迷宮。守り続けていた記憶。part1
今にも雨が降り出しそうな鈍重な曇り空の下、高矢は見慣れた近所の路地を走っている。
自分の背よりも高い壁が立ち並ぶ狭い路地を走りながら、高矢はふと思った。自分はどこへ向かって走っているのだろう?
立ち止まり、周囲を見回す。なんの変哲もない住宅街。自宅からすぐ近所の、桃華の家へ行く時によく通る路地である。
――ああ、そうだ。桃華だ。
自分は桃華の家へ遊びに行こうとしているところだった。そう思い出し、高矢は再び駆け出す。と、向かっている先の空の一部分が、心なしか黒い霧がかかったように黒ずんでいることに気がついた。
そこへ近づくにつれ、空へ立ち上る黒い煙は濃く太くなっていき、木が焦げるような臭いが漂い始める。なんだろう。そう怪訝に思いながらやがて桃華の家がある路地へと入って、高矢は愕然とする。
桃華の家の通風口という通風口、そしてあちこちの窓から、見たこともないほどに黒い煙が濛々と噴き出していた。その家の前には、セーラー服を着た背の高い女性が佇んでいる。
「かがりお姉さん!」
その女性――黒煙を吐き出す自宅を呆然と見上げていた桃華の姉のかがりに駆け寄ると、かがりは瞬きもせずに煙を見上げながら、何かをぶつぶつと呟いていた。高矢はそんなかがりの腕を掴み、
「かがりお姉さん! 桃華は!? 桃華はどこ!?」
「ち、違う。私は見捨てたわけじゃない。私が気づいた時には、もう手遅れだったの。だから、見捨てたわけじゃない。私は悪くない……!」
頭を抱え、かがりは崩れ落ちるように地面に膝をつく。驚きながら、髪を掻きむしるその細い指を見つめていると、
『コウくん……コウくん……』
突然、まるで空全体に淡く響き渡るようにして桃華の声が聞こえた。
「桃華?」
顔を上げると――いつの間にか、高矢は学校の廊下に立っていた。
高校の廊下ではなく、懐かしい小学校の廊下である。憶えていたその廊下はもっと天井が高く、幅も広かった気がするが、見間違いようもなく、ここは小学校の廊下だった。そして、これはおそらく夢だった。
――そうだ。俺は桃華を助けるために山吹と……。
ようやく自らのすべきことを思い出し、高矢は周囲を見渡す。
自分がこうして『目覚めた』ということは、今自分は桃華の声を聞いた、桃華に『起こされた』可能性が高い。とすると、どこか近くに桃華がいるのかもしれない。
そう思ったのだが、どこを見ても桃華の姿はない。あるのは、午後の色合いをした陽射しがうららかに差し込む、休日のようにひと気のない廊下だけだった。
しかし、とある教室を覗いてみると、瞬間、突風が吹きつけてきたようにして、周囲が賑やかな笑い声で満たされた。
教室の後ろ側で取っ組み合いのような遊びをする男子生徒たち、教室の出入り口付近や廊下で立ち話をする女子生徒たち。思わず耳を塞ぎたくなるようなほどの笑い声の波が、一挙に押し寄せてきたのだった。
だが、その遊園地のような賑やかさが、水を打ったように静まる。それと同時、教室の戸口に立っていた高矢の身体をすり抜けて、一人の少年が教室へ入ってきた。
まるでボクシングのバンテージのように両手に包帯を巻きつけたその少年は、皆の蔑むような視線を一心に受けながら、しかしその誰とも目を合わさずに窓際の席へ――自らの席へと向かう。
動き回る子供たちのせいで今まで気づかなかったが、そこには桃華がいた。今とそう変わりない、しかし今よりもやはりいくらか背の低い、昔の桃華である。
白黒ボーダー柄のTシャツに青っぽい色のスカートという服装をした昔の桃華は、掃除時間でもないはずなのに、なぜか高矢の机を雑巾で拭いていた。顔を隠すように深く俯いて、左の手首で何度も目元を擦りながら。
そういえば、自分はいつの間にか今の――詰め襟制服を身につけ白手袋を嵌めた、高校生の姿になっている。つい先ほどまでは前回と同じ子供の姿だったような気がしたが、桃華の声を聞いて『目覚めた』瞬間に、元の姿形を取り戻したのだろうか。
桃華の傍に立って、じっと自らの机を見下ろしている自分自身――小さな高矢の後ろに立ちながら高矢はそう思い、それから思わず苦笑した。
――ああ、そういえばあったな。こんなことも……。
机には、悪口の教科書を参考にしたような悪口が、色とりどりのサインペンで書かれてあった。それは油性ペンらしく、桃華が何度それらを強く擦っても消える気配がない。
と、幼い高矢が背中からランドセルを下ろして机の横にかけ、桃華の手から雑巾を奪い取った。そして窓を開け、それを外へと投げ捨てる。
「おい、何してんだよ!」
教室の後ろにいた男子生徒の一人が声を荒げ、その周囲の生徒と共に詰め寄ってくる。が、幼い高矢はそれを一瞥もせずに席へ腰を下ろす。
「お前、雑巾、ちゃんと取りに行けよ! 取りに行かないと、先生に言うからな! お前がやったって!」
「でも、取ってきても、もうあれは使えねーけどな。ゾンビの手で触られたから、あの雑巾はもう誰も触れないし」
「…………」
幼い高矢は窓の外を向いて腕組みしたまま、ただの一言も発さない。しかし、自分の記憶によれば、この後……。そう記憶を辿りながら桃華を見下ろすと、
「や、やめてよ、みんな。そんなこと言わないで。コウくんは、そんな――」
「うるせえ、このゾンビ女!」
と、男子生徒の一人が桃華の肩を突き飛ばした。瞬間、今まで沈黙していた幼い高矢が弾かれたように席から立ち上がり、その生徒に掴みかかった。机や椅子を倒すほどの衝撃で男子生徒を床へ押し倒し、その上に馬乗りになって拳を振り上げる。
耳を貫くような悲鳴が教室中で起こり、それからほどなくして中年の女性教師が駆け込んでくるのだが……昔の思い出に浸っている場合ではない、と高矢は廊下へと足を向ける。ここにいる桃華は、自分が捜している桃華ではない。
廊下へ出ると、突然、周囲の景色が変化した。
どこか見覚えのある、夕暮れの道だった。幹線道路沿いのガードレールで仕切られた歩道の真ん中に、高矢は気づくと立っていた。目の前から照りつけてくる夕陽が眩しく、思わず目を眇めると、
「大丈夫だよ、コウくん。わたしがずっと傍にいるから……。これからは、わたしがコウくんを守るから……」
背後から桃華の声が聞こえ、ハッと振り向く。と、そこには赤と黒、寄り添うように二つ並んで歩いているランドセルがあった。
まるで絶対に放すまいというように幼い高矢の上着の裾を掴みながらその隣を歩く幼い桃華と、血の滲んだ包帯が巻かれた右手をダラリと下げながら、左手で目を擦り続ける幼い自分自身……。
「…………」
この瞬間のことを、高矢はよく憶えていなかった。ケンカの後、指が曲げられないほどに手が傷だらけになったことは憶えていたが、桃華の隣でこのように情けなく泣いたことなど、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
だが、夢でこうして思い出しているということは、自分はこの記憶を胸の奥底で大切に守り続けていたということなのだろうか。
真っ赤な夕陽を背に受けながらゆっくりと遠ざかっていく二人の背中を、高矢が呆然と見送っていると、
『コウくん……』
再び、空に反響するようにして桃華の声が聞こえた。