闇の中。
「お兄さん、質問があるのですが、いいでしょうか」
どの道を歩いて帰ってきたか憶えていない。しかし、気づくと家についていた。自室へ向かって階段を上がると、足音に気づいたらしい蘭がその自室から顔を出したが、それに目を向ける余裕がなかった。
具合が悪いと言ってそれから部屋に籠もり、朝までじっとベッドに横たわり続けた。身体だけでなく頭も鉛のように重く、しかし目を瞑ってもいっこうに眠りは訪れてくれない。じっと闇を見つめ続けているうちにやがて部屋の景色が白く浮かび上がり初め、一睡もできないまま朝を迎えた。
ひょっとしたら、何食わぬ顔で桃華が学校へやって来るかもしれない。根拠もなくそう自らに言い聞かせ、高矢は重い身体を引きずって登校した。だが、解り切っていた。桃華の席は昨日と同じく空席のままで、江里原もまた休みだった。
副担任が、桃華が体調不良で入院し、江里原はそのつき添いをしていると説明した。すると、クラスには驚きの波が小さく起きたが、その波は授業が始まった頃にはほとんど消えてなくなっていた。
桃華のことを話しているらしい女子生徒が数人いたが、彼女らが本当に心配しているのは桃華のことではなく、それぞれ自分自身のことに違いなかった。
そんなクラスメイトを見ていると、つい先日の自分の姿が彼らに重なって腹が立ち、やりきれない。だから、高矢は休み時間になると逃げるように廊下へ出て、ひと気のない所で長閑な秋の空を見上げた。
頭が重く、身体が怠い。口の中はいつまでも苦く、吐き気が粘り着いたように胸から離れない。立っていることさえ辛く感じながら空を見上げ続けていると、どこからともなく桃華の声が頭に響く。
『顔色悪いよ、コウくん。具合悪いの? 大丈夫?』
今ここに桃華がいたなら、間違いなくそう自分に声をかけてきているだろうなと、気づくとそのような妄想に浸っている。
授業中も、思わず桃華の顔が目に浮かぶ。今日から桃華がいないということは、授業のノートを全て自ら取らなければならないということなのだが、どうにも集中が途切れ、それに力を入れてペンを握り続けることは、やはり高矢には難しかった。
空気が乾燥しているせいもあって、ケロイドになった関節の皮膚が余計に突っ張って痛む。ノートを取るのを諦めて痛む手を撫でていると、言いようのない寂しさが胸に湧き起こってきた。
昼休みになるとすぐ、高矢はいつものように弁当を片手に校舎外のベンチへ向かった。ベンチを綺麗に拭いてハンカチを二枚敷いてからそこに腰かけ、手袋を新しいものに取り替えて、それからモソモソと弁当を食べる。
苦い唾液の味だけがする食べ物をどうにか胃へ詰め込むと、それからは遠く彼方に浮かんでいるウロコ雲がゆっくりと形を変えていくのをただ見上げていた。するとやがて、玄関のほうから誰かが歩いてくるのが目に入った。山吹だった。
「これ……」
足元を見下ろし続けながら歩いてきた山吹が、高矢の目の前に四冊のノートを差し出す。
「桃華みたいに綺麗なノートじゃないけどさ、我慢しなさいよ」
「……?」
なぜお前がわざわざノートを貸してくれるんだ。怪しみながら山吹の顔を見上げると、その目元は泣き腫らしたように赤かった。それを隠そうとするように山吹は目を逸らして、
「昨日は……悪かったわね、八つ当たりして。これはまあ、なんていうか……そのお詫びみたいなもんよ。ついでに、これもあげるわ」
と、手に提げていたビニール袋をノートと一緒に高矢に押しつけた。袋の中には、購買部で買ったらしいおにぎりと小さなペットボトルのお茶が一つずつ入っている。
「これも……悪かったわね。桃華みたいに心のこもった手作りじゃなくて」
「悪いも何も、こんなものはいらない」
そう言ったが、山吹はそれには何も答えずに高矢の隣にどっかと腰を下ろす。「ううっ」と寒そうに肩を窄めながらスカートから伸びる素足を組み、しばし退屈そうに空を見上げてから、空へ向かって呟くように言った。
「……アンタ、このまま何もしない気なの?」
「何もできないんだ。しょうがないだろ」
「まだ何も試してないじゃない」
「試さなくても解る。アイツがいないと夢の中で意識を持つこともできないのに、どうやって助けに行くんだ」
「何よ、いつになくしおらしいわね」
と、山吹は鼻で笑いながらこちらを見て、
「いなくなってようやく、桃華の大切さに気づいたってわけ? だから、アタシがせっかく忠告しておいてあげたのに……ホント、アンタは馬鹿な男だわ」
「…………」
「な、なんか言い返しなさいよ。一応言っておくけど、今のは冗談――」
「できないんだ。俺には……何もできない」
自分に何かを期待しているらしい山吹に、高矢ははっきりと言う。山吹の買ってきたおにぎりを手に取り、そのビニールを剥いで、おにぎりを口へ入れる。それはまるで凍っているように冷たく硬く、不味かった。
『どう? 美味しくできてるかな?』
『べ……別に、おにぎりに美味いも不味いもない。誰が作っても同じだ』
『っていうか、あんた、潔癖症とか言っておきながら、人の作ったおにぎりなんて食べるんだ。それってインチキじゃない』
『い、インチキなんかじゃないよ、わたしのは特別なんだから。ね、コウくん?』
『別に何も特別じゃない。捨てるのがもったいないから食ってやってるだけだ』
ついこの前、ここで三人で交わした会話が、おにぎりを口へ入れた瞬間、鮮明に蘇った。桃華の声が、笑顔が、そしてその時食べたおにぎりの優しい味が胸に溢れて、高矢の視界が思わずぼやけた。
「ど、どうしたのよ? 喉が詰まったの? もう、子供じゃないんだから……!」
高矢が目元を押さえると、山吹は慌てたようにそう言ったが、やがて高矢が泣いていることに気がついたらしく、小さく息を呑んだ。声を震わせて言う。
「や、やめてよ……アンタらしくない。アンタはこんな時でも、いつもみたいに偉そうにしてなさいよ。簡単に桃華を助けて、アタシたちをバカにしなさいよ。ねえ、ねえ……!」
「許してくれ。俺には何もできないんだ……」
何もできない、許してくれ。高矢はただその言葉を繰り返すことしかできなかった。
その日、家へ帰ると、耐えられない疲労感に引きずり込まれ、高矢は途切れ途切れに眠りに落ちた。そのどれもが眠りと覚醒の狭間を行きつ戻りつするような浅い眠りだったが、高矢はその中で――桃華の声を聞いた気がした。
リビングへ続く扉、その上のほうから溢れ出るようにして炎が廊下の天井へと流れている。
その炎と共に、夜闇のように黒い煙が続々とこちらへ吐き出され、それはまるで天井を這う大蛇のごとくうねりながら二階へと昇っていく。物が焦げる臭いが、思わず咳き込みたくなるような濃さと熱さで押し寄せてくる。
高矢はその光景を、ただ玄関に立ってぼんやりと眺めていた。恐怖はなく、焦りもない。頭に霧がかかったように何も感じず、何も考えられない。
しかしふと、遠くから桃華の声が聞こえたような気がしたのだった。その声はパチパチと木の割れるような音に消されてほとんど聞こえない。しかしその声は確かに、まるで叫ぶようにして高矢の名を呼んでいた。
「桃華……!? 桃華! どこだ、どこにいる!? 桃華っ!」
叫びながら、高矢はベッドから飛び起きた。部屋は、再びやって来た新しい朝の光に包まれていた。