病室。静止した景色。
ナースステーションのすぐ前にある個室が、桃華にはあてがわれていた。
目を刺すような夕陽が西向きの窓から差し込み、真っ白なベッドが鮮やかな朱色に染まっている。まるで写真のように静止したその景色の中で動いているのは、心拍計の画面に一定の間隔で流れる波と、点滴の雫だけである。
薄緑色の病衣を着た桃華は布団の中で仰向けに横たわり、部屋のすぐ前を看護師が処置台をガラガラとやかましく鳴らして通っても、その眉一つ動かさない。
江里原は女性看護師に呼び止められ、ナースステーションで彼女と何やら話し込んでいる。高矢と山吹が先に病室へと入り、その扉を閉めると、部屋は深海のような静けさに包まれた。
「嘘でしょ……?」
山吹は桃華の枕元へとフラフラとした足取りで歩くと、その静かな寝顔を見下ろして佇んだ。その手からドサリと鞄を落としながら床へ膝をつき、
「どうして……どうしてアタシを呼んでくれなかったの? アタシを呼んでくれれば…!」
と、その目に涙を滲ませて桃華に語りかける。しかし、やはり桃華は眠りを妨げられた不快そうな表情さえ浮かべることなく、まるでベッドの一部となってしまったように動かない。
高矢はベッドの足元から二人の様子をじっと見つめていたが、やがて扉へと足を向けてその取っ手を握った。
「ちょ、ちょっと……どこに行くのよ?」
山吹が慌てたような声で尋ねてくる。高矢は病室の扉を見つめながら、
「帰る」
「帰る……?」
「ああ、これ以上、ここにいる意味はない」
「い、意味って……? アンタっ――アンタ……それ本気で言ってんの?」
と、山吹は荒げかけた声を抑えながら、こちらへ詰め寄ってくる。高矢は桃華から目を逸らし続けたまま、
「何を怒ってるんだ? 俺がここにいても、できることなんて何もないんだ。なら、帰るしかないだろ?」
「そんな……そんな言い方ないじゃない」
高矢の肩を力なく掴みながら、山吹は震える声で言う。
「これじゃ、あまりにも桃華が可哀想よ。桃華は……桃華は、アンタに助けを求めていたのよ? 確かに、あの子の力になれなかったアタシには何も言う資格がないのかもしれないけど……でも、そんなのはあんまりよ。
頼りにしてたアンタに助けてもらえなくて、しかも、自分がこんなふうになっちゃってもアンタは平然として……。桃華のアンタへの想いは、一体なんだったのよ……?」
「悪いな」
吐き気に似た息苦しさに耐えられず、高矢は扉を開けて廊下へと出た。そして、
「……俺は感情を顔に出すのが何より苦手なんだ」
そう言って、病室の中を振り返ることなく扉を閉めた。すると、ナースセンターの前にいる江里原が、もう帰るのかと驚いたような顔でこちらを見たが、高矢は何も言わずエレベーターへと向かった。
だが、その途中、とある病室の前で高矢は思わず足を止めた。『中村由紀寧』。桃華が夢の中へ捜しに行った少女の名前が記されたプレートが、その病室の扉脇に貼られていた。
どうやら病室の中には誰もいないらしい。心臓の音がやけにうるさかったが、耳を澄ましてそう判断すると、高矢は恐る恐るとその病室へ入った。
桃華の部屋をほとんどそのまま持って来たような光景が、その中にはあった。明らかに違っているのは、ベッドに横たわっているのが桃華ではないことだけである。部屋には血のように朱い西日が差し、心拍計の波が無機質にリズムを刻んでいる。
桃華は点滴で済ましていたが、中村は鼻にチューブを差し込んでいた。そうして栄養を摂っているようだったが、その頬はまるで老人のようにこけ、布団から出た手首は木の枝のように細かった。枕元の棚には、中村のものらしい眼鏡が畳んで置かれてあったが、そのレンズにはうっすらと埃が積もっていた。
口の中に強い苦みが広がり、凍えるような震えが身体の芯から湧き起こる。高矢は何も考えられず、床が波打っているような感覚を覚えながらその病室を後にした。