図書館での出会い
今回は、私の描写力不足で、読みにくさが増しています。
また、後書きに作中の書籍(評論文)を乗せています。
『作中の作者の作風』と『立ち位置』を想像しながら、論調を考えるのは楽しいですね。文章は下手だし、ちょっと保守寄り論調になったけど。
図書館で気ままに本を探していると、ひとりの女子生徒が話しかけてきた。
「生徒会長ですか?」
「そうですが、何か」
声のする方向に振り返れば、柔らかな笑みを浮かべた少女が近づいてくる。私を見ると両手を合わせて、友好的な態度を装ってきたが、見覚えのない小柄な少女だった。
「私は二年の宇佐川と申します。お見知りおきください」
「どうも」
たった今、私は本を取ろうとして手を伸ばした姿勢で固まっている。この広い図書館で、やっと興味ある本を見つけたのに、少しだけ邪魔された気分になった。
棚から本を引き抜いて、それを両手で持つ。タイトルは『日本の近代史から見る世界の終末論』という評論文である。
(※後書き欄に、要約を記載)
「それで、私に何か用でも?」
「はい。以前から、お話ししてみたいと思っておりました。私も読書は好きなので」
気品ある物腰と言葉遣いに、慣れない後味の悪さを感じてしまう。控えめに言っても美しい少女であるが、私が近寄るような人物でもない。
交友を築くことと社交を持つことは意味が違うが、この場合は生徒会長という立場に反応して近づいているから、生徒と言えど目的は社交と考えていい。
上品なオーラを隠していないのを見れば、自意識が高いのが鼻についてしまう。良いところのお嬢様であるのを見せ付けているようにも思える。
社交とは、かけ離れた社会的地位の者同士が持つものではない。片方が良くとも、生活や常識に隔たりがあるから、意図せずに傷つけることが往々にしてある。
そこを間違えていると、痛い目を見るのは常に弱者の方である。関係のない第三者を巻き込んで、不幸な結果を起こしてしまう。気軽に食事と誘ったお店が、特別なドレスコードを必要とするなんてざらにある。
もちろん、自分が目指す場所の通過点として、他者を利用するのも選択肢としてはある。でもそれは、必要とすればこそなのであり、自分から関わって良い道理はない。
「私とお友達になりませんか? 貴女に興味があります」
「……そういう趣味は無いですから。失礼します、宇佐川先輩」
気弱そうな見た目をしているが、目の奥は笑っていない。日常的に本心を隠している者がする笑みであり、子供が他者に向けるものではない。
言葉だけを見れば交友を求めているように見えるが、それが巧妙に隠された地雷であるのは明白だった。
「お待ちください……」
本を借りようと受付に歩みを進めるが、後ろ髪を引かれるように声を掛けてくる。
「何を勘違いされているのか分かりませんが、本当に、仲良くなりたいだけですよ。そこの喫茶店でお話ししませんか?」
「今日は用があるので、これで」
何をそんなに必死なのか分からない。焦ったような雰囲気は伝わってくるが、初対面で執拗に語りかけてくる理由にはならない。そんなの、下心を隠していないと言っているようなものではないか。
「(どうせ、何もないのでしょう?)」
「ん? 何か言いました?」
気のせいか、少女が小声で呟いてきたが、聞き取れるほどの音量ではなかった。不気味ではあるが、興味がないので形式だけ尋ねておく。
「いいえ。引きとめてしまってごめんなさい。今日は諦めます……」
しなを作りながら、苦笑いの表情でそう口にする宇佐川先輩は、何を考えているのか分かりづらい。要件を最初に伝えない誘いほど怪しい話はないし、一度は要求を通したという心理的な優位を取る為の駆け引きにしか見えない。
「それでは」
これ以上は用も無いので、私はその場から早々に立ち去る。
今日は一冊しか本を借りられなかったけど、面白そうな作品を見つけられたので良しとする。私は捻くれた主張の評論を読むのは嫌いじゃない。ある主張に対して否定的なものや肯定的なもの、飛躍の大きいもの、どれを読んでも得るものは大きい。
そんな視点があったのかと、誰かの思想を知ることは大局観を養うことに繋がる。理解できない内容であれば、語られていない利害や暗黙知が含まれていることになる。
作者の考えを伝える作品、出版社の立場を示す作品、社会思想を広める為の作品。背後にあるものを読み解くことで、どんな社会風刺があるのかを気付かせてくれる。
主張が全て正しいとは言わないけれど、誰かの立場から見れば正論なのである。それはとても大切なことであり、誰かと対立か協調どちらを歩む場合でも、背後にあるものを知っているかで取れる選択肢は広がる。同時に、実害のある選択肢を避けることにも役立つ。
それに特定の新聞やニュースの情報を鵜呑みにすれば、視野は狭まってしまう。彼らには『支援者』や『出資者』と呼ばれる、個別の目的を持った営利集団が背後にいて、それらの不利益となる情報は意図的に隠される傾向が強い。
例えるなら、医者の為の団体が、医者を批判する訳がない。弁護士が集まった団体が、弁護士の不利益になる情報を語らない。それと同じことが、どんな分野にだって言える。
「宇佐川って、どこかで聞いた事があるような」
河川の名前だったか。珍しく、記憶を検索しても出てこない。
覚える必要もないほど、些細な記憶だったのか。あるいは誰かと同じ苗字で、引っかかっているだけなのか。
「別にいいか」
思い出せないなら、必要のない記憶なのだろう。覚えようとしない記憶は、私でも思い出すことは難しい。
空を見上げると、夕日が綺麗でため息が出た。自然を美しいと思える感性は、どちらの私によるものか。どっちも好きだった記憶があるから、その判断は難しい。
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※読み飛ばし推奨
以下の文章はフィクションであり、作中の日本史を説明する為の、補助文章です。
過激な世界史解釈が含まれています。
---- 評論『日本の近代史から見る世界の終末論』要約
最後は、恐怖によって塗りつぶす。
これは、世界のスタンダードである。
民主主義を掲げるB国も、共産主義を実践するC国も、裏には巨大な軍隊という安全装置を置くことで、暴力による支配を続けている。
世界の支配構造は、今も昔も変わらない。
いつだって武力、あるいは経済力を背景にした傭兵産業を潤すことで成り立ってきた。不変の事実である。
ただ一つ、現代の日本という事例を除いては。
日本は江戸時代より後、魔法という力により個人の能力が向上した。これにより、後世から見ると日本は世界的な傭兵国家となった。
誰とも関係なく、お金を受け取れば裏切ることなく双方の軍隊に着いた。一騎当千の魔法使い。
それが、いずれ迎える終焉を早めることになったのは、皮肉な話である。
なまじ、産業力では劣っていた日本が、銃やミサイルで交戦する時代に、個人の武勇で戦局を変えてしまう力を得た。魔法という、従来とは違う法則によって。
それが、全ての国から恐怖を生んだ。
経済力が伴わない強さを持ち、鎖国により国家間の同盟という後ろ盾を得なかった傭兵国家は、誰からも疎ましい存在となった。
それからはB国を主導に、世界は一国を排除する方向に動き始めた。
戦車の質や量だって何世代も劣るものしか作れないのに、群雄割拠を地で往く日本は、近代化に逆らうアナログ国家と言えた。それがデジタル国家に淘汰されるのは、現代を見れば自然の摂理と表現しても差し支えない。
新しい兵科である情報戦・近代戦を経験しなかった日本は、傭兵でありながら敵味方の双方から袋叩きにされた。諜報と暗号による、敵味方が連携しての掃討戦が行われたのだ。
その逆襲の為に仕掛けた国際戦争は、大局の参謀力を欠く日本にとって、やはり後世から見れば『勝ち目の無い戦争』だった。過去に参加してきた戦争も、大国の思惑に乗る形での勝利をしたにすぎない。
局所的な勝利を収めることはあれど、世界の陸地面積から見れば百分の一に満たない島国の、ほぼ単独な戦争に勝ち目がある訳がない。
物量による消耗は重なり、装備の近代化により兵士の質は相対的に埋められていく。一騎当千の兵士すら、その状態で数万の軍勢による制圧を受ければ、いずれ生き残る者より死に逝く者の数が圧倒するのは分かりきっていた。
結果として、負けた日本は戦争に関する一切を放棄した。交戦権も、集団的自衛権すらも全てを。国民が殺されようと、他国に報復する力は存在しない、紛争に抗うための力すらない、徹底した非戦国家になった。
それは、悪いことばかりじゃない。疲弊した国力を回復するのに、軍事を放棄したことは最良の選択だった。法治国家である事を利用して、戦争の放棄をうたう憲法による法律の制限は、上手く機能してくれた。
同時にそれは、世界で最も先進的な憲法であると言える。戦争をしない世界、そのビジョンを見せてくれる試金石とも呼べるだろう。
――だが、それも長くは続かなかった。
戦争を放棄したことで国力の回復は著しく、支援という名の押し売り物資を買わされても、理不尽な買い叩きを受けても、結果的に日本は運が味方して繁栄した。
それでも、世界の悪意は予想以上に大きかった。戦えない国が、不相応にも好景気を維持するのが気に入らない。支配するための軍隊を置いても、その国民性から大した反乱など起きるはずもなく、意味はあるけど活用しきれない現実に不満が残った。
その間に、共産圏の国家が台頭を始め、冷戦と呼ばれる世界を二分する争いが起った。片方の盟主により、日本を遊ばせておくのが惜しくなりはじめた。結果的に警察予備隊、保安隊、後の自衛隊と実質的な軍隊を作り上げた。
だが彼らは、日本が法治国家であり、憲法が戦争を許さないことを忘れている。自分達が作った枷を忘れて『戦えないって、何?』とは虫が良すぎる。それは『お前達の問題だろう』と言われるのは心外である。
総じて、今も昔も世界は暴力によって支配されている。
純粋な武力、経済的な圧力、共産圏の数による圧殺。どれかに支えられた軍隊という抑止力により、世界は戦前と変わらない。
共通の敵を欲する大国、利害がぶつかり合う大国、戦争を楽しみたい民族や国家。それらが世界の覇権を握っている。
日本は戦争なんてしたくない。戦争をするより、発展に力をそそぐことの方が、メリットが大きいと知っているから。それでもいずれ、大国の思惑に乗り、せざるを得ない状況があるかもしれない。
それらを踏まえたときに、ひとつの破滅と終末が見えてくる。
現代の戦争は、短時間で決戦すると言われている。物理的な距離に比べて、武器の性能が上がったために、火力が過剰になったから。一節では無人戦闘機による、代理戦争説というものもある。
それでも言おう。
人間は、血を見なければ納得しない。殺すか殺されなきゃ、痛みを伴わなければ、この先も歴史は繰り返される。現代では方法もえげつなくなり、経済戦争による餓死者、生物兵器による病死者、大量破壊兵器による政府機能の実質停止と殺戮。いろいろある。
だが、それらが無くても周期が遅くなるだけで、いずれは終末を迎えるだろう。
私達に出来ることは、今をただ精一杯生きるだけ。地球に生きる七十億人の全人類を、納得させるなんてできはしない。狭い日本でだって、意見を統一することなど不可能だから。
もし可能性があるとすれば――。
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以上、終わりです。
本文より長いという事実に、驚愕しています。




