妹。猫。突然の来客。
ペンを握っていると、指の皮膚がほんのわずかだが突っ張って痛むから、長い時間、素早くノートを取り続けることは難しい。そのため、取り切れなかったノートを桃華に見せてもらって写すのが、高矢には昔からの日課になっている。
今日もその日課を終わらせるべく、家に帰ってすぐ机に向かっていると、
「お兄さん、お勉強をしているんですか?」
と、妹の蘭がノックをしてから姿を見せた。
「…………」
集中を途切れさせられた高矢は、やや切れ長の、意志の強そうな蘭の目を無言で一瞥してから、ゆっくりとペンを置き――にこりと表情を緩めた。
「ああ、そうだ。そろそろテストも近いからな。今はいつも以上にしっかり勉強しなきゃいけないんだ」
「そうでしたか……」
高矢とテレビゲームでもしようと思っていたのだろうか、蘭は寂しそうに、しかし物解りよく諦めた様子で俯く。
黒いタートルネックのセーターに赤いチェック柄スカート、黒いニーソックスという、今からどこかへ出かけるかのようにも見える服装。前髪を中央で二つに分けたセミロングの黒髪。スラリとした体つきと、凛と伸びた背筋。知性の輝きを宿す黒い瞳。
その落ち着いて垢抜けた姿からすると、どこぞの格調高い女子校の中等部もしくは高等部の生徒のように見えるがしかし、蘭はまだ中学生ですらない。ついこの前、十一才になったばかりの小学五年生である。
蘭はその大人びた目を申し訳なさそうに伏せながら部屋の外へ退きかけたが、ふと思いついたように顔を上げ、
「あ……それなら、私もお兄さんと一緒にお勉強をしてもいいでしょうか? 私も、やらなければいけない宿題があるので」
「それはもちろん――ああ、いや、やっぱり勉強なんてやめよう。実は、ちょうど今休憩しようと思ってたところなんだ。この前注文したゲームが届いてたから、蘭と一緒に遊ぼうと思ってな」
「そうなんですか。それはひょっとして、あの箱ですか?」
高矢が頷くと、蘭はベッド脇の床に置かれてある小さな段ボール箱に駆け寄り、小学生らしく目を輝かせてその前にしゃがみ込む。その姿に高矢は微笑みながら、
「じゃあ、お茶を持ってくるから、お前は先にそれを開けて準備しておいてくれ」
「いえ、私も一緒に――」
「大丈夫だ。それと、そうだ。鞄の中に、お前の好きな桜餅が入ってるから、それ食べててもいいぞ」
そう言って、高矢は鼻歌混じりに部屋を出て階下へ降り、二人分の熱いお茶を用意して部屋へ戻る。と、段ボールを開けてテレビゲームの準備をしている蘭の隣には、折炭家の愛猫である茶トラのゴローが行儀良くお座りをしていた。
テレビの前にある小さなテーブルにお茶を載せたお盆を置き、ゴローを挟んで蘭の隣に腰を下ろす。すると、ゴローが暖を求めるように高矢の膝に載ってくる。
隣には可愛い妹がいて、アグラを掻いた足の上では愛猫が丸くなっている。それは高矢にとって、まさしく至福と呼ぶに相応しい一時だった。いつまでもこんな時間が続けばいい。そんなことを思いつつ、ゲームへの集中力も散漫に幸福を味わっていると、
「そういえば、お兄さん、一つ質問があるのですが、訊いてもいいでしょうか?」
と、蘭が横スクロールのゲーム画面に目を凝らしながら口を開いた。
「ああ、なんだ?」
「私のクラスには沢田くんという少年がいるのですが」
「沢田?」
「はい。その沢田くんという人が今日、担任の先生にこんなことを言われていたのです。『君は五年生になって凄く変わったねェ。大人になったなァ、うん』と」
「はは、それがどうしたんだ」
担任の教師をマネしたような口調で言う蘭に、高矢は思わず吹き出す。が、蘭は至って真面目な表情でゲームを続けながら、
「でも、です。私は、実はそれが正しくないことを知っています。沢田くんが大人になるのは先生がいる時だけで、先生がいない所ではまだくだらないイタズラばかりしています。
だから私はあまり沢田くんのことが好きではないのですが、確かに先生がいる時の沢田くんは大人なので、その時の沢田くんのことは嫌いではありません。それに、バスケットボールクラブで真面目に練習をしている沢田くんも嫌いではありません」
「つまり、何が言いたいんだ?」
まさか恋愛相談ではないだろうなと身構えたが、どうやらそうではないらしい。蘭はゲームオーバーと表示された画面からこちらへとその黒瞳を移し、
「つまり、です。私は沢田くんという少年を不思議に思っています。沢田くんは一人の人間ですが、先生がいる時と、いない時、それからバスケットボールクラブにいる時とで、まるで別人のように見えます。果たして、どれが本物の沢田くんだと考えるべきなのでしょうか? 私はとても悩んでいます」
「……なるほど」
ゲームのコントローラーを床に置き、高矢は蘭の頭を撫でて苦笑する。
「お前はまたそんな小学生らしくないことを考えているのか」
「小学生らしくないでしょうか。案外、みんなこういうことをよく考えているのではないかとも思いますが」
「少し考えることはあったとしても、お前くらいの年のヤツなら、ゲームなんてやり始めればそんなことはあっという間に忘れるものだ。でも、お前はそうじゃない。そうやっていつも色んなことを考えてる頭のいいお前のことを、俺は誇りに思う。しかしだな」
どこか照れたように頬を染めている蘭の頭から手を放し、高矢は嘆息する。
「頼むから、毎日毎日、こういう類の質問ばかりしてくるのは勘弁してくれ。おかげで不眠症になりそうだ」
「そうですか……解りました。なら、今日はこの一回だけでやめます」
と、蘭は熱いお茶で喉を潤してから、怜悧な眼差しをこちらへ向け直す。
「ちなみに、さっきの質問をお母さんにしたら、お母さんは『全部本当の沢田くんと考えていいんじゃないか』と教えてくれました。でも、それなら全部偽物である可能性もあるのでしょうか?」
「全部偽物? なぜ?」
「本で読んだことがあります。人の意識の下には無意識というものがあって、普段自分だと思っているものの下には、自分も知らない自分が眠っていると。
だから、もしも色んな沢田くんが――沢田くん自身さえもよく気づいていない沢田くんがそこからやってきているのだとしたら、確かに全て本当の沢田くんなのかもしれません。
でも、無意識というものがみんなを騙そうとして、色んな沢田くんを仮面のように都合よく使い分けている可能性もあります。
そう考えると、私たちが知っている沢田くんは全て本当の沢田くんではないということになるので、私は沢田くんをどういう少年と考えればよいのか、もっと解らなくなってしまいます」
「俺が一回も見たことがないその沢田とやらが、頭の中でゲシュタルト崩壊を起こし始めたが……でも、それはそいつに限った話じゃないはずだ。蘭、お前自身にも同じことが言える」
「私にも? そんなことはないです、私はいつもこういう私です。沢田くんみたいに色んな顔は持っていません」
「確かにな。でも、知らない人に会った時と俺と会った時とでは、やっぱり少し違う顔をするはずだ。証拠に、いくらお前みたいな好奇心旺盛なヤツだって、名前も知らない人にいきなりこんなことを訊いたりはしないはずだ」
「それは……そうかもしれません。なるほど、私も沢田くんと同じだったのですか……。全く気がつきませんでした。あれ? だとしたら、私は私自身のことも何も……?」
蘭が虚空を見つめて怪しげな言葉を呟いたのと同時、『ピンポーン』と、階下から玄関チャイムの音が聞こえてきた。蘭はハッとした顔で立ち上がり、
「お母さんは買い物に行きました。だから、私が出ないと。今度は私が働く番です、お兄さんは座っていてください」
そう言い残して、駆け足に部屋を出て階段を下りていった。
――自分の知らない自分……か。俺の中にもやはりいるんだろうか、そんな得体の知れないモノが。
『何を一々、そんなことで悩んでいるのだ。くだらない』
そんなことを言いたげな、人生を達観した老人のような表情で丸まっているゴローの背を撫でながら、先ほど蘭が口にした言葉をなんとなく思い返していると、
「コウくん、もうノート写した?」
と、蘭の友達の小学生――ではなく、ベージュのコートに身を包んだ桃華が、にこにこと笑いながら部屋に入って来た。
「あーあ、また読んだ本片づけてないんだから、もう~」
しょうがないなぁ。そう小言を漏らしながら鞄を置くと、桃華はコートを脱ぎもしないうちから、床で平積みにされている本を本棚へしまい始める。
「おい、待て。そこにはまだ読んでる途中のもあるんだ。勝手に片づ――って、おい、な、なんでお前もいるんだ」
桃華へ目をやって、不意に視界に映ったものに高矢は愕然とした。
部屋の前の廊下で腰に手を当てて仁王立ちし、まるで地上げ屋か何かのような目で部屋中を見回している、ここにいるはずのない人間――山吹は、ニヤリと口元を歪めて高矢を見据え、
「なんで? そんなの決まってんでしょ。アンタが嫌がるだろうなと思ったから来てやったのよ。っていうか、アンタ、なんなのコレ? 潔癖症のクセに割と汚い部屋ね」
「すみません、後ろを失礼します」
と、早くも客二人分のお茶を用意した蘭が、山吹の前を通って部屋へ入って来る。と、
「あ、蘭ちゃん。また野球のゲームしようよ。この前の続き」
本の片づけを終えた桃華が、ようやくコートを脱いでマフラーを外しつつ高矢の隣に腰を下ろす。蘭は桃華の前にお盆を置きながらその隣に正座し、
「はい、いいですよ。私も、桃ちゃんと再戦できるこの日を長く心待ちにしていました。どうぞまた手加減なしでよろしくお願いします」
「いや、蘭、もうお前はとっくに高学年なんだ。そこにいる永遠の小学三年生より年上なんだから、そいつにわざわざ敬語なんて使うなよ。『かかってこい、チビ』、そう言えばいいんだ」
「永遠の小学三年生なんかじゃないもん! わたしはちゃんと――」
桃華はムキになって目を尖らせ、しかしふと言葉を途絶えさせる。自分よりもやや背の高い桃華を、やや見上げるようにしながら見て、
「い、いや、でも蘭ちゃんは確かに大人だし……わたしより実質的に大人なのかも……」
「いえ、そんなことはありません。確かに、身長は私のほうが少し大人かもしれませんが、おっぱいはまだ全然、私のほうが子供なので、桃ちゃんはお姉さんです」
「ということは、おっぱいも抜かれたらわたしが年下に……」
胸のふくらみを押さえて神妙な顔をする桃華に、蘭はゲームのソフトを替えながら、
「おっぱいのことはともかく、そういえば、桃ちゃん。今日の新聞を見たら、桃ちゃんの好きなジャイアンツが最下位になっていました。しかも過去のデータから見て、ジャイアンツはこの時期に四位以下だと、最後まで四位以下の可能性が高いのです。残念ながら」
「そ、それは言わないで! 諦めなければ、まだ三位にはなれるもん!」
ふん、と高矢はゴローの喉を掻きながら、
「巨人を応援したところでお前の背が伸びるわけでもないんだ。あんなインチキ球団のファンなんていい加減やめておいたらどうだ」
「インチキ球団なんかじゃないもん! 日本で一番伝統がある格好いいチームだもん!」
リスのように頬を膨らませて怒りながら、桃華は蘭がお盆に載せてきた磯辺焼きに荒々しく手を伸ばす。
「へえ、知らなかったわ。桃華って野球が好き――」
「やめろ! お前は部屋に入るな!」
一人蚊帳の外、そして部屋の外にいた山吹が、部屋の中へと一歩足を踏み入れたその瞬間、高矢はゴローがベッドの下に飛び込むほどの勢いで怒鳴った。
「ここは俺の部屋だ、俺のテリトリーだ。だから、お前は俺の部屋に入るな!」
「ど、どうしてアタシだけダメなのよ。桃華だって、アンタの妹だって、それに猫だって入ってんじゃない」
「それは俺が入ってもいいと認めたからだ。だが、俺はお前を認めていない」
「アタシはアンタの中じゃ猫以下か」
「当前だ。いや、だが、解った。お前たちはどうせ、昼休みの時の話をまたしに来たんだろ? 話は聞いてやる。だから、下のリビングに移動しよう。悪いが、蘭。お前はここでゲームをしててくれ」
「はあ……いえ、でも、私がいては邪魔だということでしたら、私は自分の部屋に――」
「い、いや、そうじゃない。勘違いしないでくれ。俺がお前のことをそんなふうに思ったりすることは絶対にない。これから俺たちは、その……少し長くなる話をするんだ。だから……!」
「ククッ、アンタ、妹には弱いのね。いいこと知ったわ」
部屋の外へ下がっていた山吹が悪人じみた笑みを浮かべ、それからパッと愛想のいい顔を作って蘭を手招きし、
「こんにちは、蘭ちゃん。アタシ、山吹竹っていうの。これからは竹お姉ちゃんって呼んでいいからね」
と、人懐こい子犬のように傍へ歩いて行った蘭の頭を撫でさする。
「おい、俺の妹の頭を撫でるな。お前のアホさが感染ったらどうするつもりだ」
「お兄さん、人にそんなことを言ってはいけません」
と、頭を撫でられ続けながら蘭はこちらを睨み、それから山吹に小さく頭を下げる。
「兄も私も色々と面倒をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。竹お姉さん」
「カッ……!」
と、竹は息が詰まったように目を剥きながら硬直し、
「可愛い上に賢い! こんな天使がアンタの妹だなんて、にわかには信じがたいわ。クソ弟共しかいないアタシが言うのもなんだけど……」
「そんなことないよ。竹ちゃんの弟くんたち、みんな礼儀正しい、いい子だよ。わたしのこと、ちゃんと『お姉さん』って呼んでくれるし」
そう言って、桃華はなぜか鼻を高く微笑みながらズズとお茶を啜る。高矢はその湯飲みを無理矢理奪って盆に戻し、それを持って立ち上がる。
「そんな話はどうでもいい。ともかく場所を移動だ。そして相談とやらを終わらせて、とっとと帰ってくれ」




