレや段ボールの山と、午後の淡い日差しにキラキラ舞う埃。そして、これまた想像に違わず、お目当ての人物はその中心に埋もれるようにして……寝ていた。これが死に顔だったらとても良い人生だったんだろうなと感嘆するところだけど、生者にはそれぞれつとめがあるのだ。ぼくは心を鬼にして彼の耳元に口を近づけて叫んだ。
「先生―!起きてくださーい!山井先生―!」
十数分後、ぼくの獅子奮迅の働きにより、『ゴミ屋敷』から『強盗に入られた部屋』くらいまでレベルアップした隅っこにてアナグマの姿焼きと化した先生は、座卓についた肘の上にまだ夢の名残に片腕を引っ張られていそうな顔を乗っけていた。のろのろと煙草に火をつけて一吸いすると、うっすら恨めしそうな目でこちらを見上げて言う。
「あのね、わたしはお昼ご飯を食べると横になって休む習慣がついているんだ。これはもう十数年来の職業病みたいなものなんだから仕方ないよね?」
「……先生、昼休なら明けてもう三時間経ってますよ?ほとんどの棋戦で時間切れ負けですよ?」
ぼくはオーバーに肩をすくめて冷淡に突き放す。
「……きみはもうちょっとユーモアを解する文化の人だと思っていたよ」
毛先のとっちらかった黒髪をぽりぽり掻いている先生――こと我らが山井浩江は、こう見えてれっきとした将棋のプロ棋士である。本人曰く、五段の上、六段の下。つまり、もうちょっと頑張ると六段……というところから何年か彼の時計は針を進めるのをお休みしているらしい。
容貌は美丈夫でも醜男でもない――そもそも目がパッチリしているとか、口が大きいとか、そういった種類の特徴に著しく欠ける。平均的日本人顔としか表しようがなく、強いて言えば色白でやや痩せぎす。うん、存在感も含めて全体的に薄い。パリパリしてそう。顔に関してはいつか「上方のルーツは大抵渡来系だからこれがスタンダード」ってのたまっていたけれど。
そんな先生はこの春、将棋連盟関東本部を離れ、関西に移籍するとともに生まれ故郷の京都へ戻ってきた。もっとも修業時代は関西所属だったので、厳密にいえば復籍、または出戻りである。「余生はふるさとで送ると決めた」との別れの辞に「まだ三十代で何言やがる」同僚陣からは飛車を切るようなツッコミが入ったという。そののち、ひょんなことからまったく縁もゆかりもなかったぼくらは出会い、あれやこれやを経て今に至る、というわけだ。
ここで内緒の話。先生の名前は本来『ひろえ』と訓む。ただしそれだと『病拾え』のようで甚だ縁起が悪い。それで有職読みした『こうこう』で通しているんだとか。親の顔が見てみたい……けど、きっとパリパリした感じに違いない。うーん、日本語って難しい。
さて、難しいといえば、いぎたない、家汚い、言動にあまり意味がない、と三拍子揃った先生も一応将棋指しであるからにして、それなりにちゃんとしたスーツを着用している。ただ、いくら上着は脱いだっていってもそのままお昼寝しないでほしいなあと思う。ズボンが皺になっちゃうし、せっかくの戦闘服が哀れじゃんか。そんなことを考えながら掃除機をかけていると、煙草を吸い終えた先生がぼうっとこちらを見ている。
「なんですか」
「いや、寒くないのかなって思って」また肘にコトンと顎を預け「若者はいいなあ。おじさんはもうだめだ。秋入るともう必至かかっちゃう」
「若いって言ったって親子ほど違わないじゃないですか」
ふくれっ面。たしかに今日のぼくはネイビーブルーとホワイトのボーダーTにベージュのハーフパンツという格好だけど、いささか子どもっぽすぎるだろうか。年相応じゃない?
ふたたび内緒の話。先生にはうすうす感づかれているようだけど、友人間でのぼくのあだ名は『ナマラ』だ。解き放つ、北の国から感。親というより祖先案件だね、これ。
「寒いのには強いですから。でも、京都のほうが冬はキツいかな」
「そーう?」
「なんていうか、意地悪な感じの寒さ。友だちいなさそうな」
「ふふふ、真綿で首を締め上げるような……ね」
何でも将棋的表現につなげたがる先生はそう呟いておかしそうに笑うと、新しい煙草をくわえて畳にごろんと寝転がった。
「ちょっと先生、もうすぐ十六時半。依頼人の方が来られますよ!」
依頼人?
その説明の前にもひとつ説明を挟むと、プロ棋士というのは将棋連盟に所属してはいるものの個人事業主であり、したがって副業は自由。
トップ棋士ともなればその年収は対局料と賞金だけで数千万から億を超えるけど、下位棋士はぶっちゃけ最低限の生活が保障される程度の収入しかない。妻に子どものいた日には当然首が回らなくなるので、対局以外でもお金を稼ぐ必要にかられる。その主な手立てはアマチュアへの指導、テレビやネット放送での解説、将棋関連書籍の執筆、あるいは将棋道場を経営――こうして口に糊するわけだ。ただ、いくら何でも「コンビニでバイトしてます」という話は聞いたことがない。棋士は食わねど……高美濃から銀冠へ組み替え持久戦辞さず、である。
五段の上たる先生は、そういった意味ではけっこうギリギリのライン――段位というものは一度上がれば二度と下がらないためあまり参考にならないが成績的な意味で――にいて、ただし気楽な独り身だから、お金に困るほどのことはないと思うけど、やっぱり副業に手をそめている。
探偵である。
どうか聞こえなかったふりをしないでいただきたい。ぼくのメンタルは鋼鉄のマシュマロなのだ。もう一度言おう。
探偵である。
もっとも先生の場合、依頼料を受け取っているのかいないのかイマイチ判然としないところがあり、趣味と実益が八対二……うう、九対一くらいかな。ディレッタント的ディテクティブ。そう、ぼくらのひょんな出会いも、そんな先生ととある事件を巡る過程で起こったのだ。
そして、各棋戦のトーナメント真っ盛りの今、まさに将棋の秋。けど、春から夏にかけ生まれたての柴犬のようにコロコロ転がされ負けまくった先生には出番がなく暇を持て余し、小人閑居して不善をなさないかわり大して徳も積んでいなかった。むしろ生活者として詰んでいる。
そんな先生のもとへ久々に仕事の依頼が舞い込んできたという。ぼくは限られた時間の中、『強盗に入られた部屋』をなんとか『男子大学生の下宿』まで引き戻し、お湯を沸かして来客を待った。