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夢の中。炎と黒煙。白い羽。part3

 すると、それは外への出口であった。狭い路地の左右は雑居ビルのような高い建物に挟まれているが、わずかに見える細い空には星一つない夜空が見える。

 

 街灯はほとんどなく、道を照らすのは左右の建物の窓から漏れる明かりのみで、その微かな明かりが、路に点々とできた水溜まりをてらてらと輝かせている。そして、ここにも人影は全くない。

 

 かと思いきや、建物の壁に立てかけられている古びた自転車の傍で、黒い何かが蹲っていることに高矢は気がついた。


「あれは……人? もしかして、夢を見ている人の意識か?」

 

 思わず桃華のワンピースを握り締めながら尋ねると、桃華は高矢の肩を軽く抱き寄せ、そっと足を踏み出した。


「そう……かもしれないわ。でも、わたしは違うと思う。だって、意識は普通、あなたのように、その人自身の夢の中から出ては来ないし……それに、もっと近づいてみれば解るわ。あれはなんというか、違うのよ。人なのだけど、人ではない……。動物に近いような剥き出しの欲望の塊、そんな感じなの」

「剥き出しの欲望……? つ、つまり、襲いかかってくるってことか?」

「……ええ、中にはそういうのもいるわね」


 声を潜ませて言いながら、桃華は慎重な足取りで細い路地を進んでいく。その掌からは、これまではなかった緊張が心なしか伝わってくる。

 

 自転車の陰に身を隠すように蹲っているそれは、置物のように動くことはない。全身が暗い灰色がかった霧で覆われているためにその表情など何も解らないが、その目がじっとこちらへ注がれていることは肌に痛いほど感じられる。


 獣のようで獣とはどこか違う。獣にしては陰湿なその視線に寒気を感じつつも、どうにか無事にそれの前を通り過ぎる。こちらを追ってくる様子もないことを確認し、高矢はホッと胸を撫で下ろす。


「確かに、アレは人間じゃないな。でも、動物でもない。言うなれば……そうだな、欲望の塊かもしれない」

 

 ええ、と桃華もその手からようやく力を抜きながら、


「だから、中には危険なものもいるわ。でも今の個体のように、全てがそういうものというわけではない。希望であったり、憧れであったり……人間の欲望が全て悪ではないように、全てが攻撃的なわけではないのよ」

「だとしても、そんなの判別しようもないだろう。霧に隠れて表情も何も解らないのに」

「いえ、案外そうでもなくて、見た目でもいくらか判断できるのよ。なんというか、危ないヤツほど黒いの」

「黒い? 今のヤツは明らかに黒かったぞ」

「よく見たら少し灰色がかっていたでしょう? 暗かったから解りにくかったけれど」

「あ、ああ……そう……だったな、確かに」


 そんな気もするが、正直、怖くてよく見ることができなかった。しかし、これ以上プライドが砕けてしまわないためにも納得の面持ちを作って頷くと、桃華はとある鉄のドアを重そうに押して再び建物の中へ入って行きながら、


「ただ、どちらにせよ、なるべく近づかないほうが身のためよ。彼らに『見透かされて』しまうから」

「見透かされてしまう? 何をだ」


 扉の中は広い廊下だった。天井は高く、大理石の床の中央には分厚い赤絨毯が敷かれ、壁には等間隔で燭台が設けられた、まるでヨーロッパの古城を思わせるような、長い、一直線の廊下である。


 そこへと入ると、桃華はどこか後ろを気にするようにしながら扉をそっと閉め、燭台の薄暗い灯りを横顔に受けながらこちらの問いに答える。


「彼らが見透かすのは、あなたの心。あなたが何を求めているのか、あるいは何を恐れているのか……。そういう人の弱い部分を『ロウ』は敏感に嗅ぎ取って、そこにつけ込むの」

「ロウ?」

「ああ、ええと……こういう夢の下に広がっている場所にいるから、わたしが勝手にそう呼んでいるののだけど……変かしら」

 

 と、桃華ははにかむような顔をするが、高矢は興味なく肩をすくめて歩き出し、


「ところで、この『冒険』の目的地は一体どこなんだ? いい加減にそれを教えてくれ」

「向かっている場所は……特にないわ。朝までこうして歩いていられれば、それで――」


 桃華は大きな歩幅ですぐに高矢の隣に追いついたが、しかしその直後、何かにギクリとしたように足を止めた。

 

 見ると、桃華はやけに張り詰めた表情をしながら、ただ燭台の火が揺れ動いているだけの背後をじっと見つめている。


「どうした? 何か……いるのか?」

「コウくん、こっち!」


 高矢の腕を掴み、桃華は前方へと小走りし始めた。

 

 と思うと、前を通り過ぎかけた開きっぱなしの扉へ入り、その木の扉をしっかりと閉める。そして、どう見ても歯医者の診察室であるその清潔な部屋のとあるブースへ駆け込むと、高矢をぬいぐるみのように後ろから抱き締めながら敷居の影に身を潜ませた。


「おい、なんなんだ。何が起きているのか、ちゃんと説明しろ」

「安心して、コウくん。あなたは必ずわたしが守るから……。わたしの命に替えても、絶対に……!」

「命って……」

「ああ、解ったかもしれない。背中に生えたこの羽は、きっとわたしの意志の表れよ。絶対にあなたを守るという、この意志の……!」

「守るって、何から――」

 

 ギィ、と扉の軋む音が、不意に部屋に響いた。


 開けられたのは、おそらく先程、自分たちが入ってきた扉である。高矢が言葉と息とを咄嗟に呑み込むと、しんとしたその静寂の中に、ピチャリ、と水滴の音が混じった。


『あれはなんというか、違うのよ。人なのだけど、人ではない……。動物に近いような剥き出しの欲望の塊、そんな感じなの』


 という桃華の言葉が、思わず耳に蘇った。

 

 静けさに混じる荒い呼吸の音と、粘液が垂れるような微かな水音。これらから感じられる気配は、先程路地ですれ違ったロウとは明らかに異質だった。確かにこの気配は、人間より明らかに動物に近い、荒々しい欲望を感じさせた。

 

 獣じみた呼吸と静かな水滴の音を立てながら、それは裸足で歩くような足音を立ててこちらへ近づいてくる。高矢の頭を胸の谷間に抱え込む桃華の腕が震え出し、その心臓の鼓動が心なしか後頭部に伝わってくる。高矢もまたなすすべなく、ただ石のように硬直する。

 

 ――来た……。

 

 薄壁越しのすぐ背後で、粘り気を帯びたような水滴の音がピチャリとする。ブースの前を横切る通路、すぐそこに、間違いなく何かがいる。


 高矢の頭に顎を押し当てていた桃華の呼吸が、ピタリと止む。高矢もそれに倣って呼吸を完全に止めるが、どこまでも激しくなる心臓の音は止めようもない。この音を聞き取られて、今にも何かが目の前に顔を出すのではないか。そう想像してしまい、さらに鼓動は激しくなる。

 

 が、どうやらそこまでの鋭い聴覚は持っていなかったのか、何か――ロウはそのままブースの前を通り過ぎ、どこかの扉を開けて部屋の外へと去っていった。

 

 部屋に戻った元の静けさから、高矢はそれを確信し、


「お、おい、もう大丈夫だろう。苦しいぞ」

「ごめんなさい。そうね、もうきっと大丈夫……」

 

 深い安堵の息を漏らしながら、桃華はうっすらと汗が滲んだ腕を高矢の身体から解き、熱いほど熱が籠もった胸の谷間から高矢を立ち上がらせた。


「今のヤツ――ロウ、だったか? あれがさっきのとは違う、人を襲う類のヤツ――」

「待って」

 

 と桃華は高矢の口を手で押さえつつ、ゆっくりと立ち上がる。

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